珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

積み重ねではないただの繰り返しについての覚書|コピー・アンド・ペーストな日々

無限ループって怖くね?

ここ数日、ずっと無限ループについて考えていた。正確に言えば、無限ループは怖いということについて考えていた。無限ループは怖い。なぜなら無限にループしているから。この広大な宇宙でさえ(多分きっと恐らく)有限である。宇宙が「そこにある」ものである限り、「ずっとある」無限には勝てない。無限は宇宙に優越する。それでは神は無限に勝てるのだろうか。神が「そこにある」ものであれば無限は神をも超え得るのかもしれないが、神が「ずっとある」ものであればこれはもう神vs無限のチキンレースの幕開けである。そもそも神は無限に万能という前提の下の存在なので、無限そのものを超越することだって容易いのかもしれない。しかしながら仮に神様が無限の万能性によって無限そのものを超越したとして、そうなると「神様の持つ無限の万能性」それ自体が必然的に下位存在になってしまうのだけど、これって神様的にどうなんでしょう。自身の持つ無限の力によって無限そのものを超越した神様が、無限というパラドックスの無限ループに陥って自己崩壊するのってちょっと夢があって良いと思う。所詮有限に過ぎないクソザコ宇宙くんは蚊帳の外に置いとくとして、「無限に万能な神様」と「無限そのもの」ってどっちが強いんでしょうか。この議題はフリー素材なので夏休みの自由研究の題材に使ってください。

メモ:「無限に万能な神様」と「無限そのもの」って同一存在なのでは?

無限ループじゃなくても怖くね?

「無限ループが怖い理由は無限にループしているから」という頭の悪い問答は一旦置いておいて、無限ループはなぜ怖いのかについてもう少し考えることにする。無限ループという現象を、起承転結みたいなノリで発生、反復、進行、終着に分割する。反復と進行のどちらを先にするかかなり悩んだけれど、反復=一周すること、進行=一周が1回、2回、3回……n回、n+1回……と進んでいくこと、と考えてこの順番にした。無限ループの「発生」は非現実的なこと、有り得ないこと、受け入れ難いこと。「反復」は1からやり直すこと、努力が失われること、全てが無駄になること。「進行」はやがて無気力になること、絶望すること、何もかも完全に諦めること。「終着」は……家の形をした板に描かれた家のようなハリボテの概念なのだけど……終わりがないこと、たどり着かないこと……「ない」こと。ウーン、怖い。受け入れ難いことは怖いし、全てが無駄になることも怖いし、何もかも完全に諦めることも怖いし、「ない」ということも怖い。現実に無限ループは起こらない。決して。今のところ。そう願いたい。けれども、受け入れ難いことを無理矢理受け入れて、無駄なことだと分かっていながら繰り返して、何もかも完全に諦めたのにまだ命が続いていて、「有る」も「ない」のに「無い」も「ない」、そんな苦行に色々な人が巻き込まれている。ゾゾ~ッ。

上の人何言ってるんですか?

上の人が何言ってるかよく分からないので次は私がブログ書きます。白黒れむです。白黒ははぐろって読みます。今回の話はいつもにもましてぼんやりとしているのだけれど、現実を逃避するのに、宇宙や神やその更に外側のようなとんでもないスケールのことを考えることと、抽象的な概念と抽象的な概念を脳内の土俵にのせてトントン相撲することと、私はロボットであると頭の中で唱えることが非常に効果的であることに最近気づいたので許して頂きたい。もう少し現実的なノウハウみたいなものについて考えて記事にしたいのは山々だが、現実的なことについて考えるとドッと疲れてしまうので、ふわふわとしたものについて考えるのが今の私には関の山である。上の人が言いたかったのはつまるところ、ホラー系創作で見かけるような無限ループは現実には起こり得ないが、無限ループを分解してその恐ろしさ一つ一つを見ていくと、現実でも結構似たようなことに苦しんでる人いるよね、怖、という話であった。

お金の使い途の話をしているうちは夢だけど欲しいものが手に入ったらそれはもう現実なんですよ

お口直しに世間話をしよう。皆様のご自宅にも届いているであろう10万円確定チケット。10万円の使途はもうお決まりだろうか。私は今すぐ買いたいモノも無いのでとりあえず貯めておくことにする。まあ強いて言えば、少し本格的なコーヒー道具一式が欲しい。あとは……押入れの肥やしになる予感しかないが油絵セットとか。それとは別に急ぎではないけれどいずれ買わなければいけないものとして、ベッドシーツ。仕事用の新しいスニーカー。欲しいモノがあるうちはまだ現実の住人だ。しかし欲しいモノも残り僅かしかない。在庫が無くなる前に補充しなくちゃあいけないな。ウーン、明日はもう少し現実的なことを考えながら生きよう。

 

 

 

 

上の人何言ってるんですか?

これ昨日の人が書いた記事なんですけどよくわかんないや

 

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「特にない」についての覚書|「ある」を「ある」と認識できなくなるとこうなる

心が植物状態ですね

普段のブログ記事は「こうこうこういうことが言いたい衝動」からの「頭を大きく回してクソポエムをひねり出す運動」からの「クソポエムできた(うっとり)」の流れを経て後悔 公開しているのだが、今回は正真正銘の行き当たりばったりで書いていこうと思う。記事のひりだし方に触れたついでに言うと、当ブログの傾向としては、「今日こんなことがありました」という出来事型よりも、どちらかといえば「今日こんなことが頭に浮かびました」という思考型の側に寄っていると思う。その理由は至って単純で、毎日、特に何もないからである。それに加えて、趣味や特技を聞かれても「特にないです」以外の返しを持たず、休日の過ごし方といえば「特に何もしてない」のが定番で、自由記入欄には「特になし」と書くのがお決まりな上、質問ありますかと問われても「特にありません」としか答えられない究極のナッシングスペシャウーマンここに在り。ヒトとしては生きているけれど、人としては死んでいるこの感じ。果たして「特になし」人間に未来や希望というものは存在するのか。特にないですね。

むかしむかしあるところに特にない女がおりました

「特にない」に対する嘆きは、過去の記事でも幾度となく言ってきたことだ。というかそれしか言ってない気もするが。神様もよくぞまあ、ここまで特にない人間を造ったものだ。とはいえ最近では、特にないのもまあ別にいいかなと思っている。決して自棄ではなく、極めて穏やかな受容として。ただ、特にない人間のまま人生を終えてもいいから、私がこの「特にない」を貫き通した人間だったことを、誰かに知っていてもらいたい。ある時から死ぬまで一貫して特に何もなかった私の人生が、「特に何もなかった人の人生」と題されて博物館のはしっこにでも展示されていたら、それはどれほど名誉なことだろう。一昔前の小学生の体操服のゼッケンみたいに、太い油性ペンで「特にない」とでかでか書いて、胸のところに縫い付けて、それを堂々と誇っていたい。それだとまるで私が名前のない人のように見えるけれど、「特にない」は私の人生の名前であって、私の名前は別にあるから大丈夫。

話が変わるような変わらないような

お金を頭に住まわせることは出来ないし、モノを心に入れておくことも出来ない。けれども、「ウヒョーお金!何に使おう!」という考えを頭に住まわせることなら出来るし、「ウヒョー良いモノ!いつ使おう!誰に見せよう!」という気持ちを心に入れておくことなら出来る。お金をお金のまま、モノをモノのまま頭や心にブチ込もうとすると、それはただただ自分の外側に積まれていく物質のままで終わる。みんなはとうの昔に気づいてたんだろうけど、私は最近になって気づいた。というか、忘れていたことに気づいた。昔はたった500円のお小遣いでどうしてあんなに金持ち気分だったのだろう。シャーペン1本、メモ帳1冊、キーホルダー1個がどうしてあんなに嬉しかったのだろう。その頃の気持ちを忘れない人は忘れないし、忘れてしまう人は忘れてしまう。貯金も私物もあの頃よりずっとずっとずーっと増えたけれど、やっぱり特に何もない。

記事のオチは

特にないです

 

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掴みどころのない現実と振り回される僕らについての覚書|見えないモノを見ようとして

この現実は現実か?

現実を見たり見なかったりするのが得意なフレンズの皆様、お久しぶりです。現実を見たり見なかったりするのが得意なフレンズ……フレンドです。失踪していたほんの2ヶ月弱の間に、周囲の、日本の、世界の状況があまりにも激変しすぎて、ちょっと現実濃度おかしくない?と首をかしげる日々を送っておりました。誰もがそうでありましょう。フィクションの世界が現実に滲み出しているような、我々の頭の中の虚構は現実となり、我々の目の前の現実は虚構となる。SCPだよこれ。おっかねえ。確保、収容、保護。

現実を煮たり焼いたりしろ

こんな状況下においても、我々は現実を見ながら生活しなければならない。現実……現実とは一体どこにあるのだろうか。これほど短期間に、これほど大規模に、あらゆる物事が変わってしまって、それでも本能のように現実を目で追いかけている我々の眼球可動範囲は限界を迎えやしないだろうか。ある日誰かに「現実を見ろ」と言われたとして、一体どこを見つめれば正解なのだろう。人が人に「現実を見ろ」と言うときは、大抵「現実を見てそれを自分の力でどうにかしろ」の意である。人が人に「鍋を見てて」と言うときは、大抵「鍋を見て煮立ってきたら火を弱めて」の意であるのと同じ理屈だ。ところがどっこい、大抵の一般ピープルは現実をしっかり見たところで、それを満足いく形へと改変するに足るような力は持ち合わせていないのである。しかし誰もが自分や他人に向かって「現実を見ろ」と言う。人によっては朝飯前かもしれないが、人によっては「UFOを肉眼で探してとっ捕まえてここまで持って来い」と言われるくらいの無理難題なのである。まあ現実を自分の力でどうにかするよりも、UFO探す方が簡単かもね。

現実から振り落とされそうになっている人間のふわふわしたぼやき

ところでこの、我々が絶えず目を充血させて追いかけている現実というものは、一体どこからやってきたのだろう。答えは簡単、それは人の間からである。おっと。これではまるで自らが造り出した知能を持つロボットの暴走を止められない博士のようではないか。国家とか、経済とか、労働とか、教育とか、もっと遡れば言語とか、文化とか、我々より遥かに頭の良い人々が何世代にもわたって築き上げてきた素晴らしい現実システムは、私のようにギリギリ猿でないレベルの人間にとっては些か難しいように思えてならない。散々この現実システムに乗っかって生きておいて何を言っているんだという話だけれど。天然物の現実はどんな生き物にも平等に死を与えるけれど、人工的な現実がもたらす死はあんまり平等ではない。我々の前にある(はずの)現実は現実であるというただそれだけで人を殺せる程に複雑になった。ただ現実を覗き込んだだけの人間を一瞬で殺せるくらい強力になった。1人の人間を死ぬより酷い目に遭わせることも出来るくらい優秀になった。現実システムは今日も美しい。

イカれてないなんてイカれてるよ

ちなみに失踪を決め込んでいた2ヶ月弱の間に私の生活はどう変わったかというと……良いのやら悪いのやら、ほとんど変わっていない。メインのバイトもサブのバイトも文字通りの通常営業。ただ休日が隔週1から週1に増えた。これにコロ某は一切関係なく、単に夜勤のメンバーが増えてシフトの取り合いになっているからである。それと同時に1日の勤務時間が(何故か)1時間増えたため、1ヶ月あたりの給料にほぼ変わりはない。生活は何も変わっていない。変わっていないが、私も現実システムに組み込まれている身なので、変わらない生活と変わり続ける現実の間でブチンとちぎれそうになっている。まるでこんな状況下で生活が変わってないヤツの方がおかしいみたいだ。周りは大学生ばかりなので、オンライン授業が何だの、遊びに行けないだの、掛け持ち先が閉店しただの、就活がヤバいだのでみんな生活に何かしら負の影響を受けている。そんな中で負の影響をほとんど受けていない私は恵まれていると思うべきなのだが、現実が総じて負の方向へ突っ走っているので、右に習えで負の方向に突っ走らないといけないような気分になってくる。

私はこれまで、現実というものはいつだって変わらずに壁のようにずっしりと我々の前に構えているものだと思っていた。現実がこんなに流動的で、俊敏で、小刻みなビートを刻みながら反復横跳びするものだとは思わなかった。今の私の目には、現実の残像しか映っていない。

 

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最早ある種の帰巣本能についての一筆箋|結局ここしか戻るところが無いんだよね

誰が失踪芸人やねん

 

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一般人の一般人による一般人のためのライフハックについての覚書|たまには天才が書いた本を読もう

読者様だ!逃げろ!

当ブログでは事あるごとに「記事としての体裁だけは一丁前に整えられた中身の薄い自己啓発及びライフハック記事」をけちょんけちょんに皮肉っているが、私は決して自己啓発ライフハックのコンテンツが嫌いなわけではなく、それどころかむしろ愛しているとさえ思う。実際、暇さえあればそういったコンテンツたちの間を練り歩いているし、それはしょーもないまとめブログを眺めているよりも遥かに有意義だろう。ただ、自己啓発或いはライフハックを謳っておきながら、記事を読んだ人間の自己やライフをどうにかしてやりたいという気概が感じられない記事を好ましく思わないだけであって、そこに熱意を感じられる記事に関しては素直に感心する。あるコンテンツの作り手がどこまで本気で読み手の自己やライフをどうにかしてやろうと考えているかは知らないが、「どうにかしてやろうと考えています」という旨を明文化しているならば、こちらも本気で自己やライフをどうにかされてやろうと思うわけで、つまりライフハックコンテンツは遊びではないということだ。

責任という概念を作った人は責任取って

とはいえライフハックコンテンツを遊びでやるも本気でやるもそれは個人の自由である。個人で運営しているブログ程度ならば、よほどアレなことを書いて扇動しない限り、読み手に対して具体的な責任が発生することはあるまい。知らんけど。かと言って120%完全に責任が無いわけでもないだろうし、「他人の自己やライフをどうにかしてやりたい」書き手と、「自分の自己やライフをどうにかしたい」読み手の間に生じる薄ぼんやりとした危険の存在は否定出来ない。ささやかな影響を与える側とささやかな影響を受ける側の、あの……なんか……微妙な……あなたに影響を与えたいが責任は放棄したい」側と……「あなたから影響を受けたいが責任は放棄しないでほしい側の……夏場の蜃気楼のようにもんにょりとした……てんで真逆の性質を持つ自己防衛バリア……

一般人を絞っても大体一般的なことしか出てこない

ところで自己を啓発したりライフをハックしている人々って一体どんな人なんだろう。どれほど有意義な人生を送れば、そこから抽出したエッセンスを文章化して、世に送り出すことが出来るのだろう。一昔……いや二昔か三昔ほど前であれば、こういう知見の発信者となれる人間は社会の上位にいるごくひと握りで、またその情報を受け取ることが出来る人間もそう多くは無かったはずだ。現代ではいかにクソ一般人であろうともネット環境さえあれば知見の発信はいくらでも出来るので、一般人の、一般人による、一般人のための、一般的な出来事に関する一般的なノウハウが溢れかえる世の中になった。つまるところ本段落冒頭の問いの答えは、ごく一般的な一般人である。重複が重なっているわけではない。一般人として一般的な一般人である。自己啓発ブログを運営している天才小説家とか、ライフハックブログを運営している大学名誉教授なんてものは、少なくとも私は聞いたことがない。お客様の中に天才小説家や大学名誉教授がいらっしゃったら申し訳ありません。天才小説家や大学名誉教授という生き物はひと握りしか存在しないが、クソ一般人は世の中に掃いて捨てるほど存在するので、今この瞬間にも、一般人の、一般人による、一般人のための、一般的な出来事に関する一般的なノウハウは増え続けている。

本当に怖いものはこの世にまだ一度も出てきたことがないアイデア

私は(本当の意味での)自己啓発ライフハックについて文章を書けるほど深みのある人生を送ってないクソ一般人であるし、そもそも他人に対して責任を保証出来るようなキャパシティも持ち合わせていないので、ああしましょう!こうしましょう!という真面目な・・・・記事を書くつもりは今のところない。既に書いていたらごめんなさい。そういうタイプのジョーク記事を書く意欲は大いにあるけれど。他人の自己やライフをどうにか出来るほどの画期的なアイデアがクソ一般人の脳味噌からポンポンポンポン出てきてたまるか。ただ、世の中に溢れかえるクソ一般人の中に才ある者が紛れ込んでいるのも確かな事実で、彼らの発信するコンテンツに出会えた人は、実に幸いである。

 

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