珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

罪悪感とパワータイプについての覚書|ごめんなサイバーエンドドラゴンからのエターナルエヴォリューションバーストで私は死ぬ

罪悪感ガチャ

同じ行為を働いても、罪悪感を抱きやすい人間と抱きにくい人間がいる。これはなかなか由々しき不平等よなあ。特段悪いことをしたわけでもないのに謎の罪悪感に延々苛まれるような人間もいれば、法に触れるほどのことをしておきながら何の後ろめたさも感じないような人間もいる。由々しい。由々しいなあ。神様はなーんでこんなこんな風に人間を作っちゃったかなあ。

 

倫理を矛に、倫理を盾に

それでまあ、どっちが純粋に得かって言われたら、後者でしょうね。罪悪感を抱きにくい人間の方。実際、人間の行動パゥワーの上限を開放するには、「気にしない」という呪文だけで十分である。人間がもっとあらゆるものを気にしなくてもよかったなら、科学も技術もその他なんやかんやも今よりずーっと進んでいることは確実なのだから。社会に経済、文化に芸術、医学にロボット工学、はたまた宇宙開発とか、下手したら宇宙を超えて別次元を開発してるかもしれないし、とにかく人間の周りにあるなんやかんやが今を遥か置き去りにするところまで進んでいたでしょうから。そんな世界に住みたいとは思わんが、ちょっと覗いてみたい気はするね。当然、それらの足元に積み上げられる犠牲の数も、今のウン倍、いやウン乗倍、いやそれどころではなく、天文学的というか、指数関数的というか、【あとでここにかっこよくて頭がよさそうに見える専門用語を入れておく】的に、増加していただろう。でも、ここでの人間はありとあらゆるものを気にしなくてよいのだから、そんなものは数の内にも入らないのだ。人の倫理に、今日も感謝だね。

 

ゲームにおける必殺技後の硬直時間ってどうしてあんなに長く感じるんだろうな

罪悪感を抱くべきときに抱き抱かなくてもよいときには抱かない模範的な人間と、罪悪感を抱くべきときに抱かず抱かなくてもよいときにも抱かない奔放な人間のことは一旦置いておこう。罪悪感を抱くべきときに抱きすぎて破滅し抱かなくてもよいときにも抱いて破滅するようなタイプの人間のことを考えよう。こう書いてみると、罪悪感を抱えやすい人間は案外パワータイプなのかもしれない。破滅へズンズン突き進むタイプの人間にパワーが無いわけがないもんな。破滅へズンズン突き進むにもパワーが要るんだよ。ほらゲームでもいるでしょ、めちゃくちゃピーキーなキャラが。高攻撃力かつリスキーな高火力技を色々持ってるけど防御力とスピードが皆無に等しいからクッソ扱いづらくて油断すると自分の技の反動ですぐ死ぬみたいなキャラが。玄人向けってやつ。罪悪感を抱えやすい人間は、きっとそういうキャラなんだよ。別に弱いわけじゃないもん。実はパワータイプなんだもん。ただちょっとパワーの矛先を間違っちゃってるだけだもん。その矛先をついウッカリ自分に向けちゃってるだけだもん。

 

ハイハイ自己肯定感自己肯定感

罪悪感ってのは……あー、元をたどれば自己肯定感の低さが云々。フゥー。なるほどね。「自己肯定感」って言葉、万能すぎませんか?自分の中ではぼんやり分かってるけど外に向かって明確な理由が述べづらいときに、とりあえずこれに原因を帰しとけば少なくとも間違いにはならんやろ、みたいな。ポジティブなことは自己肯定感の高さに、ネガティブなことは自己肯定感の低さに、原因を全て押し付けておけばだいたいなんとかなるのじゃ。いやあ、「自己肯定感」くんへの期待がデカすぎるね。実生活における自己肯定感くんには1ミリも期待してないんですけどね。

 

くっさ

なんか最近常に多方面への申し訳ない気持ちがいっぱいで困っちゃうな。申し訳ない気持ちって何のゴミで出せばいいんだろう。燃えるゴミ?燃えないゴミ?埋め立てゴミ?粗大ゴミ?少なくとも資源ゴミではあるまい。申し訳ない気持ちは決してリサイクルできない。永遠に悪臭を放つだけだ。