珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

ひょっとすると2人目かもしれない私が次の私について考える覚書|マリオに前個体の記憶があるのかは知らないけど記憶を引き継がないからこそマリオはああやって何度も何度も同じ苦行をやり直せるんじゃないでしょうか

背水の陣の前に一旦セーブさせてくれ!セーブだ!え?!人間にはセーブ機能がない!?なんで!?

「この先少しでもしくじったら死ゾ」みたいなニュアンスの言葉って色々あるじゃないですか。「背水の陣を敷く」とか「ルビコン川を渡る」とか「清水の舞台から飛び降りる」とか。故事成語に限らずとも全然いいんですけど。で、それがどうしたかというと、どうもしません。おわり。

 

ロケット鉛筆の芯みたいな輪廻転生

「次はないぞ」って言われたら「私に次がなくても次の私がいますよ」って返してやりたいなあってある日ふと思ったんですけど、「次はないぞ」なんて物騒なことを言われる機会がないので、こうして頭の中で温め続けている次第。これはつまり、「私を討ち取ったとて、第二、第三の私が貴様の前に立ちはだかるであろう」という意味です。私の次がなくなっても、次の私、その次の私がぞろぞろぞろぞろやって来るから覚悟しとけよ、という意味です。何言ってんだ?ただあくまで次の私も今の私とまったく同じ個体なので、本当にぞろぞろぞろぞろやって来るだけで、勝てるとは限りません。「後ろからもっと大きいヤギが来ます」ではなく、「後ろからぼくとまったく同じ大きさのヤギが来ます」としか言いようがなく、下手するとその時点でトロルに食われてしまうわけです。なんの牽制にもなってないじゃないですか!とっぴんがらがらのどん。次の私、もとい来世の私なら、頭を使ってちょっとはマシにやるかもしれないし、たまたま運がよくてマシにやれるかもしれないし、全員今の私とおんなじことやって終わるかもしれない。

 

コンティニューの仕様はゲームによるけど回復しなかったりペナルティ付きの場合もあるので注意が必要だぞ

「私の次」「次の私」はまるきり正反対の概念です。たぶん。例えるなら、前者は「セーブして続ける」、後者は「コンティニューしますか? →はい いいえ」である。ゲームでは、下手にボロボロの状態のまま先へ進むより、残基を減らしてでも一回死んでHPとかMPが満タンの状態で進む方が却ってよろしい、みたいな場合がある。1つを惜しむものは2つをも失う。私という種族そのものが絶滅してしまう。次の私を生存させるために、私の次を犠牲にする。肉を切らせて骨を断つ。なんと完璧な戦略じゃあありませんか。ゲームの話ですよ。まあ私あんまゲームしないんで分からないんですけど。

 

なかよし

来世に夢を見すぎると今世をやる意味がほとんど感じられなくなってしまうので、そういうのはほどほどにして適度に現実を見た方がいい(かなしい)と思ってるんだけど、「次の私」に関しては夢とか希望とか期待ではなく、本当にただの残機、ただの予備、ただのスペア、ただのコンティニュー後の個体なので、気兼ねなく取り扱えちゃうんですよね。次の私に向かって期待してるぜって言うとき、それは「ボーナス出たら松阪牛奢れよな期待してるぜ」くらいのニュアンスです。要はこれお互い懐が潤ったらまたいつもの居酒屋で飲もうぜくらいの意味合いなんですよ。もちろん奢ってもらえたら嬉しいが、別にいつもの割り勘でいい。要するに軽口です。次の私とは軽口を言い合える程度の仲なんです。

 

私がマリオなら、誰かが操作してるはずなんだ

「ひょっとすると今の私は2人目かもしれない」と考えると、あっヤベもうちょっとマシに生きなきゃって思えるな。嫌でも。1人目の私がどういう心境で谷底に落ちたりノコノコにぶつかったりパックンフラワーに食われたりして消えていったのかは知る由もないが、今回も前回同様谷底に落ちたりノコノコにぶつかったりパックンフラワーに食われたりしてたら1人目が報われないだろう。2人目ではなく3人目、4人目とかだったらもっと責任重大だ。いたかもしれないしいなかったかもしれない1人目、2人目、……n人目の私のために頑張るぞい。

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