珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

暇を持て余してない人々の遊びについての覚書|おーい磯野人生ごっこしようぜ

猶予は毒、期限は薬

向こう1週間くらいを本気で生きようと思うならば、自分の命は今月限りで尽きるものだと仮定して、そのように生きればよい。残している仕事、どれからやるべきか?積んでいる本、どれから読むべきか?未だ消化されない好奇心、どこから満たすべきか?私は残りの僅かな期間で、ありったけの快楽を貪るべきか?それとも可能な限り徳を積むべきか?雑事は全て放り棄てて、有意義なことにのみ奔走すべきか?それとも雑事は全て片付けて、無為な日常の中から何かを見出そうと努めるべきか?――いやはや、人生の本番よりも「人生ごっこをしている時の方が、人生に対してより真剣に向き合うようになるらしい。子供の「ごっこ遊び」が真剣でないことがあるだろうか。子供たちは至って真面目におもちゃの野菜を切り、肉を断ち、魚を捌き、それを食卓に並べ、手を合わせてそれを食べる。真剣に料理をして、真剣に配膳をして、真剣に食事をする。彼らは至って真剣にやっているのである。ところがごっこ遊びには真剣な子供達も、その食事が「本番」になると、途中で席を立ってうろうろしたり、食器を放り投げてみたり、ぽろぽろぽろぽろこぼしてみたりするのだから可笑しいったらない。さっきまであんな真剣に「食事」をしていたじゃないか。

 

よいこのわくわく人生セットDX

「食事ごっこ」に真剣に取り組む子供が一方の「本番の食事」においては著しく集中力を欠くことがあるように、「人生ごっこ」には真剣に取り組めても「本番の人生」となると真剣に取り組めなくなるのが難儀なものである。どうしてこのようなことが起こるか考えるに、「人生ごっこ」における諸々の 設定・・ は、「本番の人生」においては 目標・・ である。そして「人生ごっこ」はあくまで「ごっこ」なので、どんな突飛な設定でも自由に生やしていい。自由に考えた設定の中で、達成するもよし達成しないもまたよし、楽しく自由にやればいいのだ。しかし「本番の人生」において突飛な目標を自由に決め、リスクもペナルティも負うことなく、それに向かって楽しく自由にやるということは実に難しいのである。あれ、人生って本来はこういう風にやるべきものじゃなかったっけ……?

 

VR人生

「贅沢をする余裕はほぼないが最低限の衣食住の心配もなく毎月ほんのささやかなお小遣いが貰えて死ぬまで働かなくていい人生ごっこがやりたい。あわよくばそれを「本番の人生」としたい。服は全部で10着くらいあれば事足りるし、食事はパンやカップ麺で十分満足出来るし、住むところは今と同じ1Kでいい。こんな慎ましい生活以上に望むことはないというのに。そして悲しいことに、私の現状ではこの「人生ごっこ」の1日体験さえ不可能なのである。働かなくていい人生ごっこのためにはバイトを休まなくちゃいけないからね。余っている有給を全てぶち込んでやることも出来なくもないが、そうすると間違いなく戻ってこれなくなるなあ。

 

ごっこ遊びを真剣にやらないやつは許せないよなあ?

人を動かすのは生命であるが、なるほど人を突き動かすのは寿命である。「使える時間があとこれだけしかない」という焦燥が人を駆り立てる。この寿命は単純に生命が尽きるまでという意味もあるし、「満足に身体が動くまで」とか「老眼鏡無しで本が読めるまで」とか「お肌がピチピチなうちに」とかそういう意味の寿命もある。間違いなく自分のものであるはずのこの肉体が自分のものである期間は驚くほど短い。ただでさえ短い寿命を「本番の人生」なんかに費やしてる場合じゃないんだよ。いい加減に「人生ごっこ」させてくれよ。「本番の人生」は遊びだけど、「人生ごっこ」は遊びじゃねえんだよ。

 

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