珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

知識を人生の足しにすることについての覚書|きっと知識も人間からのプレッシャー感じてるだろうさ

クソライフハッカーに故郷の村を燃やされた人間の所感(※)

知識が人生の足し になる・・・ ことと知識を人生の足し にする・・・ ことは全然違う。ウン。導入として実に申し分ない文章が出来た。どっこいこの文章は点数をつけるなら30点である。これを正確に言えば、知識は人生の足し になら・・・ ないが、知識を人生の足し にする・・・ ことは出来る。ウン。キャッチーなコピーとして実に申し分ない文章が出来た。なんで急にこんなことを言い出したかって、古来より存在する「知識こそ財産」とか「金は自己投資に使え」という旨の論説が、内容の尤もらしさに惹かれて意気揚々と薄っぺらい啓発記事を量産するクソライフハッカーの次なる標的にされている気がしてならないのだ。クソライフハッカー、連中ときたら、「人目を気にしないためには人目を気にしないことが大切です」とか「自分に自信を持つために自信を持つ練習をしましょう」みたいな記事を平気で次々とアップするから本当にタチが悪い。自己啓発系ジャンルはクソライフハッカーのいいカモである。で、何故最近になってやたらと「自分自身を資産とせよ」とする主張が増えたかといえば、まあ、Youtuberの影響が9割あると思う。要は「これからの時代は才能で食おうぜ!」ということである。「自分の才能に投資しよう」と言うのであれば、クソライフハッカー諸君はもう少し自分の文才に投資した方がいい。

※燃やされてないです

 

こくごの時間だああああああああ

Q.知識を「人生の足しにする・・・ 」ことが出来るのなら、「人生の足し にした・・・ 」結果としての「人生の足し になった・・・・ 」も存在し得るはずだし、「人生の足し になった・・・・ 」その過去の地点まで我々がタイムスリップすれば、現在形としての「人生の足し になる・・・・ 」の存在が目の前明らかになるではないか。それに、一体どのようにして「足しにならない」ものを「足しにする」ことが出来るというのか。お前は腹が膨れないもので腹を膨らますことが出来るとでも言うのか?それとも「このパンは腹の足しにならないが、腹の足しにすることは出来る」なんて言葉遊びにもならない台詞を真面目に言うつもりか?

A.あなたは致命的な勘違いをしています。いえ、私がわざと勘違いをさせるように仕向けました。私が先に言った「に・なる」は意思を伴った行動としての「に・なる(become)」です。人が「パンが腹の足しになる」と言うとき、「パンの意思から生じた自発的行動として、パンが人間の元へテクテク歩いて行って、パン自らが腹の足しになる道を選んだ」なんて考える人はいません。しかしこれがパンではなく知識となるとそうはいかないのです。「知識の意思から生じた自発的行動として、知識が人間の元へテクテク歩いて行って、知識自らが人生の足しになる道を選んだ」と考える――正確には、そうなることを受け身で待ち望んでいるだけの人間がゴロゴロいるのです。パンは人間が手に取って口に持っていき咀嚼して飲み込まなければ腹の足しにはなりません。パンを「所持している」だけでは腹の足しにはならないのです。これは知識も同様です。知識を「所持している」だけでは、決して人生の足しにはならないのです。先程述べた人々は「知識は人生の足しになる」と言いながら手の中にある知識を捏ねたり、伸ばしたり、丸めたり、粘土遊びのように弄りまわしながら、決して自分では口に入れようとしないで、知識に自我が芽生えて足が生えて自分の口に飛びこみ、「足し」になるのを延々と待っているのです。

 

知りたいことは《自分の中以外》どこにもない

上のクソ長い段落を要約すると、「じゃあ最初から『知識は持ってるだけじゃなんにもならん』って書けよ」という話であった。そう、持ってるだけじゃなんにもならん。肝心なのは、「どんな」知識を「どこから」得て「いつ」「どこで」「どのように」使うかである。それが満たされて初めて「人生の足し」になるのだ。だが、その肝心な点について大衆向けに述べている文章はほとんど無い。せいぜい「私はこうしています」が関の山。しかしながらその点については私はいかなる書き手も責めるつもりはない。無理だからである。「どんな」知識を「どこから」得て「いつ」「どこで」「どのように」使うかなんて、人それぞれと言うしかないじゃないか。年齢、所在、職業、収入、経歴、趣向、野心、その他諸々、それ次第ですねと言うしかないじゃないか。都内に住んでいて将来は看護師になりたいお小遣い1万円の女子高生と、地方に住んでいてリタイア後に小さな喫茶店を開きたい年収500万のおっさんと、この両名に向かって「こんな知識をここで得てこういう場面でこういう風に使うといいですよ」なんて共通のアドバイスが出来るはずもない。「知識は力!知識は財産!自己投資で人生変えよう!」という決まり文句にケツを叩かれて大海原へ漕ぎ出したはいいものの、どこへ行けばいいか何をすればいいか皆目検討もつかず、ぷかぷか漂っているだけで時間を浪費している人が、きっと大勢いるんだろうな。

 

知識メシ

元も子もないことを言えば、知識が大切だなんて皆最初から分かっているのだ。大声でわざわざ言われなくても。分かっているが、自分に相応しい知識が何か分からずに皆悩んでいる。大人になってから自分の適正を自分で見出すことの難しさよ。或いは一部の人たちは既に十分な知識をその身に持っていて、それでいて使い方や使いどころが分からずに皆困っている。大人になってから未知の領域へ踏み出すことの恐ろしさよ。知識をどうやって「人生の足し」にすればいいかで皆困っている。悩んでいる。「知識」それ自体でメシは食えない。「知識」そのものはパンにはならない。我々は「知識」を発酵させて、こねて、ちぎって、型に入れて、焼いてやらねばメシにありつけない。知識を元手にメシを食っている人たちは、ほんとうにすごい。

 

 

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