珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

人間のマイナスとそれに支配される快楽についての覚書|自分を喰ったり喰わせたり

よくわかる就活

①長所がない

②短所はある

③おわり

レベル100プラスルで殿堂入りしたポケモンマスターです

 分かっちゃいる。分かっちゃいるがそう簡単にマイナスがプラスに変わるものか。電池のプラスとマイナスにはそれぞれ意味があり、ドライバーのプラスとマイナスにもそれぞれ役割があり、ポケモンプラスルマイナンにもそれぞれ種族値の違いがあるのに、人間のマイナスときたら、ただただプラスに置き換わることを期待されるだけの存在だ。マイナスとして生まれたその瞬間からプラスになることを望まれる存在だ。自己を喪失するという目的のためだけに自己を会得した哀れな存在、それが人間のマイナス。オギャーと生まれた男の子に「で、君はいつ女の子になるの?」と尋ねたり、バブーと生まれた女の子に「いいから早く男の子になってよ」とお願いするようなことはしまい。何故「私はコミュニケーションが苦手で積極性に欠けその上融通が利かない人間です!ドン!」では駄目なのか。まあ、そんな奴とは一緒に仕事したくないからね。しょうがないね。

絶対に検索してはいけない寄生虫

とはいえ人間のマイナスをマイナスのまま上手に生かしておく方法が無いわけではない。それは皆様ご存知、自虐である。自分の中のマイナスを店先に吊り下げて見世物にして、それで見物料を稼ぐのだ。これは人間のマイナスがマイナスという自己を保持し続けようとする生存戦略と言っても良い。だから正確には我々がマイナスを店先に吊り下げているのではなく、マイナスが我々の身体を乗っ取って自身を店先に吊り下げるよう仕向けているのである。なんかそういう生き物がいた気がする。カタツムリを乗っ取るようなやつが。あれは検索してはいけない生き物の上位に間違いなくランクインすると思う。ロイコクロリディウムでググってはいけない。

きたねえ看板だなあ

無論、このブログを運営している私もロイコクロディられていることは言うまでもない。「親の金で通った大学を中退しまともな就活もせず夜勤のバイトでヘラヘラ食い繋いでいるろくでなし」という看板を店先に掲げて商売しているのである。今すぐにでもへし折った方がいい看板には違いないのだが、このきったねえ看板が無ければ「珈琲三杯」というブログが成り立たないのだ。そういうコンセプトで始めたから。悲しいことに、私は自身のマイナスに見事身体を乗っ取られている。この場において白黒れむという人間は、白黒れむのマイナスが白黒れむのマイナスとしてこの先ずっと生存し続けるための道具になっているのである。白黒ははぐろって読みます。

はい、私はマゾです

 つまりここで言いたいのは、自身のマイナスをコンセプトに何かしらのコンテンツを打ち立ててしまうと、自身のマイナスから一層逃れられなくなる危険性があるということである。もっと平たい言葉で言えば、自虐を止めるに止められなくなるということだ。「自分がいかにろくでなしかについて書くブログ」を始めると、そのコンセプトである「自分はろくでなし」からなかなか抜け出せなくなる。そして恐ろしいことに自虐には一種の中毒性があるので、いつしか抜け出そうとも思わなくなるのだ。どうして自虐はあんなに気持ちがいいのだろう。考えるにあれは、支配される快楽である。自分にはどうにもならないものに支配される時の絶望感の裏にある、「もう自分では何も考えなくてもいいんだな」という諦めに似た開放感。自分のマイナスという存在に自分の身体を委ね、自分の意思(プライドといってもよい)を半ば放棄して、自分のマイナスに自分の身体を好き放題させることによる、マゾヒズムの目覚めである。「自」分を「虐」めると書いて「自虐」なのだから、マゾなのは当然なのだけれども。

 

ここまで分析したところで、私はこのまま自分のマイナスに自分を乗っ取られたままでいいのだろうかと不安に思い始めた。まあいいか。マゾだし。

 

f:id:shirokuro_044:20200309142736p:plain

やり過ぎ人間のやり過ぎについての覚書|ギャルは政治家より強し

人間、何でもかんでもやり過ぎたがり過ぎ問題

「過ぎたるは及ばざるがごとし」という有難い言葉がある。一見いくらやり過ぎても損することはないように思える物事にだって、大抵は限度はある。ためになる本ならいくらだって読んでもいい気がするが、寝食を疎かにし健康を害するほど読書に耽ってはならない。千切りキャベツならいくらだって食べてもいい気がするが、腹を壊すほど食ってはならない。「やり過ぎ」は良くない。そりゃそうだ。適当な範囲内から逸脱しているからわざわざ「過ぎ」という語尾が付与されるのであって、「どの程度までならやり過ぎてもいいか」という疑問は、「どの程度の悪事なら警察にしょっぴかれないか」と尋ねて回るくらい滑稽である。どうしても何かをし過ぎたいのなら、適当な範囲を引き伸ばして自身を正当化しなければならない。それで適当な範囲の引き伸ばしに成功し、「やり過ぎ」が適当の範疇になれば、めでたしめでたし……ではなく、新たな「やり過ぎ」に挑む者が誕生するだけである。やり過ぎを、やりたがり過ぎる。二重のやり過ぎである。

その理由とは(笑)

何故急にこんなことを言い始めたのかというと、「実は●●のやり過ぎは良くないんです!その理由とは!?」みたいな記事があまりにも多い……多過ぎると感じたからだ。やり過ぎが良くない理由、それはやり過ぎているからである。それ以上でも以下でもない。これでは私のような揚げ足取り野郎から恰好の餌食にされてしまう。というかもうしている。しかしこれだけ「やり過ぎはよくない」というよくよく考えれば当たり前なことを懸命に説く記事が増えたのは、それだけ我々の「やり過ぎ観」が麻痺していると捉えられなくもない。どこからが自分にとってのやり過ぎか自分で判断出来ないし、またやり過ぎている自分にも気づかないのである。他人の言葉で「ここまでは適当、ここからはやり過ぎ」とはっきり定義して貰わなければ、自分の中の適当ラインとやり過ぎラインを決めることすらままならない。本来自分の頭で判断し、心で感じ取り、体の訴えを聞くべきところのやり過ぎラインを。何をするにしても逐一他人の言葉を検索して、「ああ良かった、自分はやり過ぎてないんだ」と安心したり、「どうやらやり過ぎているらしい、気を付けよう」「むしろ自分はもっとやるべきなのでは」と焦ったりする。目を通した記事にそれらしく書いてあることは当然その書き手の中の基準であって、本来書き手によって千差万別になるところだが、世の中のライフハック記事は大抵コピペも同然なので、書き手が違おうとも基準が似たり寄ったりでそう困惑することもないのは有難い限りである。これは皮肉です。

無理な上昇志向と劣等感は体に毒

人間、「適当」や「平均」の範疇でじっとしていることが我慢ならない生き物だ。調子が良い時であればあるほど。「この範囲にいれば大丈夫」だったはずが、次第に「最低ライン」となり、やがて「脱するべき」と考えるようになる。ここまでであれば、何ら変哲のない人間の成長構図である。しかし人間には個人差があるので、ある事に関して「自分の中で10までが適当だがそれ以上はやり過ぎ」な人もいれば、「50になってやっとやり過ぎが見えてくる」人もいる。適当とやり過ぎの境界は、人によってあまりにも違うのである。そして現代人は何かにつけてインターネットで他人の動向を眺める。自分にとってはやり過ぎの範疇に当たることを、平気でこなしている人ばかりに見えてくる。自分よりすごい人ばっかりだ。ああどうしよう。自分ももっとやった方がいいのかな。どこからどこまでやればいいのか分からないや。SNS世界は基本的に、自分の中の平均以上のことを切り取る場であることをお忘れなきよう。

やり過ぎ傾向を抑止しようとすると今度はやり過ぎを悪として強制排除にかかる人間が生まれるのがまた厄介なところ

悪事などの例外を除いて、自分で適当だと判断したらそれが適当、やり過ぎだと感じたらそれがやり過ぎ。本来こうあるべきシステムに対して、「怠慢」とか「身勝手」とか「放縦」とかいう名前を付けた奴は一体誰だ。やり過ぎこそ美徳であると最初に言った奴は誰だ。やり過ぎをやり過ぎと判断出来なくなった人間を増やした奴は一体誰だ。安地で身を休めることは恥ではない。「これは私にとっては少し無理があります」と認めることは恥ではない。やり過ぎないことこそがカッコイイ世の中になってほしい。もちろん、やり過ぎたとしても責められることがない世の中に。インフルエンサーになってそんなことを訴えられたらいいのだけれど。世の中を動かせるのは政治家ではなくカリスマギャルだ。来世はカリスマギャルになろう。

 

f:id:shirokuro_044:20200308075531p:plain

持たざる者の自己啓発についての覚書|啓発する自己が無い!

一時期自己啓発に傾倒して身を滅ぼした人間の感想です

自己啓発は、啓発する価値のある自己を持つ者のみに許された特権的営みである。自分磨きは、磨けば光ることが確約されている自己を持つ者のみに許された特権的娯楽である。美容研究家が美人ばかりなのが良い例だろう。何故美容研究家は美人ばかりなのか。それは彼女らの肉体に美容という労力をかける価値が十分にあるからである。手入れをすれば尚一層美しくなれるという保証が彼女らの肉体に備わっていて、かつそれを自覚しているからである。つまり、プラスからのスタートということだ。自己啓発に余念のない商社マンも、自分磨きに明け暮れるOLも、みな大抵「持てる者」である。持てる者の自己研鑽とそうでない(かもしれない)者の自己研鑽は、間違いなく宝が埋まっている場所を掘ることとそこらへんを当てずっぽうに掘り散らかすことくらい違う。運が良ければ適当に掘っていても当たるものだが、当たるのは運が良ければの話。それを承知で諦めずに掘り続けられる者だけが、宝を掘り当てることが出来るのである。財宝探知機とショベルカーを持った相手と同じフィールドに立ち、彼らを横目にスコップひとつで発掘作業を続けられるメンタルのある者だけが。

限りなく低い位置から始める自己啓発

自己啓発をするためには啓発するに値する自己、言い換えれば自己啓発活動によって達成感を得られる自己をあらかじめ用意しておく必要がある、というのが私の持論である。温泉を掘り当てようと思って延々自宅の庭ばかり掘っていてもどうにもならない。まずは温泉が出るかもしれない場所を探すところから始めなければならない。啓発するに値する自己を手に入れるために、平均未満の我々はまず何を始めれば良いのだろう。以下、平均以上の人が自己啓発するための実用的な方法ではなく、私のような平均未満の 人間が自己啓発というスタートラインに立つために悪あがきするクソみたいなライフハックである。

①インテリアを整える

これは必須だと思う。整理整頓とか掃除は言うまでもなく、とにかく部屋を美しくする。自分の好みに従ってコンセプトある部屋を作る。今時デカい100均をハシゴすれば「それっぽいもの」は大抵揃う。また懲りずに形から入りやがってと揶揄されようが、形にも入れないより何倍もマシだ。何故インテリアを整える必要があるかというと、「お洒落な部屋で暮らしている人」というバッジが手に入るからだ。啓発に値する自己というものは自己から見て価値のある自己だが、そうなると自然他人目線でもある程度の価値を認められるようになる。自己満足と他者からの承認をミックスしながら育てていくのが啓発に値する自己である。技術も専門知識も不要で、小難しいことは避け、なるだけ手っ取り早く、なるだけ沢山の承認を得るためには、そう……「お洒落な部屋で暮らしている人」になるのが一番いいと思う。「お洒落な部屋で暮らしている人」になって、ブログやSNSに部屋の写真をアップして、自己満足と他者からの承認をモリモリ得よう。実生活で3食カップラーメンを食ってようが牛乳石鹸で全身を洗ってようがそんなことはどうでもいい!「お洒落な部屋で暮らしている人」になろう!

マクドナルドのカウンター席で考え事をする

持てる者御用達の店といえばスターバックスドトールコーヒーを筆頭とするオシャレな喫茶店だが、我々は持たざる者なのでマクドナルドに行こう。なるべくカウンター席、目の前が壁か外の風景で、ほかの客があまり視界に入らない落ち着いた場所を選ぶ。そしておもむろに鞄から文庫本を取り出して手元に置き、特に読まずに考え事をする。そうして「なんとなくマックに来て文庫本とコーヒー片手にぼんやりしている自分」を感じる。これは私だけなら恐縮なのだが、マックや喫茶店やネカフェでぼんやりしている時の「謎のモチベーションがじわじわ上がっていく感」がたまらなく好きなのだ。なんか……今ならなんか出来そうな気がする。小難しい本を読んだり、英語の勉強を始めたり、小説を書いてみたり、なんか、なんかに着手出来そうな……そんな気がする。自宅に帰るとそんな気もスンと無くなって普段通りぐうたらすることが殆どなのだが、アレは一体何なのだろうね。他人の目がある環境に身を置くことが原因なのだろうか。今ならスタバで勉強勢の気持ちも分からんでもない。他人の目がある環境でアンニュイな自分を演出する。「あれ、今の自分ちょっとカッコイイかも……マックだけど」と思えたら最高である。マックだけど。

③人生のメインクエストを進める

自分でも一体何を言っているんだか分からないのだが、自宅でくつろいでいる時の自分、ストレスを感じていない状態の自分、好きなことをしている自分こそが本来の自分であって、本来の人生であり、楽な状態にあるこっちが人生のメインクエストで、辛い労働をしている自分は面倒なおつかいクエスト中くらいに考えるよう努めること。今私は面倒なおつかいクエストを終えて楽しくブログを書いているわけだが、今この時間こそが人生のメインクエスト。今この時間こそが本来の私の人生。そういう暗示をかける。のんびり心と体を落ち着けている時間。何かを楽しんでいる時間。30分でも1時間でもいい。そういう時間こそ育てるべきである。まず我々は我々の人生が育てるに値する時間であることを実感する練習をしなければならない。おつかいクエストばかり受注していつまで経ってもメインクエストが進まない人間になってはならない。労働を育てるな!余暇を育てろ!

④市販の自己啓発本を読まない

市販の自己啓発本に書いてある内容は、基本的に持てる者向けである。持たざる者向けのように書いてある本でも、「いやいやそれが出来ないから持たざる者なんだってば」と野次を飛ばしたくなるようなものが多く、総じてハードルが高い。持てる者にとってはちょっと頑張れば手が届くような領域であっても、持たざる者にとっては雲の上の領域。「まず初めに身の回りの物を全てルイ・ヴィトンにします」とか「下準備として1000万円を手元に用意します」と言われても困るのだ。あれらは何かをやる能力(素質)があることを前提にそのやり方を解説する書物なのである。やる能力の無い人間には意味がないどころか自信を失くしたりして逆効果になる場合もある。電話帳でも読んでた方がまだマシだ。市販の自己啓発本を捨てろ!電話帳を読め!

⑤この記事の内容を鵜呑みにしない

これが1番大事。

 

f:id:shirokuro_044:20200306134158p:plain

実体験から考える雑談と同意についての覚書|命短し談ぜよ人間

1600時間は約67日

コロなにがしの影響が痛すぎる。先週は平均して約15%売上が減った。ここまで来ると、仕事が忙しくないことの喜びよりも店の先行きに対する不安の方が大きくなる。普段より軽い売上金収納袋を金庫に押し込みながら、思い描くのは悲観的な妄想ばかり。頼むから世間様に「フリーターのくせにそこそこやるじゃん」と言わしめるだけの貯金が出来るまで私に安心して労働をさせてほしい。フリーターにはボーナスが無いので、貯金はこれまでに費やした時間そのものである。私の口座には時間が入っている。ざっくり計算したところ、どうやら1600時間が入っているらしい。ふーん、私そこそこやるじゃん。なるほど金を時間に換算するのも悪くない。マネーイズタイム。

見つけにくいものです

 時事に疎い私といえど、流石にコロなにがしに関しては情報を集めざるを得ない。これは自分の身を守るためというよりも、コロ某についてなんか言っときゃそれだけで会話が続くからである。どこもマスクが無いですね。トイレットペーパー騒動がなんかすごいですね。休校ってどうなるんでしょうね。3月いっぱいで辞めるバイトで4月から教員になる子がいるんですよ。万一うちから感染者が出たら店はどうなるんでしょうね。てかクッソ暇なんで休憩多く取りませんか。それだけでいくらでも会話が出来る。私の会話の引き出しは「仕事関係」「時事問題」「今日のお天気」くらいしかない。会話の質は人生の質だ。恋愛に関する話も、遊びに関する話も、趣味に関する話も、探すまでもなく見つからない。探すだけ時間の無駄、井上陽水も初手無言で殴るレベル。

アルバイターよ、労働中に雑談せよ

 ところで最近、ある疑念が確信に変わりつつある。軽労働のアルバイトにおいて必要なものは、能力でも技術でも飲み込みの早さでもない。ただひとつ、労働中の雑談力である。一応ことわっておくが何も仕事中にペチャクチャ話せと言っているわけではない。 ただちょっと客足が落ち着いた頃合に、「なんか今日お客さん多いっすね」「あーそういえば今日近くでイベントあってたらしいですよ」「その帰りの人かあ」「でしょうね、どっかのアイドル来てたみたいで」「マジ?」みたいな、こういう取り留めのない雑談を二三往復してまたサッと業務に戻る、そういう短距離走的な会話が出来ることの重要性を近頃痛感している。よく考えてもみてほしい。大抵のアルバイト募集広告には「和気あいあいとした職場です」「従業員同士の仲が良く、長く楽しく働けます」「友達が出来るかも」という文句がつきものだ。この売り文句が正しいことを証明するには、従業員同士が業務中に雑談を交わすことが不可欠なのである。全員が一言も余計な会話をせず数時間ただ黙々と働いているだけの職場はどう考えても和気あいあいとしていない。募集広告詐欺だ。労働開始前や労働終了後の会話時間なんてたかが知れている。誰もが1秒でも遅く来て、1秒でも早く帰りたいのだから。しかしながら時に店側というものは、従業員に私語を控えるよう警告しておきながら、募集広告には「和気あいあいとした職場です」と書く。何たる矛盾。もし仕事中の私語を注意されたのなら、「我々は和気あいあいとした職場を作る努力をしているんですよ」と胸を張って言おう。雑談は義務だ!わーい!

気の利いたことが言えないからせめて同意する

揚げ足取りはさておき、実際に雑談出来る人が同じ時間帯にいれば驚く程仕事は楽になる。暇なときは「暇だなあ」という感情を共有し、忙しい時は「忙しいなあ」という感情を共有する。面白い話なんか別にしなくていい。一方が「暇ですね」と言って「暇ですね、何しましょう」と返せば(返ってくれば)それで充分である。先程から雑談力雑談力と言っているが、同意力と言い換えてもいい。むしろそっちの方が意味合いとして正しい。繰り返すが何も長々私語をしろと言っているのではない。あんまり喋ってたらそりゃ怒られても仕方がない。自分の会話力に自信のない人は、まず同意力から始めよう。相手が「暇だなあ」と言ったら「暇ですね」とある程度感情を込めて返す。相手が何も言っていなくても明らかに暇そうにしていたら、それを先取りして「暇ですね」と言う。それだけでいい。すると相手は、「コイツには同意を求めてもいいんだな」と考えるようになる。私に同意を求めていいですよ、という姿勢を取ることが最もお手軽でかつ効果的なコミュニケーションである。逆を考えると、「クソ暇で仕方ないんだけどコイツに同意を求めてもなあ」という具合に、「この人に話しかけてもどうしようもない」と思う(思われる)のはもう最悪である。私は会話下手の根暗だが、いや会話下手の根暗だからこそ、心の門だけはいつもガバガバに開けておくことにしている。

別にこんな話をするつもりは全く無かったのだけど、書いてしまったものは仕方がない。コミュ障の戯言なので、太ったダイエットコーチが説く太らない方法程度に思っておいて欲しい。 会話下手の同志諸君、今日も頑張って同意を求めたり求められたりしましょうね。

ね。

 

f:id:shirokuro_044:20200304131033j:plain

負け大人の遠吠えについての覚書|こんな大人に誰がした

汝、隣人を滅せよ

プロフィール欄に「嫌いなもの:人間」と書くことが許されるのは果たして何歳までだろう。いやむしろ何歳から許されるのだろう。嫌いなものはあるか尋ねられて「人間」と返す幼稚園児。有象無象としての人間、知った顔以外みな同じに見える人間、人間の敵である人間、足の生えた電柱である人間、アダムとイヴのみぞおちをぶん殴ってでも知恵の実を吐かせるべきだったと私に言わしめるところの、あの人間。人を救うのは人しかいないというけれど、そもそも人を窮地に陥らせているのも大抵が人である。人の敵は人であるからして、客は店員の敵だし、店員もまた客の敵である。Twitterまとめサイトでは連日「クソ客」「クソ店員」の話題に事欠かない。客と店員が匿名でお互いを罵倒し合う素敵な世の中。そして嘆かわしいことに、休日の店員とはどこかの客のことだし、平日の客とはどこかの店員のことである。私の敵は私で、私の敵もまた私。人類に平和が訪れんことを。完。

Let's go to コンビニエンスストア

街中に踏み込めば、多くの人が誰かと共に歩いている。私はひとりが好きなので、どこかへ行くのに誰かを伴うことは滅多に無い。元々活発なタイプでもないし、誰かとつるむなら人数は極力少ない方がいい、別に誰かがいてもいいが、欲を言えば自分ひとりの方がいい。ここ数年接客業で精神をやられてからはもう見る人間見る人間が敵に思えてくるし、自分の隣に金輪際人間など置くものか……仲間、同僚、友達、恋人……そんなものクソ喰らえだ!ひとりで気楽に歩きながら、音楽を聴いて、コンビニに寄る。ひとり最高!ひとりで音楽を聴きながらぷらぷら歩いてふらっとコンビニに寄ること自体は何も悪いことではない。悪いのは、私が10年後も20年後も30年後も下手したらそれ以降も、毎日毎日ひとりで音楽を聴きながらぷらぷら歩いてふらっとコンビニに寄っている可能性があるということである。

人が憎いとかくだらんこと言ってる間に高校の同級生が結婚していく

ある程度歳を取ってくると、単純な自分の性格や趣向の上に、年齢に見合った人生経験や財産(物質・非物質問わず)が有るかという、社会の成員としての役割をきちんと果たしているかという問いが常にのしかかってくる。私がこうやってひとりで過ごしているのは完全なる私の意思で、そこに何の不便も感じていないけれど、この歳になってまともに付き合いのある友人も恋人もいないということに、「社会の成員としての欠陥」を嫌でも考えさせられる。そういうことを気にしてしまう点でも、私は根暗としてアマチュアである。先日の記事参照。若さはあらゆる特権を孕むものだが、ひとりで過ごすことに何の気兼ねも必要ないという点は本当に大きいと思う。街を歩けば自分と同い年くらいの仲良し集団、自分と同い年くらいのカップル、自分と同い年くらいの子連れ夫婦、自分には決して届かない人間の形。決して友人を作ってバカ騒ぎしたいわけでもなし、彼氏が欲しいわけでもなし、家庭を持ちたいわけでもなし。ひとりで充分満たされているはずなのに。ところが私がちっぽけな充足の上で足踏みをしている間に、周りの人間はどんどん社会の成員としての自分を形成している。なんてこった。

見た目は大人、頭脳は子供

 この歳になっても自分のことを大人と思えないし、現実に子供っぽい性分から卒業出来ないのは、人付き合いの不足に原因の一部があるのかもしれない。自分の面倒を見るのは自分、自分の先生は自分、自分の監督は自分、自分のプロデューサーは自分、自分の友人は自分、自分の恋人は自分(?)、付き合う相手は全部自分、最終的にはいつも自分に甘いところの自分で、どうして成長出来ようか。私の成長はいつ止まってしまったのだろう。今の私はただ大人ぶって自分と付き合っているだけの子供だ。ひとりで過ごすことが大人だと思っている小さな子供だ。みんなは子供みたいに他人とバカ騒ぎしながら、大人になっていくのにね。

 

f:id:shirokuro_044:20200301135632p:plain