珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

1回すぎる1日と1回きりすぎる1日についての覚書|1回すぎるということは1回きりではなさすぎるということです

月が変わったんだケド

12月……ってコト!?

 

ワ……!

最近気づいたんですけど1日を30回ないし31回繰り返したら1ヶ月になるんですね。ひとつ知識が増えました。それと同時に、30日はそこそこ長いような気がするけど、30回はそこまで長くないのかもしれないとも思いました。日常で30回を数える機会が日数以外にどれほどあるか分かりませんが、30回って案外すぐに数え終わると思うんですよね。30錠入りのサプリメントとか、30杯分のプロテインとか、30階層のダンジョンとか、阪急電車線の株主優待回数乗車証30回カードとか、すぐ終わっちゃうでしょ。だから……30日も……実際にはきっとそこまで長くないんだよ。ウン。

 

ワァ

1日を24時間と考えるからそこそこ長いような気がするんだよ。1日を1回とすればいいんだよ。1日は1回、それ以上でも以下でもないよ。1日の途中でそれまでの数を強引に数えようとするのもやめるよ。今はお昼の12時だから0.5回だなとか、そういう数え方もやめるよ。1日は1回、それ以上でも以下でもないよ。この1日とあの1日の間に質的な優劣をつけるのもやめるよ。今日はとても有意義な1日だったから普段の3回分くらいの価値があったなとか、そういう測り方もやめるよ。1日は1回、それ以上でも以下でもないよ。私の1日は1回であり、1回以外の何者でもないよ。

 

いくらでも替えが効く1回とまったく替えが効かない1回ってことだよ(フォロー)

私の1日があまりにも1回すぎるから、1回以外の何者でもないと言い切れるのだ。これは断じて、断じて 1回きり・・・・ すぎるわけではない。逆だ。1回きりではなさすぎるから、1回すぎるのだ。何を言ってるんですか?1回きりの1日というものを最後に味わったのは一体いつだったろうか。今日という日は、きっと自分の生涯の中で1回きりの1日なんだと。そう胸を張って言えるような1日を最後に過ごしたのは、一体いつだったろうか。マジで思い出せねえ。今日は、私の特別な日。そんな1日が最後にやってきたのは、一体いつだったろうか?ハァー。サッパリ思い出せねえ。記憶はフリーター時代を抜け出して、大学生の頃、高校生の頃、中学生の頃、小学生の頃まで遡っているが、サッパリ思い出せねえ。

 

都合の悪いことは覚えてるけど都合の良すぎることは忘れるタチなんだ

私には1回きりすぎる1日があと何回残っているのだろう。残っている?残っていますよね?なんか自信がなくなってきたぞ。いやきっと残っている……んだろうか?アレ?ひょっとすると、現時点で私は既に、人生における1回きりすぎる1日というものを、きれいさっぱり使い切ってしまっているのではなかろうか?もう2度と1回きりすぎる1日は、やってこないのではなかろうか?ウーン。別に1回きりすぎる1日が恋しいわけではないけれど、きれいさっぱり使い切ってしまっていると考えると、なんかアレだな。えーとそう……癪だな。逆に、1回すぎる1日が、1回きりではなさすぎる1日が、私の人生にはあと何回残っているのだろう。どっさり残っているとは言わないまでも、こんもり残っていることだろう。