珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

消費に振り回されるいち消費者の覚書|「消費」にケンカ売っていけ

※頭からっぽにして読んでください書いてる側も頭からっぽです

 

消費の主体にして対象にして操縦者にして歯車にして支配者にして隷属者にして加害者にして被害者たるみなさん

人間が、未知にして彼らに恐怖を抱かせる存在を「怪物」と呼ぶとき、未知にして彼らに恐怖を抱かせる存在もまた、人間を「怪物」と呼んでいることだろう。そして仮に、私がそんな「怪物」であったならば、人間のことをこう表現する。「人間――全てを消費し尽くすまで終わらない怪物」と。消費って、人間っぽい。「消費」ということばの成り立ちを少しだけググってみたが、西周が作ったらしいということ以外よく分からなかったのでめんどくさいし都合よく解釈してやろう。費やして、消すのだ。ワハハハハ。神様ですら人間の愚行を眺めながら、「エッ、それ費やして消しちゃうのかよ」って思ってそう。そして、私が私の定義した「怪物としての人間」から少しでも抜け出そうと思うならば、私は「消費」を少しでも減らさなければならない。ウワッ経済の敵!しかし、私が「消費」を少し減らしてみたところで何だというのだ。第一、動物や植物ですら何かしらを消費するではないか。人間と動物や植物をしっかり区別するには、「消」と「費」のほかに、もうひとつ何かが必要のようだ。何にしようかな?

 

それはそれとして

なんとまあ、人間が何かを発見してからそれを欲し、手に入れ、費やして、消すに至るまでの道のりの長きことよ。我々がまず何かを見てそれに対して欲しいという気を起こすには、それなりの情緒が必要になる。「欲しい」という感情にも一定の快楽を伴う。何かを欲しがっている時の焦れったい快楽はその時固有のものであり、何にも代え難い快楽である。それなりの情緒でもって「欲しい」という気を起こしたあとは、さあそのモノに向かって突進……というわけにもいかず、対価としての金を用意する必要がある。手元に必要なだけの金がある状態は、またある種の快楽を生む。それで手元の金と目当てのモノを交換した時、第一の山にして恐らく最大の快楽を得る。ヒョオ!そして目当てのモノがただ自分の手の中にある状態においても人はゆるゆると快楽を感じる。ンフフ。で、いざそれを費やす時となると、快楽の第二の山がやって来る。やがて費やしきってそれを消すに至ったとき、一瞬ながらえも言われぬ切ない快楽を覚え、人によってはそれを再び得たいと思うことによって、再度「欲しい」というもどかしい快楽の沼に自ら身を浸しにいくのである。こう見ると、人間の発見から消費までの行為は始終快楽で満ち溢れていて、人はそれを1日何度も何度も繰り返す……じゃあ我々はもっとハッピーでいてもいいんじゃあないか?もっとハッピーであるべきなんじゃないか?ええと、現代人がハッピーを感じる基準ってのが確か……畜生!あんな天高く!何故だ!ついこの間まで、ひとかけらのパンを手に入れて珠玉のハッピーを感じていた俺たちは一体どこへ行ってしまったんだ!ハッピーの基準をあんなところにまで引き上げた連中はいったい誰だ!

 

私がパンで喜ぶんじゃなくてパンが私を喜ばせてくださるんだ

もし現代人の我々が、ひとかけらのパン ごとき・・・ でいちいち珠玉のハッピーを感じていたら、そのうちテクノブレイクして死んでしまうだろう。おいおいパン ごとき・・・ で、とな。ウーン、人間偉くなったものだな。いや、ハッピーそのものがみすぼらしくなったのか?現代日本で現代人らしく、それも特別裕福でも貧しくもない至って普通の現代人として生きながら、ひとかけらのパンに対して本気でウキウキ出来る自然な感性を取り戻したいなどと考えるのは無謀だろうか。手元の財を全てぶん投げて貧乏になればひとかけらのパンで大喜び出来ますよって、そうじゃないんだ。そうじゃなくて……ウーン。ウーン?

 

多々買わなければ生き残れないこんな世の中じゃ

目に見えるものを費やし、消すために、我々はそれ以上の目に見えないものを費やし、消している。人によっては日々最悪のコストパフォーマンスで目に見えるものの消費に勤しんでいるわけだが、今まさに最悪のコストパフォーマンスで手に入れたものに対して、「コスパの良い買い物をした」などと言えるのもまた人ならではだ。ランダムな100人を生け贄に捧げることでこれまたランダムな10人の命を救った者が、「人の命を救った、良いことをした」と胸を張って言っているような……そう、怪物。悪いとは言い切れぬが、決して良いとも言えぬ怪物。怪物はめちゃくちゃだから怪物で、めちゃくちゃな消費をするから消費の怪物なのだ。消費の怪物はいずれ、自らの身体を消費し尽くして滅びるだろう。「発見」して、「欲求」し、「入手」して、「消費」を完了する一連の過程には、夢心地の快楽が満ち満ちているのだから。その対象が自分の身体であっても。

 

身の回りをミニマルにしたいんじゃなくて消費そのものをミニマルにしたいって隣の樽に入った人が言ってました

おーいばあさんや、わしはいったいどこへ行こうとしとるんだ。おーい。

 

 

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