珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

普通に、「普通」についての覚書|「普通の人」がなかなか見つからない理由は「普通の人」がこの世に1人しかいないからですよ

わたし∩あなた

「普通」とは、多くの人が 経験的にぼんやりと・・・・・・・・・ 「自分はそこに到達し得ない」と考えている領域であり、同時に多くの人が 合理的にぼんやりと・・・・・・・・・ 「そこに到達し得ない人間はいない」と考えている領域の謂いである。この一見相反する2つの領域が奇跡的に重なっているそのわずかな部分を、我々は「普通」と呼んでいる。我々は日常生活の中で、「多くの人にとっては普通なのだろうが、自分にとっては普通ではない」と、「自分にとって普通なのだから、多くの人にとっても普通であるに違いない」を、状況に合わせて上手いこと切り替えながら暮らしている。この切り替えがあまりにも頻繁だと、「あの人ってば都合のいい時はああなのに都合が悪くなるとすぐこうなんだから」といった具合で自分本位な人間として周囲から非難されるわけであるが、人並みの理性や道徳があり、周囲との調和を意識できる程度の人間であれば、これらのコントロールに失敗して不調和を招くようなことはそうそう起こらないだろう。普通はね。

 

スケールがデカすぎる人間も考えものだな

そんなわけで、「普通」とは一見、多くの普遍的なものの中でも最も普遍的なもの、普遍の中の普遍、普遍の王様であるように思えるが、少なくとも普通に暮らしている一般ピープルの側からしてみれば、「自分にとって」という概念と切っても切り離せないものであり、実のところ全くの「個」なのである。物事を考えるときに逐一「この世における普通とは、すなわち自己の価値観を捨て去ったところの、世界市民にとっての普通とはなんぞや、そしてそれと自分の価値観とを照らし合わせた時に、自分の基準はそれよりも上位にあるか、下位にあるか」と考えるような人は、そうそういないだろう。一般ピープルにとっては、差し当たって自分の身近な範囲にあるものと照らし合わせていればそれで十分なのである。「俺はなんて貧乏なんだろう」と嘆いている最中に「世界にはもっと貧しい人がいるのだから俺は恵まれている方なんだ、綺麗な水が飲めるだけでも幸福なんだ、ワガママ言っちゃいけないんだ」と己を叱咤するのもたまには結構だが、毎回やってると身が持たないのでほどほどにしておこう。また、「期末テストでクラス1位を獲った」と喜んでいる人に、「でも世界の学生を基準に考えればあなたの知能なんてクソザコナメクジですよね」なんて余計なことを言う必要はないのだ。

 

裏表はないけど表に裏がついてる人間です

「普通」が相反する領域の重複箇所であることは、私のように気の利いた面白いコミュニケーションが出来ない人間が、八方美人や二枚舌でどうにかこうにか綱渡りしながら生きていくのに都合がいい。また、私のように確固たる信念を持たないフラフラ人間が、ある日に真面目がいちばんと言いつつほどほどに不真面目をしたり、別のある日には不真面目でナンボですよと言いつつほどほどに真面目をするなどして、結果的に「まあ、ぼちぼち」くらいの位置に収まりながら生きていくのにも都合がいい。「普通」はその曖昧さゆえに、わりかし使い勝手がいい。

 

たまにあるセンチメートルとメートルの誤植はふふっとなるので好き

「普通」とは、およそ同じところに留まることを知らない基準、わりかし好き勝手にこね回せる尺度である。それって本当に尺度なんですかね?もしも1cmがある時はこれくらいの長さである時にはあれくらいの長さだったりしたら、世の中めちゃくちゃになってしまう。一方で、そのへんの一般ピープルの「普通」というものがある時(人)にはこれくらいである時(人)にはあれくらいであったとしても、即座に世の中がめちゃくちゃになるようなことはない。世の中に対して影響力を持っている人は別として。それもそのはず、元々人間界はと言ったりと言ったりするような個体が一緒に暮らしている世界なので、今更ネズミをやかんと言ったりレモンをひつじと言ったりする個体が1人2人増えようが痛くも痒くもないのだ。世の中は寛容だなあ。

 

普通にまとめ

「普通」は実のところ普通の人が普通に考えているような普通ではないので、他人の「普通」に手を加えようとすると痛い目を見るし、手を加えなくても普通に痛い目を見るし、同様に自分の「普通」に固執してても痛い目を見るし、固執しなくても普通に痛い目を見る。「普通」は煮ても焼いても食えやしないし、あっては困るが無くても困るし、触らぬ「普通」にも祟りはある。空の彼方、大地の果てまで逃げようとも、「普通」はあなたの後ろを永久についてくる。最近(?)は「無意識のうちに」「いつの間にか」というニュアンスで「スマホ、家に忘れたと思ったけど普通にカバンの中にあったわ」とか言ったりもする。この場合の「普通」は「なんてことなかった、」とか「なぁんだ、」とも訳せるな。なんというかこう、「普通」という概念が、どんどん些細なものの側へと引っ張られているのかな。最近の流行りとして、「普通」は些細なものの側に寄っているのかな。「普通」はゴムのようにいくらでも伸びる。そして些細なものの側へ引っ張った分だけ、いつか手を離した時に、「普通」は重大なものの側へ勢いよく跳ね返っていく。

 

 

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かつてあるものだったものの成れの果てについての覚書|人間目線で考えるよりモノ目線で考える方が圧倒的に楽しい

※頭空っぽにして読んで欲しいシリーズ

 

一歩引いたところからぼんやり眺める欲望は面白い

正直に白状しよう。私は欲望が好きだ。欲望というものが好きだ。口でいくら欲望なんか嫌い、欲望なんか汚い、欲望なんかクソ喰らえですわと言っても結局身体は……と言うと語弊があるので、頭は正直なのだ。一応補足しておくと、私は決して欲望の対象が好きなのではない。例えるならば、「金!女!酒!」のことが好きなのではなく、「金!女!酒!……に対する欲望!」のことをこよなく愛しているのだ。ふふん。欲望の対象も欲望している人間も好きじゃないが、欲望している人間の欲望はなんだかころころしていてカワイイと思う。

 

お金の隣に並んで歩きたいんじゃなくて後ろからこっそりついて行きたいんだってば

いや待て、お前は散々このブログで「お金!好き!」と公言してきたではないか。ウーン、確かにそうだ。実際、給料日を3日後に控えており心ウキウキワクワクである。増えた口座残高を眺めるあの瞬間、あの瞬間のために生きてる。というかあの瞬間のためにしか生きてない。しかし同時に私は以下のことも公言してきた。「お金で買えるモノ・コトにはさして興味がない」と。この矛盾を度々自分の中で咀嚼してきた。これに関しては一応過去に結論を出していて、いつだか記事にもした気がするが、要するにお金とは「安心」そのものであり、私はお金のことを本来の役割であるモノ・コトの引換券とは見なしておらず、ただただ「安心」の引換券としか考えていないのだ。これはこれとして、これ以上の考察は必要ないとは思う。しかしながら以上の結論は、私はお金の本来の役割を否定或いは無視して、己が勝手に欲するところのもの、すなわち「安心」を、お金に対して無理矢理押し付けているに過ぎないことの証明でもある。お金に幻想を見た上で、その幻想ごと、いやむしろ幻想の方をよりいっそう愛している。お金の本来の役割に、「人に安心を与える」という仕事が果たして含まれているだろうか?もし含まれてたらゴメン。この段落、いやこの記事まるっと無かったことにしてくれ。欲望の対象について、対象そのままを欲望することは、少なくとも私にとっては、なかなか骨が折れそうだ。

 

お金を自分好みにカスタマイズすること

お金が好き」と「お金に対する欲望が好き」と、いったい何がどう違って、違ったから何だと言うのだ。私の書くこと・考えることにありがちなのだが、自分が出した結論に自分の思考が追いついていない。だいいち、この記事の最初の段落は昨晩書いたもので、これは本来昨晩の私が説明すべき箇所なのだ。今日の私には何の説明義務もない。根拠のない自論をそれらしく見せるために証明を継ぎ接ぎしたり捻じ曲げるなんて最低だ。ちくしょうめ。ええと、比較しやすいように言い換えるなら、「お金そのものが好き」と「お金が欲しいことが好き」ってことだ。こうすると全然違うな。今が国語の時間だったら上手く答えられる自信があるのだが、生憎今は国語上の解答は求めてない。えー、だからつまり、後者はお金の本来の役割に自分の欲望=幻想をあれこれ加えてかき混ぜた結果生まれたキメラみたいなもの、お金が人間の逞しい想像力によって希釈されその本来の姿を薄められたもの、そういう「かつてお金だったものの成れの果て」が好き、ということだ。そういうことだろう?昨晩の私。間違っても、「お金が好きな自分が好き♡」ということではない。

 

パンはパンでも食べられないパンはパンの本質

ここに食パンがある。封は開けてしまったが、ここにある食パンは、まごうことなき食パンである。全力で食パンを体現している食パンである。それで、食パンに尋ねてみる。なあ食パン、生き物の腹を満たすという仕事は、お前の元々の存在のうちに含まれているのか?それとも我々生き物がお前に見ている幻想に過ぎないのか?我々がお前を見て「食べたい」と欲望したとしよう。すると、我々の目に映っているお前はもう本来のお前ではなくて、「欲望された食パン」、すなわち「かつて食パンだったものの成れの果て」に過ぎないのだろうか?もしもお前の存在のうちに、「食べられる」ということが含まれていないとするならね。ましてやジャムを塗られたり、チーズを乗せられたりするなんて以ての外だ。ただの一度「ジャムを塗って食べたいなあ」と欲望されたお前は、その時点で我々の頭の中に閉じ込められた上で自分の中のなにもかもをぐちゃぐちゃにされて、我々の逞しい幻想に耳から耳まで希釈されるのだ。私は食パンのあるがままの姿を愛しているのではなく、食パンが食べたいという欲望を愛しているのであって、つまりは私に食べられる食パンという幻想を愛している。

 

あーもう睡眠時間めちゃくちゃだよ

私はあらゆるものをモノ視点で見ることが好きなので、今日も食パンの気持ちになって考えてみた次第であるが、そもそも食パンは人間様が「食べるため」に作ったもので、現在でも変わらずその目的を明確にしていることから、食べられることが存在の本質のうちに含まれていても何らおかしくなくて、むしろ食べられることに本来の姿があり、私はトンチンカンなこと述べたのかもしれないが、そうなると「欲望されなかった食パン」の方が「かつて食パンだったものの成れの果て」であるということになり、結局この世には「あるもの」「かつてあるものだったものの成れの果て」の2種類が存在するということだ。今夜も仕事なのでこのくらいで勘弁してください。

 

 

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自分を花粉症だと思いこんでいる一般人についての覚書|花粉症の対抗ミームを摂取してからご覧ください

花粉症ミーム

花粉症の脅威を熱弁するバイトちゃん「わたし毎年花粉症がマジでヤバいんですよぉどれくらいヤバいかというとですねぇかくかくしかじかまるまるうまうま」

圧倒されるぼく「ほえ~(無関心)」

 

~翌日~

ぼく「なんか知らんが涙とくしゃみが止まらないンゴ……」

 

鼻水鎮まれーい!鎮まれーい!鎮まれーい!ええい鎮まれーい!鎮まれーい!しず……鎮まれーい!鎮まれーい!

花粉症の罹患方法って口伝だったのか。知らなかった。かくいう私も学生の頃はとにもかくにも鼻水が酷くてハンカチが手放せず、TOEICだったかセンター試験だったか二次試験だったか忘れたがとにかくそういうめちゃくちゃ重要な試験中に手を挙げて監督官の人を呼んで「鼻水が止まらないので鞄からハンカチを出して机の上に置いてもよろしいでしょうか」と懇願したことがあるくらいアレだったのだが、大人になってからはめっきりそんなこともなくなって鼻炎薬を買うこともなくなったというのに。鼻炎薬を常備しなくなって久しい。仕方がないので風邪薬を飲んだ。目薬は数年前に買ったと思しきものがポーチに入っていた。そういえば昔は目薬も手放せなかったのにもう随分使ってない。流石に怖かったので使わずに捨てた。

 

まさかコ………………恋

バイトちゃんがあまりにも花粉症について唾飛ばしてアレコレ熱弁するものだから、これから当面の間、私の体に起こる不調は全て花粉症と結びつけて考えられることだろう。まあこんなご時世ですのでぶっちゃけ花粉症よりもコ……のミームの方が遥かに強いのだが。ある日、くしゃみをひとつする。咳をひとつする。かつては「ウーン、風邪かな?」で軽くいなしていた現象たちも、今となっては立派な恐怖の引き金である。クシュン。ゲホゲホ。たったそれだけ。それだけに対し、「まさか……まさかね?」「ただの風邪よね?そんなことないよね?」などと。つらい。我々は常に「嫌な予感」と隣り合わせで生活しなければならなくなった。これはあまりにも生きづらいが過ぎる。現代の我々でさえそうなのだ、昔の人が疑心暗鬼起こして暴走するのも致し方なしだわ。くしゃみなんて鼻にコショウを突っ込めば一発で出るし、咳なんて酢を飲めばいとも簡単に出るというのに。

 

認識災害くん

病というものはいつだって二度伝染する。我々の肉体を蝕むものとしての伝染と、我々の認識を蝕むものとしての伝染である。病よりも人間の方が恐ろしいとか言われるのは後者の伝染のせいだな。認識に起こる症状は薬やワクチンではどうしようもないし、取り出してじゃぶじゃぶ洗えるような代物でもない。出荷当時の状態に戻せるリセットボタンもない。悪い物事は、「それ自体の悪さ」に加え、「人の認識をあらぬ方向へ捻じ曲げる悪さ」も持っている。個人的には、後者のほうがより悪質だと思う。とはいえ、果たしてこれを認識の「汚染」と呼んでいいものかは判断し兼ねる。誰があかしげやなげひいろのとりやねん。あんな具合にみんなが「汚染」されてしまえば、それは「正常」に変わるのだ。人間はそうやって、ありとあらゆるものを書き換えて、ありとあらゆるものを「正常」にしながらやってきたではないか。我々はこれまでたくさんたくさん失敗して、失敗しすぎてどうにもならなくなった辺りでそれを「正常」としながらやってきたではないか。誰が、青い、青い空やねん。

 

「たけのこみたいなきのこ」イコールたけのこが支配してるんだなってわかるし「きのこみたいなたけのこ」イコールきのこが支配してるんだなってわかる

ところで、人の意識や無意識に刷り込まれるほどに語られた言葉はさぞかし幸せだろう。内容はともかく。内容はともかくね。「花粉症」という実際の現象が暴れ回っている姿はちっとも可愛くないし、現に苦しんでいる多くの人々のために心底滅んで欲しいと思う。一方で、「花粉症」という言葉が我々の認識から認識へミツバチのように飛び回っている姿にはある意味感心してしまう。「春先のくしゃみ、鼻水、目のかゆみ、その他色々」という散らかった実感全てを、「花粉症」という言葉は一瞬にして己の支配下に置いてしまうのだ。時には直接関係のない実感まで支配下に置くことさえもやってのける。例えば、「花粉症みたいな症状」と表現するときのように。「花粉症みたいな症状」という実感は本物の「花粉症」ではないが、「花粉症」という言葉の支配にすっぽり覆われて、「花粉症」という言葉にすっかり寄りかかっている状態だ。実際、「花粉症みたいな症状」と言えば、大体の人は理解するだろう。「ポロポパペポニョプピポンみたいな症状」なんて言っても誰も分からない。「ポロポパペポニョプピポン」は刷り込まれるほど語られた言葉ではないからである。「ピーヒャラピーヒャラパッパパラパ」を見習ってどうぞ。

 

記事にまとまりがなくなってきたので

世界が健康でありますように

 

 

 

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自分の「意志」にとことん振り回される覚書|せ……選択の自由

 そういう日もあるよね

書く意欲は多いにあるのだけれども書くネタがないので手元に有る本の付箋が貼ってある箇所を適当に開いてそこから話を広げることにします

 

あーハイハイそういうやつねハイハイ

下級の欲求能力の規定は自然規定である。そのかぎり、人間がそれを自分のものとすることは必要とも思われないし、また可能であるとも思われない。けれども、まさに自然規定である点で、それらはまだ人間の意志または人間の自由には属さない。なぜかと云えば、人間の意志の本質は、人間が自分で自分のものとしなかったようなものは何もその中にないということだからである。人間はそれ故に、人間の自然性に属するものは 異端者・・・ と見ることができる。ただしかし、この異端者も人間がそれを自分のものとするかぎりにのみ、云いかえると人間が決意をもって自分の自然衝動に従うかぎりにのみ、人間の中にあるのであり、人間に属すものである。

ヘーゲル『哲学入門』武市健人訳、岩波文庫、1952

 

珈琲の呼吸

人間が自分で自分のものとしなかったようなものは何もその中にない。確かに、私は「呼吸」を自分のものにしようと意志したことはない。波紋戦士鬼殺隊士なんかは別として、「よ~し今から自分の呼吸を自分のものにしちゃうぞ~」なんて意志する必要はないし、だいいち一体どうやって自分のものにしろというのか。呼吸に名前でも書いておくか? 山吹色の波紋疾走サンライトイエローオーバードライブ って?今頃ヘーゲル先生が渋い顔して首を横に振ってそうだが、まあなんだ、「呼吸」ってのはほんの例え話だ。意志――自分で自分のものとしなかったようなものがその中にないというのなら、逆に言えばその中にあるのは自分で自分のものにしようと決意したもののみ、ということになる。「俺に意志なんかないよ、周りに流されるままの人生さ」などとアンニュイに構えたところで所詮それは詩的・文学的な表現に過ぎないのだ。ここでは哲学的な表現で話せ。あー、ところで、人ってどこまで意志せずに生きられるんでしょうか。

 

その「意志」は上手くいきましたか

哲学的な「意志」の問題は私には幾分か難しすぎるので、もう少し一般的な「意志」の話をすることにします。人生を、今この瞬間からほんの少しずつ過去に遡って、自らの「意志」が一体どの地点で途切れるのか見てみよう。私の場合なら、そうだな、「今のバイトを2年半続けているのは自分の意志か?」これは間違いなく自分の意志だ。客はクソだが、時給はいいし、色々都合がいいし。ではもう少し遡って、「今のバイト先を決めたのは自分の意志か?」これもまごうことなき自分の意志だろう。私が1人でタウンワークを眺めて、1人で決めた。更にもう少し遡って、「次のバイトを夜勤にしようと決めたのは自分の意志か?」こちらも自分の意志であると断言できる。こんな調子で遡っていくと、案外あっさり高校大学時代辺りまで戻っていくことができた。そこにおいてもなんだかんだで、大学を決めるところから大学を辞めるところまで専ら自分の意志であることを確認した。私の人生、だいたい私の意志に基づいて進んでいることに気づいて驚いた。私がおバカ故にたまたま上手くいかなかっただけであって、これは大層幸せなことではあるまいか。そう、唯一にして最大の不幸は、私の能力が私の意志の圧倒的な自由度に全く追いついていなかったことである。

 

だから人生が下手なんだよお前はよ

私の意志は、私の才無きに反して、あまりにも自由であった。これはあまりにもやりきれないではないか。私の意志は、私の才無きの故に、ある程度の適切な制限が加えられるべきだったのだ。きっと。私が何かを意志した際において、私を気絶させてでもその意志を制限するような何か、人でも、金でも、物でも、時の運でも、そういうものによって、私の意志は適度に捻じ曲げられるべきであったのだ。なんと贅沢で、なんと罰当たりで、なんと傲慢な悩みであることか。これを簡潔に表せば、「お前らどうしてあの時俺を止めてくれなかったんだ!」の一言に尽きる。なんと立派で、なんと尊大で、なんと最低な責任転嫁だろう。「適切な制限が加え られる・・・ べきだった」だって?「適切な制限を加えるべきだった」の間違いだろう!20年近くもの間、私の意志を自由にさせてくれた両親に対して、お前ってやつは。グゥ。酷い人間もいたものだ。

 

廃線を征く

私の意志は、私の人生を良い方向に導けるだけの力を持っていなかった。ただ有り余る自由を振りかざして、まるで見当違いな脇道を、胸張ってずんずん歩いてここまで来たのだ。そして恐ろしいことに、私の意志はこれからもきっと自由である。今のバイトを辞めるも自由、新しいバイトを始めるも自由、山に篭もるも自由、海に沈むも自由なのだ。おお、自由とは、かようにもおぞましいものであったか。意志において自由の身でありながら意志の自由を全く活かしきれないのなら、囚われの身よりも却って不自由である。この辺りに、誰かが敷いた古いレールでも残ってないだろうか。草ボーボーだろうが錆びていようがなんだって構いやしない。私は見捨てられた線路の上を歩く。

 

 

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「楽しい」という楽しくない迷宮についての覚書|こういうことは頭で考え始めた時点で負け

うごご

時々、「私から見てもほかの人から見ても、おおよそ楽しいと思えるものを仕上げたい」と意気込んでキーボードを叩くのだが、ウーン、おおよそ楽しいものとは難しい。抽象的なことを考えるのは大変に好きであるからして、おおよそなものを書くことは得意なのだけども。自己満足こそが原動力となるこのようなコンテンツにおいて、人を喜ばそうなどと考えだすとロクなことにならないことは重々承知なのだが、日頃後ろ向きなことばかり書いている私にだって、たまには楽しいものを作りたいという願望くらいはあるのだ。楽しいもの、楽しめるもの、時間が経ってもなお楽しむに値するものを。普段は出来る限り楽しんで書きたい・・・・・・・・ 、でも時々は 書いたものを楽しみたい・・・・・・・・・・・ 「自分が楽しんで書くこと」「自分が書いたものを楽しむこと」は、「フランスワイン」と「フランスで売ってるワイン」くらい違うんだ。フランスワインがフランスで売ってるワインとは限らないし、フランスで売ってるワインがフランスワインとも限らないのだ。それにアレだ、私が書いて他人が楽しめるのなら、私自身も楽しめるに決まってるだろ!いい加減にしろ!ええい、私にとっての楽しいものとは、他人にとっての楽しいものとは、そしてそもそも「楽しい」とは一体……

 

対戦カードゲームのひとり遊びというのもそれなりにオツなんだ

ハグロは激怒した。なんやかんや。ハグロには「楽しい」が分からぬ。ハグロは、村のフリーターである。なます を吹き、睡魔と遊んで暮らしてきた。けれども他人の「楽しい」に対しては、人一倍に敏感であった。このハグロという村のフリーター、自分の「楽しい」はてんで分からぬが、他人の「楽しい」に関してはやたらと明敏になるのである。この場合における他人の「楽しい」というのは、単純に「他人が楽しそうにしているさま」という意味もあるし、「自分の行いが他人にとって楽しくあるかどうか」という意味もある。昨晩コンビニに寄ったらヤンキーが3人たむろしていた。ウゲッヤンキーだあ……と自然距離を取っていたのだが、嫌でも聞こえてくる彼らの会話に耳を傾けてみると、ひたすらポケモンカードの話をしていた。なんだお前ら楽しそうじゃねえか。私もなあ、これでも幼稚園から小学校低学年までポケモンカードしてたんだ。エネルギーカードとか、赤色のツヤツヤしたおはじきみたいなやつとか、オーキド博士とか、そういうのがあったのはぼんやり覚えてるぞ。まあ、やる友達がいなかったからいつもひとり対戦してたけどな。ガハハ。そんな具合で、他人の「楽しい」を感知して、「ああ、楽しいんだなあ」と認識することは実に容易なのだ。それに比べて、自分の「楽しい」を感知することの難しさと言ったら。

 

口に出して確かめるようなことでもあるまいに

ブログを書いているときも、面白い動画を見ているときも、私はきっと「楽しい」のだと思う。楽しくなかったらブログなんか書かないし、寝落ちするまで動画を延々垂れ流したりなんかしない。けれども、楽しそうな他人を見ているときほどに、自分の「楽しい」をはっきり感じ取ることが出来ないのは不思議なものだ。昔はむしろ逆だったような気もするのだが。自分で自分の手の甲をつねったら痛い。それは、他人が他人に手の甲をつねられているのを見ているときよりも、ずっとはっきり感じることができる。自分が「腰いてえ~」と唸っているのと、他人が「腰いてえ~」と唸っているのを見るのとでは、「腰いてえ~」の度合いが段違いなのだ。そりゃあ、心底痛がっている人や酷い傷を見るとこちらまでイテテとなりもするだろうが、所詮それは他人の「いてえ~」であって、こちらは想像の痛みをぼんやり感じ取るだけに過ぎないのだから。それなのに、自分の「楽しい」はどうしてこうも感じづらいのだろうか?ものは試し、キーボードを鳴らしながら、「ブログを書くこと、楽しい!」と口に出してみる。面白い動画を再生しながら、「動画を見ること、楽しい!」と呟いてみる。確かに楽しいんだ。楽しいんだが……ウーン、これじゃない。これじゃないんだよなあ。

 

当ブログは習慣とも惰性とも違う不思議な力によって運営されています

「ブログを楽しんで書いているか」と問われれば、「まあ多分楽しいんだと思いますよ、書いている最中のことはよく分かりませんけども」と答えるしかない。「自分で書いたブログを楽しんでいるか」と問われれば、「何書いてんだこいつと思うことはありますけども、果たしてこのブログが楽しいかどうかはわたくしにはさっぱり分かりません」と答えるしかない。楽しくないなら続けてない、楽しいから続いてる、続いてるなら楽しいはず、きっとそう。それなのに、はっきりと「楽しいです」と答えることが出来ない理由は、ウーン、ちょっとよく分かりませんね。まあ、そんなことが分からなくてもこうしてブログは続いてるわけだし、続いてるなら楽しくないってことはないだろうし、本当に楽しいかは分からないけれど、分からないものが分からないままで上手いこと続いている、そういうことで手を打ってほしい。

 

結局のところ、「楽しい」とはどういうことですか?

楽しいということです。

 

 

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