珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

ブログに対するクソデカ感情についての覚書|神はブログを読まない

近頃はブログに対する期待値が大きすぎる

もしかすると私はこうして地道にブログを書き続けていればいつか神や救世主がふらりと私のブログを読みにやって来て「ほーんなんや気の毒な奴やな救ったろ」という慈悲を頂けて(ついでに読者も1人増えて)それで救われるとでも思っているのか?そうでなくとも例えば「どうも白黒さん突然ですがあなたのブログが好きです僕と一緒に文章書きませんか」って誘ってくれる人がやってきたり何かの間違いで有名ブロガーに目をつけられて紹介されたりとかそういうなんやかんやがあって読者がめちゃくちゃ増えたりして自己肯定感が大いに満たされ性格も前向きになりやがて運命が好転する日がやって来るとでも思っているのか?

 

可能性だけで生きられる人間はコスパいいですね

「自分の弱音が不特定多数でもいい誰かしらの目に留まっている限りいつか救われる可能性がある」と信じている人がいる限り、弱音を誰かしらの目に留まらせるサービスは必要である。人は案外辛抱強いので、人の中に希望を投じるのに初めから救いを与える必要は無い。「救われる可能性」だけで差し当たり十分なのである。勿論、その可能性だけでいつまで保つかは個人の忍耐力に依る。世の中、「救われる可能性」を与えるものはごまんとあるが、救いそのものを与えられる人ないし物はそうそうあるものではない。困窮した状況での莫大な金とか、孤独な状況での最高の理解者とか、この上ない苦痛に苛まれた状況での死とか。宗教は……どうなんだろうな。現世で宗教を信じ続けることは、「救われる可能性」を信じ続けられることで、そのこと自体が当人にとっては救いそのものなのかもしれない。死ぬまで可能性を信じられるのは幸せなのかもしれない。まあ、とにかく、なんだ、神はブログを読まない。

 

まめな性格じゃなきゃ悪魔なんかやってられない

ブログを読んでくれない神よりも、ブログを読んでくれる悪魔の方が良い。自分の話を聞いてくれない神よりも、自分の話を熱心に聞いてくれる悪魔の方に救いを見出してしまう。そういうことが稀によくある。悪魔はブログを読んでくれるどころか全ての記事にスターを付けてくれるし、感想も書いてくれるし、読者登録をして他の悪魔仲間にブログの宣伝までしてくれる。わあい、なんて優しいんだ。いつか魂を喰われたって構うものか。救いが欲しい今、今この瞬間に、救いの可能性を与えてくれる悪魔の方がずっと優しい。だって、ほら、そう、神はブログを読まない。

 

海はいつでもそこにあるよ

「ブログを書いていると救われる気がする」と書くと死ぬほど大袈裟な気もするが、実際のところこうして文章を書いて発信することで、自分の中の削り落としたいが同時に抱え続けたいような部分を捨てることなく背負うことなくネットの海にぷかぷか浮かべていられるから楽なのだ。自宅に置いておくのは煩わしいが捨てるには惜しいようなものをレンタル倉庫にぶち込んでとりあえず安心、そういう感覚に似ている。弱音は吐いたあとに放り投げてしまいたいが本音は吐いたあとに握り締めておきたい。弱音と本音は紙一重のような部分があるので、その辺りの調整がなんとも難しいのだが、即時に調整出来ないからこそブログが役に立つ。あーなんかもうこれわからん、全部書いとこ。それで後から見直して「アホなこと言ってるなあ」と思った部分を水に沈め、「たまにはマシなことも言うんだなあ」と思った部分は水揚げする。日や気分によってそれらを揚げたり沈めたりしながら、ネットの海でちゃぷちゃぷ水遊びをするのである。天地創造の3日目において神は海をつくられた。私には神がつくられた海で遊ぶよりネットの海の方がずっと愉しい。ブログの上ではこんな不敬なことを書いても大丈夫。なぜなら、ねえ、へへ、神はブログを読まない。

 

 神<小林製薬

以前あちこちの湿疹が酷いと書いたのだが、あれからシモのやつが治った代わりに近頃は足首と頭皮の湿疹がすごくて足首は歩くたびに擦れて痛いし頭は常に痒いし掻いたらヒリヒリするし洗っても洗っても後頭部からくさそう くさい汁が出てくるし耳垢みたいなかさぶたとか一般的にフケと呼んで差し支えない粉がぽろぽろ落ちるしもう最悪だ。ざっくり調べたら脂漏性皮膚炎と出た。来月皮膚科に行ったら手指と頭と足を診てもらおう。ああ神様、もしこのブログを見ていたらあちこちにある忌々しい湿疹をどうにかしてください。あっ神はブログを読まないんだった。神は死んだ。

 

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