たくさんの可能性とささやかなおつかい願望についての覚書|イオンモール貸し切ってこども銀行券で買い物ごっこしたい
みんな「買い物」と「買った物」どっちが好き?
中に魑魅魍魎入ってそう
別にふざけているわけではなくて、ざっくり言えば「過程」が好きか、「結果」が好きかという問いかけである。もしくは、購買行為における「過程」とはほぼ「選考」の謂いであるし、同様に「結果」とはほぼ「取得」の謂いであるので、「選考」が好きか「取得」が好きかと言い換えてもよい。その辺りの改変はお好みでどうぞ。私が「買い物」と「買った物」どちらの方が好きかと訊かれたら、断然「買い物」と答える。品物が実際に自分のものになる前の段階、つまり棚を眺めながら品物をアレコレ見定めている間は、そこにある全ての可能性が自分に向かって開かれているわけだ。四方八方からあらゆる品物の可能性を感じる。それこそ無数の可能性に押しつぶされて窒息しそうなほどに。で、選考を経て特定の品物を我が物にしたあとは、その直後こそまだ無数の可能性は私に向かって開いている(「やっぱりアレも買っておこう」のためのボーナスタイムがある)が、それは速やかに収束する。私に残されたものは、購入した特定の品物が、私に対して見せてくれる可能性のみとなる。その可能性もまた素晴らしいものではあるのだが、可能性の大きさとしては選考時の足元にも及ばないのである。やっぱり大きくて中身がいっぱい詰まっているものは最高だな。せっかくだから私はこの大きな 葛篭 を選ぶぜ。
寄ってくる動物しんから可愛い
たくさんの犬が尻尾フリフリこちらへ寄ってきてくれるのもいいが、最終的にお気に入りの1匹を抱えて家路に着くのもまたいい。その場合でも、やっぱり私は前者の方が好きなのかもしれない。たくさんの犬をじっと見つめたり見つめられたりしているその瞬間があれば、その日は手ぶらで帰ることになっても一向に構わないと思う。触れることさえ出来なくてもいい。たくさんの可能性を眺めているだけで満足、いや、たくさんの可能性に私自身が眺められている(?)だけで十分満足なのだ。品定めするのは私ではなくて、可能性の側だ。可能性が私を品評する!それが無生物であってもいいし、犬のように可愛い動物であってもいい!ただし人間、テメーはダメだ
でもやっぱり他人に付帯している可能性が他のなによりもつよいんだよね
店頭に並んでいる白いシャツや黒いズボンが私を眺めやるところの可能性ならば、ペットショップでこちらをきょとんと見つめてくる犬もそのへんの路地で冷めた視線をぶつけてくる猫もまた、私を眺めやるところの可能性である。もちろん人間、というか他人だってそうだ。すべての他人は、私を眺めやるところの可能性だ。ウゲーッ。私を見ている可能性それ自身に高度な自我と意思があるというのは見られ心地が悪いなあ。可能性は、あくまで ただの 可能性としてそこにいてほしい。考える可能性、意思する可能性などではなく。でもそうしたら無生物や動物と変わりがなくなっちゃうのか。他人に付帯する可能性は、あまりにも変動幅が大きすぎてまことリスキーだ。私を眺めやる無数の可能性の中から この 白いシャツを買ったはずなのに家に帰って袋を開けたら あの 黒いズボンになってるくらいブレブレだ。
はじめてのおつかい
「買い物」はしたいけど欲しいものがあるわけじゃないしお金も使いたくない、みたいなことがわりとちょくちょくある。誰か私におつかいさせてくれませんか?代金もチップも要りません。お釣りはレシートを添えて1円残らずお返しします。買い物メモとお金を渡してくれればそれでいいので。作戦指示があればちゃんと従います。「ガンガンいこうぜ」と指示されたらそれなりに良いものを選んで買ってくるし、「おかねだいじに」と指示されたら安さ最優先で選択するし。「買い物」してえ~。「買った物」は特にいらねえ~。