的な的な覚書|現実は我々の敵な的な
現実を見すぎると失明するゾ
なんか最近現実上のことしか考えてない気がして具合が悪くなってきた。直近の記事を眺めるに……ああ、そうでもないのかな?むしろ現実上のことではないことばかり書いている気がするな。でも私の場合は考えていることと書いていることはそんなに仲良くしておらんでな。いやワカランな。何が現実上のことで、何が現実上のことではないのか……まあとにかく、現実上のことは健康に悪い。オエッ。
国語ではない!哲学だ!
「現実上の」というイマイチ使い慣れない言葉を用いたのにはそれなりに理由がある。
我々にはたいへん馴染みのある「現実的な」としてもよかったのではないか?答えはノーだ。だってほら……「現実的な」という言葉をよくよくよーく眺めてみると、まだ現実にないような気がしてきませんか?「的な」という部分に負うところが大きいのでしょうが。あっちょっと待って。ちょっと素朴な疑問が出てきました。「現実的な」という言葉は、「現実的・な」で区切るんですか?それとも「現実・的な」で区切るんですか?これはメチャクチャ大事なことですよ。私の感覚としては、前者はこう、「現実!!!!!……なんか……そんな感じ……」ってニュアンスで、後者は「現実……なんか……そんな感じ……」ってニュアンスです。
よーわからんわ
世の中に存在する「ナニナニ的」という言葉は、「ナニナニ的」で生まれながらにしてひとまとまりなんでしょうか。それとも「ナニナニ」に「的」という言葉がくっついているんでしょうか。調べたらすぐにわかることなんでしょうが、敢えて調べないでおくことにします。「ナニナニ」ではなく「ナニナニ的」とすることで、おおむねナニナニだが完全にナニナニであるわけではない、というニュアンスを容易に醸し出すことが出来る。英語の場合だと、likeをつけりゃいいのかな?世の中には、ハッキリ言えない、断定できない、白黒つかない、姿形がおぼつかない、そういう化け物が跳梁跋扈していますから。彼らのことを言い表すに適当な言葉は、なかなか落ちてないものなんですよね。曖昧さは逃げ口のようでいて、実のところ虎口なんですわ。そのうちパクリと喰われまっせ。
添えたり添えられたりしろ
現実の上に建てる空想は現実でしょうか?いいえ空想ですね。建っているものが空想ならば、土台が何であろうと空想ですね。というかこの場合、現実という土台が何の役にも立っておりませんね。現実があろうがなかろうが関係ありませんね。現実なんてそんなもんですね。現実の上に建てた構築物が、現実を飾り立てるナニカになった試しがありませんね。現実は添えるだけ、構築物は添えられるだけ。
零級建築士
それでも我々は現実の上にしか物事を建てることができないんですね。何故かと言えば、我々が現実の上に生きているからですね。我々は現実の上にしか生きられないからですね。どうして我々は空想を土台にしてその上に現実を建てることが許されないのでしょうか???そっちの方が楽しいに決まっとるじゃないですか???空想を土台にしてその上に現実を建てる……具体例をあげればこう。私はお洒落な小さい一軒家を所持している。という空想。その上に現実を建てる。お洒落な小さい家にふさわしい調度品を現実にあつらえ、お洒落な小さい家にふさわしい住人として現実に着飾り、現実に振る舞い、現実に生活する。ウム。こう考えると、空想を土台にしてその上に現実を建てる行為が許されないわけではなさそうですね。許されているには許されています。ただ、ちょっぴり滑稽なだけです。
ところで
auPAYマーケット限定ポイントがたくさんあるんだけど来月何買おうかな?