珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

親愛なる退屈へラブコールを送りまくる覚書|「退屈」の粗悪品にご注意ください

職場⇔自宅

単純作業の繰り返しなら比較的得意な方だと思っていたのだが、思いのほか自分に堪え性がなくてがっかりした。「退屈⇔退屈」の往復作業なら全然耐えられるし、それどころかこれぞ我が生き甲斐と言っても過言ではない。退屈ってのは、平和で穏やかな時間の証明じゃないか。小人が不善をしない限りはね。暇がしんどい人も少なからずいるだろうが、私はただ、面白いことが何ひとつなくたって、味気ない日々をぼんやり過ごせればそれでよいのだ。ところで、この「退屈⇔退屈」が闇落ちしたらどうなると思う?私は「苦痛⇔虚無」になると思う。苦痛は退屈が負に行き過ぎたところ、虚無もまた退屈が負に行き過ぎたところであるから。とうの昔に職場での退屈は苦痛へと変わり、自宅での退屈は虚無へと変化した。も……もどして。楽しく労働したいとか充実したおうち時間を過ごしたいとかそんな贅沢は言わないから、退屈な職場と退屈な自宅を往復していたあの頃にもどして。

 

人に向かって怒るくらいなら路傍の石に向かって説教してる方がまだ得るものがある

目の前の苦痛を退屈へ引き戻すことは、少なくとも言葉・理論の上では容易である。感じにくくなればいい。負の要因に対してどこまでも鈍感になればいい。こう書くとなんだか闇を感じるが、要は怒らなきゃいいのだ。苦痛あるところ必ず憤りあり。少なくとも気持ちの上の苦痛に関してはこうだろう。私は肉体を酷使して生きているタイプの人間ではないので、肉体の苦痛の回避方法に関しては上手く言えない。「物理的に回避してください」としか言えない。それにしても、世の中には「怒らない方法」みたいな本がたくさんあって、目の前の怒りを回避することに対する需要がいかに多いかがよく分かる。それだけ怒ってる人がたくさんいるということですね。現実が自分に適合しないとき、人は怒る。逆に、自分が現実に適合しないときも、人は怒る。前者は外へ向かっての怒り、後者は内に向かっての怒りだ。どっちがマシとかどっちが楽とかそんな基準はない。じゃあこの外でも内でもないところ、現実でも自分でも、自分でも現実でもないところに、己の関心を向けられないだろうか?現実も自分も関わらないニュートラルなところに、ひたすら意識を落とし込めないだろうか?……「信仰」というものが一体何のためにあるのか分かってきちゃったな。宗教の話は管轄外なので一旦切り上げます。ハイやめやめ。

 

私の思索(笑)が妄想に近いのは現実でも自分でもないところに逃げ込みたいからなんだろうなあ

「怒らない方法」的な本を読んで、実際怒らないことに成功した人はどのくらいいるだろう。また、それはどのくらい長持ちしただろう。本の中に書いてある「怒らない方法」の実践に成功したということは、少なくともその「怒らない方法」を信じていたということだ。信じてなきゃ実行しないものね。で、そんな具合に「ナニナニの方法」的な本に書かれている「ナニナニの方法」を信じて熱心に実践している間は、現実とか自分とかいうものが幾分か薄くなっているように思う。物語に熱中している間、現実でも自分でもないところに己が潜り込んでいるふわふわとした感覚を味わったことはないだろうか?(実行に移す前の)理論、考察、思想、物語、フィクション、妄想、そういったものの中に飛び込んで、ふわふわふわふわ、現実からも自分からも離れて、どこまでも潜って行けたなら、怒らなくって済むのにね。問題はその状態のまま労働しなきゃならんということなんですけども。あー、そういや、最近流行りの異世界転生物なんかは、「現実ではない」=異世界へ行く「自分ではない」=平凡な人間が勇者や貴族へ転生する、という意味で、まっこと素晴らしい怒りの逸らし方だな。主人公は異世界へ転生することで目の前の怒りを逸らし、読者はそんな主人公の姿に書物を通して没頭することで目の前の怒りを逸らす。異世界転生物は、次元の異なる2人の人間を救うのだ。こりゃたまげた。あっぱれ。

 

一生退屈してえ~

今この瞬間怒りを感じにくくすることと、後から怒りを帳消しにすることとは全然違うので、記事中の「怒り」もしくは「苦痛」に対し、可能な限り「目の前の」と付け足しておいた。負債がなければ返済の義務もないのだ。それに、十分な収入があるならば、負債に対しそれほど気負わずとも済むのだ。この場合の収入とは、楽しみとか、生き甲斐とか、そういうものを指す。逆に言えば、十分な収入のない人間にとっては、僅かな負債さえも命取りである。休日でさえロクに収入がないというのに、平日に負債を溜め込んでたまるか。私にとって、平日は退屈でなければならない。断じて苦痛であってはならない。退屈より上のものなんか一生望みはしないから、一生分の退屈が欲しい。

 

残り半分について思索する尺がないので

虚無を退屈へ引き戻すには、己の存在や人生に意味を見出すという大技が必要であるように思われるし、きっとそれ以上のことは何ひとつ必要ないだろう。

 

 

 

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