珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

賛否を捨てて、そのうち好き嫌いも捨てる覚書|この世で賛否両論じゃないものを探す方が苦労すると思う

素人発言で恐縮ですが

驚いた。ポピュラー音楽にもプロの批評家がおるんか。先日、私がめちゃくちゃ好きな楽曲が収録されているアルバムを調べようと思ったら、wikipediaに曲単体のページがあり、なんとなく覗いたところ、「批評家による評価は賛否両論である」と書かれていて、思わずムッとした。否!?否だって!?そこにあったのは、私にはさっぱり分からない幾つかの音楽用語と、私にもさっぱり分かるような幾つかの音楽用語で綴られた実にゴリッパな「批評」の引用があって、私はそれらを一通り眺めたのちに一言、「結局好みの問題じゃねえか」と脳内でひとりごちて、そのページをあとにした。そのときの私は気付いていなかった。「結局好みの問題じゃねえか」も結局好みの問題であることに。

 

欲を言えば「好き嫌いどちらでもない三論」にしたいところだけど長いし語呂が悪いので泣く泣く諦めます

しかしまあ驚いた。ポピュラー音楽にさえ、「賛」と「否」が必要なのか。ああいや「賛」は必要だな?ウン。「賛」は要る。でも「否」ってよほどのことがない限り要らなくないですか?ここで私が「賛否両論」という言葉の揚げ足取りをしていることは重々自覚している。しかしそれを多分に考慮しても、やっぱり「否」って要らなくないですか?ポピュラー音楽ですよ?IQ3くらいの発言させてもらいますけど、もういっそのこと「好き嫌い両論」でいいじゃん。「批評家によるこの楽曲の評価は好き嫌い両論である」。ウン。それ、世の中の物事はだいたいそうだよ。

 

サムライソードを持ってる方が勝つ

私がめちゃくちゃ好きな曲に対して「メロディーがなってない」などと言われたところで、私がその発言した相手に向かって「いや、メロディーはなってる」と言いながら日本刀を振りかざそうものなら、私が勝ちますよ。相手は丸腰で、私は日本刀を持っているんですから。それで相手が腰を抜かして、「わかったわかった!なってる!メロディーはなってる!なってます!」と意見を翻すようなことがあれば、私はその批評家とやらを一太刀のもとに切り捨てるだろう。反対に、「そんな脅しに屈するものか!私がメロディーはなってないと言ってるんだからなってないんだ!」と果敢にも丸腰で立ち向かってくるようであれば、私は振りかざした刀をおろし、空いている方の手で彼の手を取り固く握り締め、「そうだ、それでいい」と言って微笑みかけるだろう。

 

それでいいんだから

私は好きで、あなたは嫌いで、それでいい。この「それでいい」の、なんと難しいことか。人はこの「それでいい」を指して、意気地なしだの臆病だの弱虫だのと言って詰るかもしれない。しかしここで言うところの「それでいい」を、諦念に基づいた同名のそれと同じにしないでいただきたい。むしろこれは、諦めから最も遠いところにあるのである。全く諦めていないのである。私の手には未だ日本刀が握られており、背には狩り獲った武器を山ほどしょっている。

 

それが出来たら苦労なんてしないシリーズ

同居と住み分けを2ついっぺんにやろうと頑張っている人間の健気さよ。人はそんなに器用じゃないくせにさ。好きと嫌いを同居させた上で、好きと嫌いを住み分けさせようなんて。ワンルームの狭いアパート、当然家具も家電もひとつずつしかない、そこに犬猿の2人を住まわせて、あたかも各々が一人暮らしのように振舞えと。無茶をおっしゃる!だからどちらか片方を、この世における最善のやり方で出来るように尽くせばいいのになと思う。同居するならそれでよし。住み分けるならそれでもよし。ただし、どちらを選ぶにしろ、この世における最善のやり方でせよ。ああ、この「この世における最善のやり方でせよ」ってのがあまりにも難しいのかなあ。「誰も傷つけないようにせよ」って、そんなに難しいかあ?……難しいな?

 

人間の基本ってなんだろう

同じひとつの作品を指して「基本に忠実で堅実だ」と評することもあれば、「セオリー通りでつまらない」と評することもあるでしょう。同じ一人の人間を指して「謙虚で慎ましく協調性がある」と評することもあれば、「引っ込み思案で主体性に欠ける」と評することもあるでしょう。人生のうちで何十ぺん、何百へんとこういう場面に遭遇するでしょう。それがもとで諍いに発展することもあるでしょう。我々は言葉に弄ばれているんだ。我々は言葉のおもちゃなんだ。言葉はプラレールで電車遊びをしている子どもであり、その電車の中に詰め込まれて、しゅっぽしゅっぽとあっちへこっちへいいように運ばれているのが我々なのだ。そこで我々が言葉の上で踊るのをやめ、互いに手を取り合い、ああ利き手には刀を握っているので必然取り合うのは片手ですが、言葉に向かって反旗を翻すときがきたら、そんときはもう、なんか、いい感じになってるんじゃないでしょうか。

 

人間の不協和音も批評して

早い話が、争いをサッサとなくしたいなら、「否」をやめ、「嫌い」をやめ、大事を取って「好き」もやめ、ついでに「賛」もやめてしまえばいいのだ。仏にでもなるつもりなんですか?冒頭で私のお気に入りの曲に「否」を掲げた批評家とやらに私がムッとしたのも、私の中に「好き」とか「賛」がハッキリ残っていたからだ。少しでも争いの種になる可能性があるのなら、いっそのこと「好き」も「賛」も捨ててしまった方がいいのだろう。人間やめたいんですか?こうして「否」をやめろなどと言いつつ、その傍ら「否」を掲げた批評家に「否」を突きつけている私もまた、呆れるほど矛盾しているのであった。「否定はいけない」というこの一文に含まれる強烈な矛盾を、人類が克服できる日は来るのだろうか。

 

 

f:id:shirokuro_044:20211126131603p:plain