九月みどりについての覚書|世の楽しみ共はそろそろ人間に産んでもらうのをやめて自らすすんでどこからともなく産まれるようにしろ
何かを楽しむのは面倒だなあ
なあ
五月みどりは年柄年中いつでも五月みどりなんだから五月病だって年柄年中いつでも五月病に決まってるだろいい加減にしろ
正確には、「自分に『楽しい』という感情を供給し続けるために努力しなくちゃいけないのは面倒だなあ」である。「楽しい」は歩いてこない、だから歩いてゆくんだね、である。歩くのもさあ、大変なんだよ。まず健康な脚がなくちゃいけない。よしんば健康でないとしても、最低限動かせるだけの脚がなくちゃいけない。歩くことの大切さ、歩けることのありがたさ。五月病(九月)という大病を経て、改めてそれを痛感したという白黒さん。以来、白黒さんの中で脚の健康を意識したりしなかったりする生活が始まったり始まらなかったりしました。とはいえ、毎日のウォーキングは案外大変。三日坊主な性分もあってか、なかなか継続することが出来ません。そんな白黒さんですが、なんでも数年前に出会ったという”あるもの”だけは、毎日欠かさず続けているそう。それ以来、自分の中で確実に何かが変わったと白黒さんは言います。飽きっぽい白黒さんでも続けられるという、”あるもの”とは?
追記:九月!!!九月です!!!
人生の意味を考える
この手に限る
法と公序良俗とマナーを守って楽しくデュエル
我々が「楽しい」を求めて彷徨い歩くことに意味はあるのだろうか?我々の「楽しい」に意味はあるのだろうか?我々の「嬉しい」に、我々の「腹立たしい」に、我々の「悲しい」に、それぞれ意味はあるのだろうか?うるせ~~!!!!!知らね~~~~!!!!╋━━━━FINALFANT
ASY。
— ナミキ (@nmnoy) September 4, 2017
悪そうじゃなくて実際悪い
しかし、しかしですよ。我々の「楽しい」に意味があるとしたら、もちろん我々は喜び勇んでそれを求め歩いてよいわけだし、我々の「楽しい」に意味がないとしたら、我々は……やはり我々は喜び勇んでそれを求め歩いてよいのではないでしょうか?意味がないんだから。意味がないものを求めてはいけない決まりがこの世に存在していたら、今頃世の哲学者連中は片っ端から牢屋に放り込まれています。1に0を足そうが足すまいが1は1なんだから、常識の範囲内で足すなり焼くなり好きにすればいいでしょ。数学専門の方からすればアレかな、単なる「1」と1+0=1における右辺の「1」は全くの別物なのかな?それはさておき、「意味がないならやったところで意味がないんだからやったっていい」というトンチンカンな理論、どうですか?ちゃんと頭悪そうですか?
だって究極のポジティブはいつも破滅的だし究極のネガティブはいつも破壊的じゃないですか
「人生に意味はない」。これは究極のポジティブだと思うね。行き着くところまで行き着いた末の強靭・無敵・最強ポジティブだ。そんな考え方じゃ人生楽しく過ごせないって?ヘーキヘーキ。人の「楽しい」にそんなに意味ないから。あったら今頃地球は人から出た意味で覆い尽くされて氷河期になってるから。今日も楽しく生きましょう。