惨めさ求めて三千里についての覚書|一般にそれをヤケクソと呼びます
不自由も自由も結局変わらない気がしてきた
煩わしいものから解放された人間がまずやることは、次に嵌めるべき枷を探すことである。エモくてクールでナウなヤングにバカウケな枷を求めて世の中をうろつくことである。今より心地よい枷を探し求めて彷徨うことである。反対に、今嵌めている心地よい枷をわざわざ外そうと試みる者もいる。彼らはよい枷と悪い枷の区別が付いていないか、或いは区別が付いていて尚自ら脱しようとしている。マゾですね。それが快いものであろうが不快なものであろうが、脱いだその瞬間にはもう新しい枷が嵌められているのに、当人だけが「足枷を外してやった、俺は自由だ」という達成感に満ち溢れており、それも自分の足に新しい枷が嵌っていることに気づくまでの束の間の喜びに過ぎないのである。
はい、私はマゾです
心地よい枷ばかり沢山外してきた。心地よい枷を外せば、自分が望むような惨めさが手に入ると思っていた。何に対してというわけではないが、漠然とした罪悪感が常にあって、「自分はこんな心地よいものに縛られていていいのだろうか?」という謎の疑問があった。マゾですね。しかし手に入ったのは理想の惨めさではなく、ただの貧相な人生であった。私は恐らく漫画のキャラクター達が抱えるような惨めさ、夕が夜に変わる瞬間の空の色、黒紅とも藍とも紺とも紫ともつかぬあの深い色のような惨めさが欲しかったのだと思う。現実の人間には有り得ないような、輝かしい惨めさが。残念なことに私はただの凡人だったので、打ち捨てられて長いこと雨ざらしになった金属のようなきったねえ惨めさしか手に入らなかったわけだ。
宝は持ち腐れ人は不貞腐れ
輝かしい者になれないのなら、せめて惨めに。そこは「せめて普通に」ではないのかという声が飛んできそうだが、そうではなくて、せめて惨めにありたいのである。最下位に居座りたい者が最下位を巡って争うという文字通りの最下位争い。私も是非そこに参加したいのであるが、最下位の椅子を巡って闘うにはあまりにも……あまりにも恵まれていたので、もう手遅れかもしれない。人間関係ガチャで良いものを引きすぎたと思う。それほどのレアカードを引き当てたのにそれらを二束三文で売り叩いて、惨めになりたいだ何だとほざく自分の愚かさにも嫌になる。そして時々過去の良かったことを思い出しては、小さな炎にジリジリ炙られるのである。例えるなら、ソシャゲ引退を決意し覚悟が揺らがぬよう手持ちを全て売却していく途中で「アレ、やっぱり……」と淡い後悔の色を滲ませるような。背中から汗が噴き出そうとも目から汗が噴き出そうとも、既に売却したレアカードは戻ってこない。また自分が一から努力(課金)しない限り。たった今自らの意思で捨てたものを再び集めるために時間と労力を金を払える人間はそう多くないだろう。大抵はなんとかして忘れようと努めるか、忘れきれずに後悔の日々を送るのである。
現実なんかクソくらえだ!
私がいつにも増してぼんやりとした記事を書くときは、現実で何か具体的なことが起こっていると思っていただきたい。心地よい枷(ぼんやり)。それを外す(ぼんやり)、云々。このブログを書く上で特別な取り決めは無いのだが、現実の、それも自身に関係するあまりに具体的なことはブログに持ち込まないようにしている。ブログに持ち込んだ以上はそれについて考えなくてはいられないし、考えたところで嫌気が倍増して終わる気がするからだ。現実で思索出来ることは現実で、現実ではうまく思索出来ないことはここ『珈琲三杯』で。私が持ち込むのは現実の抽象的なことと、バイトの愚痴。昨日は一晩で4人の客がゲロを吐いた。以上。