珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

見えない未来見ようとして旅行当日倒れ込んだ覚書|隔世遺伝した心配性も私の代で絶えるので大丈夫です

ま、祭りだ~…………

調子がいいときに決めた予定を、調子が悪い時に決行する羽目になり、なんともならん気分になること、ある。個人の予定なんかもまあそうだし、世の中様の予定なんかもそうだ。ポストにぶち込まれていたフリーペーパーをぼんやり眺める。あっちもこっちも祭りの開催予定ばかりである。そりゃ、夏だもの。祭りしなくてどうするのよ。祭りだ祭りだ。しかしこれはあくまで、世の中様の調子がよかったときに決められた祭りの予定なのだろう。今、世の中様の調子は最悪である。かくいう私の地元もついこないだまで例のアレが100人超えてギエー!!!、1000人超えてオアー!!!となっていたはずなのだが、もう数千人を突破している。それでも決められたものは実行せにゃならん。はあ。どうして個人も世の中様も、未来の調子が見えないのだろう。未来の調子が見えたらなあ。はあ。

 

ちなみに(ちなんでない)

うちのばあちゃんは昔、旅行当日になると決まって体調を崩していた。これだけ聞くとあまりにも気の毒だが、親族の間では最早お決まりであって、半ば笑い事であった。原理はカンタン、旅行当日のことを心配しすぎて心労で体調を崩すのである。私も幼い頃はばあちゃんのこの可哀想といえば可哀想だが馬鹿馬鹿しいといえば馬鹿馬鹿しい性質について大いに呆れ返っていたものだが、今となってはまったく他人事として見られなくなった。あるある。あるよ。当日のことを考えすぎて体調崩すこと。あるある。心配事を心配して体調を崩すならまだしも、楽しいことを心配して体調を崩すって一体なんなんだろうな。ちなみに、ばあちゃんの若い頃は野比玉子にクリソツである。

 

物知り顔の大名行列

明日の調子もワカランのに、その先の調子が見えてたまるものか。個人の調子もワカランのに、世の中様の調子が見えてたまるものか。世界はなにかと不平等にできているが、先の調子はなにもワカランという点においてはみなみな平等だ。しかしそれは何の慰めにもならない。先の調子が分からないのはみな同じだからといって、なあんだみんな同じなのかと安心できることなんて、まずない。それどころか、他人はみんな、全て分かったような顔をしているなあと思うことがときどきある。明日のこと、明後日のこと、何もかも分かったような顔をして生きているなあと感じるときがときどきある。なにひとつ分かっていないのは自分だけで。万事理解したという顔をして生きるのが上手いだけなのかしら?私も万事理解したという顔をして生きるのが上手な人間になろう。

 

神様もクソ喰らってよ人間もクソ喰らってんだからさ

世の中の人々が、私や、私のばあちゃんくらい心配性な人ばかりじゃなくてよかった。私や、私のばあちゃんくらい心配性な人、あるいはもっともっと心配症な人は世の中に大勢いるだろうが、もし世の中がそんな人ばかりだったら……おっと。ああそうそう、時に、漠然とした、形のない、理由もない、根拠もない、保証もない、何一つない、曖昧がモコモコしているだけの「なんとかなる」が救いになることがあるんだなあ。なんともし難いなと思いながら、同時に、なんとかなると思っている。みんなそうでしょ?3ヶ月くらいすれば、なんともし難い今の状況もまたなんとかなるって思ってるでしょ?なんとかしてくれるのは、一体誰?人間?それとも神様?

 

人間も神様も頼りにならないから星に願いをかけるのではなくて?

世の中がなんとかなりますように。