珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

誰か近所のネコチャンの行方をご存じありませんかっていう覚書|ネコチャン!!!!!ネコチャン!!!!!ウワーッ!!!!!

ふーん

わかってんじゃん

 

2022年本当に悲しいオブザイヤー

なるほどこりゃベスト写真だ。ばっちりネコチャン。かわいいね。通勤中に通る近所の民家の敷地にはいつもうこうやってネコチャンがうろうろしている。うろうろしていた。ある時期そこの正面の空き地に工事が入って、ゴリッパな駐車場になって以来、てんで見なくなった。1匹もだ。以前は5匹くらいいた。大きさも柄もまるで違うネコチャンがたくさん集まって会議している様子を眺めるのは、私のささやかな楽しみであった。それがもう、ふた月くらい1匹も見ていない。彼らは一体どこへ行ってしまったのだろう。連日響く工事の音にビビって会議場を変えてしまったのだろうか。ぐぬぬ。工事許すまじ。さして猫に関心のないご近所さんからすれば至極どうでもよいことなのだろうし、猫に困っていたご近所さんからすれば願ったり叶ったりなのだろうが、私にとっては死活問題である。あーネコチャン。どこへ行ってしまったの。

 

2022年本当にうるさいオブザイヤー

うちのアパートの目の前でも工事をしている。にしたって……一体何ができるんだ?施工物はさほど大きくない。明らかに一軒家ではない。かといって集合住宅とも思えない。なんか特殊な施設でも作っているのだろうか。一時期なんかとんでもなく長いナニカが鎮座していたが、アレがなんだったのかすらも分からない。工事車両じゃなくて、こう……バベルの塔みたいなのがあった。今は防音シートに覆われて何も見えない。工事が始まってもうかれこれ……何か月だ?全然進んでないように見える。朝9時ぐらいから夕方17時くらいまで、延々工事の音が響いている。工事が入って数か月、その後バベルの塔が建設されて数か月、その後バベルの塔が見えなくなって数か月……アレは一体何を作っているんだ?

 

ネコチャン

ネコチャンはどこへ行ってしまったの。分からない。近所の工事はアレ一体何を作っているの。分からない。世の中分からないことだらけだ。分かることの方が圧倒的に少ない。私に許されている理解なんて所詮こんなもんだ。太陽は眩しい、氷は冷たい、ネコチャンはかわいい。これくらいのことが理解できているだけで御の字ってもんだ。私なんぞが物事のあれこれを理解できていなくても、他の誰かが理解していればそれで十分なのだ。ご近所にはネコチャンがどこへ行ってしまったのか分かっている人がいるかもしれないし、当然ネコチャン自身はそれを分かっている。それで十分。同じくして、ご近所にはあの工事で一体何を作っているのか分かっている人がいるかもしれないし、当然工事のおっちゃんたちはそれを分かっている。それで十分。

 

ネウロが秒で死にそうな世界

一人一人の理解は少なくても、人類の理解を集めればそれなりの数にはなる。なるほど人類はひとつの大きな理解の総体へ向かって歩んでいる。我々はすべてを理解したい。不可解な出来事をこの世から抹消したい。そうしてすべてを理解した暁には……一体何が待ち受けているのでしょうか?おそらく人間という種はすべてを理解する前に滅んでしまうだろうけども、万が一、万が一すべてを理解することに成功したら……まあ、ヒマになるでしょうな。もう解くべき謎が存在しないんだもの。すべては既知の出来事だ。明日起こることも、来月の株価も、来年の気候変動も、来世の暮らしも、すべて頭の中に織り込み済みだ。我々に恐れるものは何もない。ただそこには無限の退屈がある。けれども退屈は恐れるに値しない。なぜなら我々は退屈の対処法も理解しているから。退屈な時はそう……謎解きでもすればいいんですよ。何か謎はないかい?この無限の退屈を凌げそうな手ごろな謎が。え?ない?謎は我々がすべて解いてしまったって?そう。

 

無知の知がナンボのもんじゃい

知っていることが増えた代わりに、知りたいと思うことは減った。昔は知ったところでどうしようもないことであっても知りたかった。知ったところでどうしようもないということさえ知らなかった。いつしかそれらは知ったところでどうしようもないことなのだということを知って、知ったところでどうしようもないことは知りたいと思わなくなった。世の中には知ったところでどうしようもないことがたくさんある。ネコチャンがどこへ行ったのか知ったところで私に彼らを連れ戻すことはできないし、近所の工事が何を作っているのか知ったところでそれを変更させることも中断させることもできやしない。しかし工事の行方はさておき、ネコチャンの行方くらいは知っておきたい。近所の工事が作っているものがただのマンションだろうと世界を滅ぼす実験施設だろうとそんなことは知ったこっちゃない。ただ、ネコチャンの行方が知りたい。しかし現実はこうだ。私は数か月後あるいは数年後、遅かれ早かれあの工事が作っているものが何なのかを知ることになるだろうし、一方でネコチャンの行方は一生知ることがないだろう。知ったこっちゃないものばかり知っていて、知りたくて仕方がないもののことは何一つ知らないのだ。ハァー。