珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

自分だらけの世界で愛を叫ぶ覚書|神じゃん

※違います

そんなわけで、よきひとにおいてはこういった諸相がことごとく自分自身への関係において見出されるということ、しかるに彼は友をみること自分自身をみるごとくである(すなわち友は「第二の自己」である)ということに基づいて、「愛」とは以上のような態度の何ものかであると考えられるにいたるのであり、また「親愛なるひと」「友なるひと」とはこういった態度の見出されるようなひとにほかならないと考えられるわけであろう。

アリストテレス『ニコマコス倫理学(下)』p121,岩波文庫,1973

おまえのものはおれのもの→おまえはおれ

shirokuro-044.hatenablog.jp

 

邦訳が ごとく・・・ となっているのは一旦忘れよう

苦悩や快楽といった諸相をことごとく自分自身への関係として見出せるような「よきひと」でいることはそう容易いことでもない。だからこそわざわざ凡人と区別して「よきひと」と言われているのであるが。人間には共感というものがあって、近しい人、親しい人が抱く諸相に共感を覚えるのはごくごく当たり前の事象である。友が苦悩しているときにその苦悩を自分自身の関係のように感じ、また快楽を得ているときはその快楽をあたかも自分自身の関係のように感じられるような。しかし残念なことに我々のような凡人、「よきひと」に対して「なみのひと」とでもしておこうか、にとっては あたかも・・・・ 自分自身の関係 のように・・・・ 感じるのが精一杯であって、自分自身の関係 として・・・ 見出すことはなかなかの困難である。要するに、友を真の意味で第二の自己とみなすには、我々「なみのひと」には愛やら徳やら善性やらがいくらか不足しているのであり、友はあくまで第一の他人に留まっている。

 

私の友なら私の速さに着いて来れずに全員振り落とされたよ

第一の自己を観るには鏡や水面や何かしら映すものが必要なのに対して、第二の自己を観るのにそういったものは必要ない。第二の自己と言ってもあくまで他人、異なる肉体を持つ相手なのであるから。友の真正面に立って第二の自己をみることは、何かしら映すものの前に立って第一の自己を観るより随分とやさしそうに見える。けれどもそれはただ単に、ロクに友もいない人の立場からそう見えているだけなんだろうなあ。友が第二の自己であること、そこにはカンタンとかムツカシイとかラクショウとかタイヘンとかそんなしみったれた概念はなくて、ただただ眩いばかりの愛とか徳とか善とかがあるんだろうなあ。それ故に、感じられるものは溢れんばかりの快なんだろうなあ。

 

おれはおまえでおまえもおれで

「よきひと」にとっては、友とは第二の自己であり、また「よきひと」なら必然的に「友なるひと」も多かろうから、当然あっちこっちに第二の自己が散らかっていることになるわけか。ウーン、なんだかおっかないな。それなら当分「なみのひと」でいいや。あっちにもこっちにも自己がある、遍く自己が広がっている。自己も歩けば自己に当たる。彼ら自己 の苦しみは自らの苦しみであり、 自己彼ら の喜びは自らの喜びである。何故というに、彼ら自己 自己彼ら だからである。イヤイヤ、それってもうじゃん。だってほら、彼ら自己自己彼ら で、自己彼ら 彼ら自己で。イヤほんと……神じゃん。

神じゃん。

 

 

f:id:shirokuro_044:20210610112240p:plain