珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

100万円の100万円、それと0円の私についての覚書|結局金の話じゃねえか

※やたら長い

 

人はなぜいけないことに手を出してしまうのか

なぜなのか

 

こないだバイト先の更衣室のダンボールの下に本来なら都度持って帰るべき制服をこっそり置いて帰ったことはバレてないと思う

たまには現実に近しいことでも思索してみようではないか。本日の議題は「人はなぜいけないことに手を出してしまうのか」。無論、私は犯罪心理学の犯の字どころか犯罪心理学のノの画すら分からないクソ一般人なので、そりゃもう気楽に、気楽に。まず私の立場について言うと、いけないことに手を出す人の気持ちがよく分からない。大抵の人はそうだろう。ニュースでいけないことに手を出してお縄になっている人を見るたびに、彼らはリスクとリターンの単純な計算すら出来ないのかしら?と首を傾げてしまう。ええ、そりゃもう純粋に、純粋に。そしてもうひとつどうしても気になる点があるのだが、彼らが大小問わずいけないことに手を出すとき、「まさかバレやしないだろう」と思っているのか、それとも「バレたところでおおごとにはならないだろう」と思っているのか、それが疑問である。世の倫理がナンボのもんじゃいという豪胆な者も当然いるだろうが、そういう人たちは一旦置いておこう。ニュースばかり眺めていると、悪事からは逃げられないというイメージが強くなりがちだが、きっと世の中にはバレずにうまく逃げ切っている人たちが大勢いるのだろう。そんな人たちの後に続けと勇んでいけないことに手を出した人のうちの一部が、不幸にもバレてしまっているだけなのだろう。私が考えたところで答えが出るわけではない。最後までバレなかった人の統計を取るなんて、そんな透明人間を数えるような真似、出来っこないんだもの。

 

人の基準は人々によって作られる

そういえば「いけないこと」の範囲について言ってなかった。まあ考えてないんですけどね。とりあえずこの記事を書きながらぼんやり思い浮かべているのは、下限が「会社をクビになるくらい」、上限が「人が死なないくらい」。ざ、雑~。私が取り扱えるのはこれくらいなのでこれくらいで許して欲しい。下限については考えてもキリがない。いくら立派な法や条例が存在していても、「いけないこと」の下限なんてものは、それを人が判断する限り、この世に存在しないのだ。本当に恐ろしい話、それはどこまででも下れてしまうのだから。そう、恐ろしい話ね。普段は何の権限も持たない我々一般市民がここぞとばかりに一致団結してみなさい。その気になれば、「塩と砂糖を間違えたから有罪」みたいなレベルにまで、いやそれより もっともっとくだらないレベルにまで下れてしまう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ んだから。反対に、人の命にまで踏み入ってしまうとまるで私の手に負えなくなるので勘弁願いたい。なんか全体的に口調がおかしいのも勘弁願いたい。

 

来世はお嬢様になって「たった100万!クソみてえな額ですわね!」って言う

 ニュース記事(所謂「まとめブログ」系も含めて)のコメントを見ると、大体「こいつの人生終わったな」的なコメントがついている。やらかした内容がくだらなければくだらないほどそれは顕著であるように思える。人生を賭した行いによってその人物が(一時的に)得た利益が卑小であればあるほど、匿名の野次馬はフィーバーする。とんでもなく人の業を感じるが、とりあえずこの点はスルーしておく。「いけないこと」、少なくとも法に触れるくらいのことをするならば、誰であろうと等しく己の人生を賭けることになる。それで、例えばこう言われたりする。「たった100万のために人生を棒に振るなんて」などと。普段は口が裂けても「たった100万」なんて言えないような人々が、口を揃えて「たった100万」と言う。それを見た私も、「ほんと、たった100万のために」と言う。私が100万のことを「たった100万」と言えるのはこういう時くらいだぞ。いやあ、「いけないこと」ってのはすごいな。その大金を紙切れにすることといったら、ジンバブエドルも真っ青。

 

最近は働いていることが世の中への貢献なのかすら分からなくなってきた

私の人生と現金100万円なら、現金100万円の方が価値があるだろうな。私が1年で200万稼ぐことが出来ているという事実を差し置いても、それでもなお現金100万円の方が優れていると思う。思ってしまう。私をフリーターとしてそのまま10年泳がせておいたら2000万円で、現金100万円をそのまま10年泳がせておいたら100万円であるという事実があったとしても、それでもなお。私は働かなくちゃ生きていけないから、今の世の中で生きてくってのは働くってことだ。100万円は、別に働かなくても生きていけるだろう。投資とかは別にして。100万円は、働かなくても生きていけるし、働かなくても価値があるし、働かなくても100万なんだ。私は働かなかったら0円だ。誤解を招かぬよう補足しておくと、少なくとも私自身は、働いてない私のことを0円だと思っているというだけの話です。単純労働するくらいしか貢献できることがないから。そう考えると、やっぱり100万円の方がエライな。それでもねえ、それでも私は100万円には負けないよ。半年働いたらお前に勝てるんだから。お前が優雅に口座の中で眠っている時に、ドタバタして、ペコペコして、ヒイヒイして、見苦しいけど、私は勝てるんだ。100万円に。

 

働くことは死ぬほど嫌いなくせに働かない自分が0円であることに耐えられないという矛盾

仮に私が「いけないこと」をしたとして、つまり働かずして100万円を手に入れたとして、いざ0円の私が100万円の100万円(?)の隣に立ってみたら、そりゃもうあまりにも惨めすぎて耐えられないと思う。私は働かなかったから0円。こいつだって働いてないのに100万円。どうしてお前は何もしてないのに100万円なんだい。私は何もしなかったら0円なのに。私だって何もせずに100万円でありたいのに。そんな0円の私が身の程知らずにも100万円のお前を使おうとしている。いや、使われるのは私の方ではないか?100万円のお前が0円の私を使うんだ。使われた私は100万円の奴隷になる。100万円は私の手を引いて、おまわりさんがたくさんいるところに私を連れて行くだろう。

 

「身の丈」という偉大な言葉

一応言っておくが、私と1億円との試合をお膳立てしようなんて、そんな意地の悪いことはしないでほしい。寝起きすっぴんジャージの私を高級フレンチに無理やり連れて行く(そして追い返される)ような羞恥プレイはよしてくれ。庶民なら誰だって、1億円と並べば惨めさ。もし私が働いていなかったら、100円と並んだって惨めだろうけどね。逆に、毎日キリキリ働いているのに100円と並んでいるのもそれはそれで惨めだ。人間は、隣に並んでよくもわるくも惨めにならないくらいのお金と仲良しするのが1番なんだ。

 

人生で金は買えても金で人生は買い戻せないのよ

「いけないこと」をして身の丈に合わないたくさんのお金を手に入れた末に人生を棒に振る人や、逆に身の丈には到底足りないような端金を手に入れた末に人生を棒に振る人のニュースを見ると、悲しくなるなあと思いました。

 

 

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