珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

一廉の理論を語っているようで実のところ何も考えてない文章選手権についての覚書|毎日開催中!

一廉の理論を語っているようで実のところ何も考えてない文章選手権やります

やります

 

ぽい

「何も考えてない」の定義は人それぞれだろうが、まあなんだ、とにかく何も考えずに、考えたことを書くんだ。なるだけそれっぽいことを、それっぽい感じで。我々が国語を学ぶのは、来たる時に備えて、それっぽいことを、それっぽい感じで表現するに足る能力を身に付けるためだと思っている。人間、生涯に一度くらいは、それっぽいことを、それっぽい感じで語らねばならないような場面に遭遇するだろう。それっぽいことを・それっぽい感じで語る能力は、有って損するものでもない。それっぽいことを・それっぽい感じで語る能力は、それを・それとして語る能力と比較して、随分と応用が利くし、使い勝手は遥かにいいだろう。知らんけど。実際我々一般ピープルにとっちゃ、それを・それとして語る能力なんて、持っていたところで持て余すだけだ。いらんいらんそんなの。国語辞典でも目指してるってんなら別だけど。いや、国語辞典だって、所詮はそれっぽいことを、それっぽい感じで語る実例の見本市に過ぎないのかもしれない。読者諸賢の中に国語辞典の方がいたら、ごめんなさいね。

 

ツイッターに私のことをレムさんレムさんと呼ぶフォロワーがいたけどどうしても好きになれなかった何故なら私はれむだから

ところで、「それっぽいことを、それっぽい感じで」とは、具体的に何っぽいことを、何っぽい感じでやればよろしいのでしょうか?ウーン。この質問は実にナンセンスだ。「それっぽいとはつまるところ何っぽいということか」という質問ほど、意味を成さない問いがこの世にあるだろうか!多分いっぱいある。知らんけど。「それっぽい」は「それっぽい」なの。「それ/っぽい」で区切っちゃだめなの。「それっぽい」でひとかたまりなの。「それっぽい」の「それ」を何か別のもので解釈しようとすることは、「それっぽい」に対して失礼に当たるの。例えるなら、人名の「一郎」を「1郎」と書いたり「壱郎」と書いたりするようなものだ。一郎という名前は「一/郎」と区切れるものではなく、ましてや区切った上で勝手にアレコレ解釈していい代物ではなく、「一郎」で既に完成されたひとかたまりなのだ。それを勝手に「一/郎」と区切った挙句、意味(意味?意味とは?)は一緒なのだからなどと宣って、一を1にしてみたり、壱にしてみたりするのは、本人にまっこと失礼ではないか?一郎は、どんなにつまっても一郎である。つまるところ三分の三郎、ではなく、つまるところxの0乗(x≠0)郎、でもない。そう。そういうことだよ。

 

解釈違いですね……

それはあたかも、えーっと、アレだよアレ、ウーン、言うなれば、四足歩行の生き物が二足歩行させられるような具合でだよ。ジーザス!俺の身体は二足歩行するようには出来てないんだよ。そりゃやろうと思えば……数歩くらいは……出来なくもないけど……でもそれとこれとは別じゃないか?どうして人間が平面上に描く俺たちはどいつもこいつも当たり前のように二足歩行をしているんだ?もしも俺たち四足歩行の生き物がペンを執って、当たり前のように四足歩行をする人間のキャラクターをそこらじゅうに描いてみせたなら、人間は一体どのような顔をするのだろう?人間は平面上で二足歩行をする動物をいたく気に入っているようだから、俺たちも平面上で四足歩行をする人間を大層気に入って可愛がってやろうじゃないか!え?四足歩行をする俺たちのことも好き?待て待てそれは何のフォローにもなってないぞ!それは俺たちが「理性を持っている人間のこと好き」とか、「知性のある人間のこと好き」と言うくらい、フォローになってない!

 

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