珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

死んでいる死体を喜ばす方法についての覚書|他人からプリンを貰って初めて「へえ、自分ってプリンを貰うと嬉しいんだ」と気づくようなタイプの死体

こいついつも同じこと考えてんな

現在の自分に喜んでもらうには、一体何をどうすればよいのだろう。というのも、現在の私がアレコレやっているのは専ら未来の自分に喜んでもらうためであって、言ってしまえば現在の自分の喜び具合に関しては極めて無頓着なのである。だが、現代人としてはある意味正しい姿なのではなかろうか。現在の自分を喜ばすことについては少々セーブしておいて、常に未来の自分に備える。そのセーブが若干効きすぎていることが、目下の問題ではあるのだが。未来への備えが全く無いような人間は専ら愚か者とされる。未来について考えられることそれ自体が至高の贅沢であるというのに。至高の贅沢をやらない人間は愚か者である。至高の贅沢をやらない人間を愚か者とすることもまた、この上ない贅沢である。

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私ちゃんに何が欲しいか聞いても金としか言わないんだもの

現在の自分を大いに喜ばす術を忘れてしまった。こまごまとした喜ばしであれば、そこそこ上手に出来なくもないのだが。例えば、おいしいものを食べる、たっぷり眠る、面白い本を読む、など。だがそれらは大きな喜ばしではない。これらとて積み重ねていけば大きな喜ばしにも成りうるだろうが、そうではなくて、なんかこう、喜ばしくて喜ばしくて仕方がなくなるような喜ばしを自分に向かって施すことが出来ないのである。自分、死んでいる能面みたいな顔して生きてますけど、喜びを感じないわけじゃないんですよ。死んでいる能面ってのはなんか、ええと、なんというかこう、頭痛が痛いみたいな具合ですね。もっと直接的に、死んでいる死体と表現してもいいでしょう。死んでいる死体も、喜ばしてやったら一応は喜ぶんです。ええ。一応。

 

救われる人間と救われない人間をルーレットで決めるのやめろ

自分で自分に上手いこと喜ばしをしてやれないような人間が、一体どこへ向かうのか。極端なところで言えば、人間とか、世の中とか、そういうものを恨み始めるでしょうね。それが更にどこへ向かうかは、本人の性質によるとしか言い様がない。感情と性質には相性があるので。恨みが鬱屈となって内に向かう人間であればこうするでしょうし、憤怒となって外へ向かう人間であればああするでしょう。ただ基本的に人間はよく出来ておるもんで、そこまでやる人間がそれほど多くはならないところに救われているのです。その一方、基本的に人間はよく出来ておらんもんで、そこまでやる人間が決していなくならないところが救われないのです。

 

自分より他人の方がよっぽど自分を喜ばす方法を知っている(今日バイト先でおいしいプリンを貰ったら嬉しかったので)

いくら現在の自分を喜ばす方法が頭の中にあったとて、それが実行に移し得るものでなければ、何の意味もない。今現在の私を喜ばす方法が100億円の豪邸を手に入れることしかないとすれば、それはもう諦めてくださいと言うほかない。だが、そんなことはないだろう。100億円の豪邸なんかこれっぽっちも欲しくはないだろう。もっと身近で、手頃で、実行可能で、それでいて大いに自分を喜ばせてやれるような方法が、きっとどこかにあるだろう。お前の目ん玉の中にないだけで。

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現在に居られない現代人

現実を見ることは得意ですけれど、現在を見ることは苦手なんですよね。参ったなあ。

 

 

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