珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

貰えるものは貰っとく精神についての覚書|当記事の賞味期限:7月10日(金)23時59分59秒

マイナちゃん×楽天カードマン

楽天カードでのマイナポイント申し込みに必要なアプリ

①マイナポイントアプリ

楽天カードアプリ

(※楽天カード楽天ペイの申し込みはアプリからのみ可能)

 

 

 

 

 

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楽天カードちゃんのファンやめます

そんなわけで、私が所持しているキャッシュレス決済手段の中でマイナポイント申請が可能なものはEdyのみとなった。Edyチャージを楽天カードに設定しておけばポイントの二重取りが可能になるため、楽天カードを直接使うよりもEdyを経由した方がお得にはなるわけだし、まあいいか。Edy1回も使ったこと無いけど。基本、ポイントの類にあまり興味のない性質なのだが、楽天ポイントに限ってはかなり貪欲に集めている。今は1万ちょっとある。これまでQR決済非対応の店舗では楽天カードを使っていたけれど、そこがEdy対応店舗なら、今後はEdyを使った方がポイ活的には良いわけだ。ドンキとかね。

 

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えっ今回の記事これだけなんですか?

 

 

 

 

 

 

 

本当にこれだけ?

 

 

 

 

 

楽天カードちゃんのファンになります

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世にも奇妙なおひとりさまライフへの布石についての覚書|私、魔女のキキです。こっちは重複承認の自自

あーあ、自他ともに認めるところでありたいな

人が自身の主張に関して「自他ともに認める」と言う場合、字面通り「自」と「他」によってその内容が認められる必要があるわけで、つまり、本来「自分でそう思っている」+「他人にもそう言われた覚えがある」=「自他ともに認める」という方程式が成り立ってはじめて「自他ともに認める」という言葉を使えるのだ。ウン。当たり前だな。ところで、「私はケチである」という主張を 補強したいがために・・・・・・・・・ 「私がケチであることは自他ともに認めるところである」と言おうとして、はて、私に面と向かって「お前はケチだなあ」と言った人間がいただろうか、と考えたときに、そういえば兄貴に言われたなとか大学時代の友人に言われたなとか心当たりがあれば、それで何ら問題は無いのだ。一方で「自他ともに認める」という言葉を是非とも使いたい場面で適当な「他」を見繕えなかった場合、その場でイマジナリー「他」を拵えても、まあ、重要な場面外であれば特に問題は無いわけだ。イマジナリー「他」は要するに「自」なので、つまるところ「自自ともに認める」だけの話で、その虚しさを許容出来るのであれば。

 

ただ一言「あなたは服を着ています」と言ってくれ

 極端な話が、自分の存在を認めてくれる何かが無い限り、いくら自分で「私は存在しています」と主張しても、自分という存在はただ「自分でそう思っている」だけのものであり、そこには自己の存在に対する安心が致命的に欠けていて、この先はただ自分に宛てた自筆の保証書を握り締めて生きるしかないのである。もし私がここで記事を読んでいる諸兄に向かって「今、私は服を着ています」と主張しても、「自分でそう思っている」だけで、私が服を着ている事実を保証するのは自分しかいないのだ。もしかしたら、今の私は服を着ていると思い込んでいるだけで、実のところ全裸でキーボードを叩いてるかもしれない。いや、私は確実に服を着ているはず。それは私が保証します。他に保証人はいません。けれど、私の想像上の他人はきちんと「あなたは服を着ています、私が保証します」と言ってくれています。その他人は実際他人ではなく私なのだけれど、私と”私”が保証しているから、きっと私は服を着ています。私が服を着ているという事実は、はっきりと、「自自ともに認める」ところであるわけです。……私は本当に服を着ているのかな?

 

おひとりさま、更なる高みへ

しかしこの、「自自ともに認める」の活用如何によっては、真のおひとりさまライフを満喫することだって可能なのだ。己の根幹の諸々について、「自分でそう思っている」+「自分でそう思っている」の式で満足出来るようになりさえすれば。デカルト先生のありがたい言葉を都合よく捻じ曲げて自論に当てはめるならば、自他に認めてもらう必要はおろか、自自にさえ認めてもらわずとも、「自」ただ1人が認めれば、いや「自」に認めて貰いたいなあと考えている自分がいれば、それの時点で既に我はあるらしいのである。とはいえ、我思う故に我ありで存在が成立したとしても、果たしてそれで自己の存在に対する安心まで成立させ得るだろうか。存在の安心、自分がきちんとここにあるというあたたかな実感――それが本当にあるかないかは大した問題ではない。「自分は全然ここにない」と思っている生身の人間と、「自分はきちんとここにある」と思っている幽霊と、どちらが幸せなんだろうな。

 

畜生!騙したな!

世界の中で自分の存在がどんどん希薄になっていき、存在の安心も実感も失ってもう間もなく消滅するという土壇場にあっては、イマジナリー「他」であるところの「自」をいかに素早く組み上げられるかに、自分の存在の存続が懸かっている。イヤイヤ、もう存在の存続なんか要らんから、さっさとこの辺で終いにしてくれんかね。ウゥン、そう望むなら勝手にそうすればいいさね。ただそう言われたとて、肉体は残るんだからねえ。存在を失ったまま、肉体は生き続けるんだからねえ。存在が死んだら肉体も死ぬんじゃないのかって、あのね、あたしゃ肉体=存在なんて言った覚えは1度も無いよ。存在が死んだのに生きている肉体と、存在は生きているけれど肉体が死んでる幽霊、幽霊の方がまだ、 生き生き・・・・ してるだろうね。

 

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あらゆる決断を駄目にするものについての覚書|ここらでしょうもないひとりごとをひとつ

抽象的な導入として申し分ない

思考がいつも抽象的な範囲に留まってるもんで、そこから出る結論も抽象的な範囲から抜け出せず、何ら実生活の助けにならない抽象的なアイデアばかりが自分の周りに転がっているわけだけれども、そのことと私の人生の質とを比較検討するに、人生に意義を持たせるためには日頃からもっと具体的なことを考え、具体的なひと塊の結論を出し、人生に活かせる具体的なアイデアを生んだり生まなかったりする必要があるのだなあ、と思いました まる

 

修正が利く決断は決断として破綻しているような

抽象の魔の手から抜け出せないことが、人生の大事な場面にまで及ぶのなら、それは会社の命運を賭けた新商品の企画会議で「いいものを作りましょう」と言うのと同じようなものだ。もしそこに出席しているのが全員自分であれば、「素晴らしいアイデアだ!いいものを作ろう!」「我々はいいものを作ることにしましょう!」「社運を賭けた新商品はズバリ『いいもの』に決定!」と口々に賛同してくれることだろう。とりあえず今の時点では「いいものを作る」ということだけ決めておいて、具体的な中身については未来の自分に委ねることにする。自身の決断にいつも解釈や変更の余地を残しておくのは極めて賢明な判断だが、数ある賢明な判断の中では最も愚かな判断であろう。「それはそういう意味で言ったんじゃない」とか「あれはやっぱりこういうことにしておこう」とか、かつての考えにその場しのぎの修正を加えて、過去の決定を現在の自分に都合のいいようにしたって、不整合の砂地獄に飲まれてしまうことは必至であろうに。それもまた、未来の自分に修正されてしまうのだろうが。

 

具体性の中心にはブラックホールがあるんだろう

さて、ここまで言ったからには、私は今回の記事をもっと具体性のあるものに昇華する義務がある。①「具体的なことを考える」とは具体的にどういうことか。②「具体的なひと塊の結論」とは具体的にどういうものか。③「人生に活かせる具体的なアイデアを生んだり生まなかったりする」には具体的にどうすればよいのか。そう、何か実地の内容を当てはめて考える前に、「具体的とは具体的に何か」という根本の問題に挑まねばならぬ。具体的ってのはほら、内容がしっかり詰まっていて、輪郭もぼんやりしておらず、何かこう……普通名詞、固有名詞、数名詞などで呼ばれるものを大いに含んでおり、要素に関連した特定の図像を脳裏に描くことが容易い、前歯で噛むと中身がブッチュゥと飛び出す中身たっぷりのごま蜜団子みたいなアレ……

 

隠し味:抽象的なもの

ところで私のようにずる賢い弱虫は、決断が失敗に終わる終わらない以前の問題として、自分の決断がこの先自分自身を苦しめる可能性を極度に恐れる(自分で決断したにも関わらず!)が故に、決断にこっそり抽象的なものを含ませておくのであるが、それは決断そのものにとって腫瘍以外の何者でもなく、私が抽象的なもののお陰で苦痛を減らしている傍ら、決断そのものは抽象的なもののせいで苦痛を増やしているのである。決断の内部に仕込まれた抽象的な部分にあれやこれやとメスを入れて現状に合うよう修正するのも、決断の側からすれば麻酔なしで体中を弄り回されているようなもので、実にお気の毒。ウッ、また話が抽象の側に戻ってきた。具体的に、「具体的とは具体的に何か」、であった。そうそう。まあ、それは次の記事で考えることにしよう。いや次以降の記事で、今度の記事で、まあまあいつかの記事で、考えることにしよう。

 

ひとりごとおわり

抽象的なものにおんぶにだっこで生きてきたのなら、具体性のリハビリが必要になる。かの自分が抱いたところの決断に、5W1Hと、鮮やかなイメージと、詳細な数字を小数点までしっかりと食ませて、修正の余地が一切なくなるまでキリキリ締め上げてから、耐爆金庫に放り込んでおくことにする。左手に握った猫じゃらしを右手で追いかけるような決断の仕方は卒業しよう。行動であれば、何歳何ヶ月何日までに・何を・どうやって、お金であれば、いつまでに・いくら・それこそ必要ならば1円単位まで・何のために、それこそこの窮屈な決断が愉しみに変わるまで。目下の決断は、マイナポイントの申し込みを、12日の24時までに、某コンビニ某店のマルチコピー機にて。対象はクレジットカード。今夜のバイトの休憩時間に申込方法を調べて完璧に把握しておく。ブックマークとイメトレを忘れない。以上。

 

追記:楽天カードのマイナポイント申込はアプリからしか出来ないらしい。

 

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本読みvs良書についての覚書|6月は梅雨時で本が読めるぞ~本が読める読めるぞ~本が読めるぞ~

(※7月です)

梅雨はばかもの やうやう青白(しろ)くなりゆく顔色

紫陽花の見える窓辺に腰掛け、適当に淹れたコーヒーを啜る片手間、適当に見繕った本の頁をぼんやり繰りながら、徒らに時を過ごしていたいそんな良き梅雨の日に、偏頭痛が酷すぎてゲロを吐くという失態を犯した白黒れむです。白黒ははぐろって読みます。数時間前に食べたポテトチップスがわりとそのまま出てびっくりした。まあ、梅雨だろうが秋だろうがとにもかくにも家から出ない私にとって、「読書の季節」など有って無いものだ。一応、梅雨時や紅葉の季節と読書の親和性は認めよう。しかしそういうのって大体、「梅雨に本を読むことが好き」というよりも、「梅雨にアンニュイな気分で本読んでる自分が好き」なだけじゃないかね!ガハハ!(ここで防護服を着る)

 

本読みて 視野狭くなる

熱心にプラトンの著作を読む傍ら、隙あらば(というよりもどさくさに紛れて)哲学をけちょんけちょんにしたがるカール・ヒルティ「眠られぬ夜のために」を読んでいて思ったことがある。を読みながら、それと相対する性質の、あるいは赤をけちょんけちょんにするような性質のなんぞを一緒に読むことは、視野を狭くしないという点で実に良い読書法だ。「一番いいのはサラリーマン」と「サラリーマンなんか今すぐやめなさい」という本の著者が同一人物であることは(ネタとして)わりと有名だが、まあそういった類の本を同時に読むのだ。コーヒーはいいぞという趣旨の本を読むのであれば、紅茶はいいぞという趣旨の本か、コーヒーはよくないぞという趣旨の本を一緒に読む。視野を広くするための読書行為が、知らず知らずのうちに視野の固定化を招いているというのは、珍しい話でもないと思う。相反する2冊の本を同時に用意出来ないのであれば、1冊の本を読んだ後に、その本に向かって一度「うるせえ!!!」と反抗してみるのが良かろう。あなた自身が相反するものになるのだ。

 

良書なんかに負けないんだから

今の世の中、人がどんな本を読んで、どんな思想に染まるも自由である。しかしそんな世の中だからこそ、敢えて良書に対抗する力も必要だと思う。人が本を呑むのは良いが、真の本読みを目指すのであれば、決して本に呑まれてはならない。先日の記事で、「100冊読んで1冊良きものを得るくらいで充分」などと語っていたのもこの辺に関係してのことだ。誤解を恐れずに言うならば、良い本は悪い本よりタチが悪い。悪い本は読んだ人間に自然ある種の警戒心を抱かせるのに対して、良い本は ドキュメンタリーの類だと思って見ていたら最後の方で悔しい思いをする青汁のCMのごとく 腕の立つセールスマンや口のうまい勧誘員のごとくスルスルとこちらの心に入ってきて、いつの間にか多くの人間を、いとも簡単に呑み込んでしまうからである。通常人と本の間に立ちはだかっているかの番人――検討・疑問・考察・批判といった連中――の横をあっさりすり抜けて、あたかもぬいぐるみに麻袋を被せるがごとく無抵抗の人間を丸呑みにし、自分の配下に入れることが可能なのだ。人は良書を己の人生の糧のように考えているようだが、むしろ良書が誰かの人生を糧として生きていると考え、ありったけの警戒心を持って奴らに取り組んだほうがいい。日頃から本を食ってやろうと考えている貪欲な人ほど本に喰われていることに気がつかないものだ。本に喰われてはならない。それにほら、思い返してみれば、何より人は書評を書くではないか。書評を書くというのは、アレだ、ミツバチが花粉を運ぶようなものだ。我々はミツバチだ。これ以上は言う必要あるまい。

 

サウスパーク見てたら神に喧嘩売るくらいなによって思えるからすごい

カール・ヒルティ「眠られぬ夜のために」は、簡潔に言えば、聖書を母体に人の善き生き方について読者に諭すタイプの、そういう本である。私はキリスト教の信仰者ではないが、これを毎晩枕元に置いて寝てもいいくらいには救いに満ち溢れた本だと思う。ただ率直に言って、これは仕方のないことなのだが、「科学より信仰!」「医学より神の愛!」「耐えなさい!忍びなさい!我慢なさい!」みたいな部分とはやはり相容れないなと感じる。どうして神様は今まさに苦しんでいる人間を今まさに救ってくださらないんでしょう。まあなんだ、結局、人は自分を救ってくださる らしい・・・ ものを造るのが得意なのだ。それを医療だと思った人がいたから医学が発展したわけだし、一方ではそれを神様だと思った人がいたから宗教が発展したのだ。――こうしてヒルティにも神様にもしこたま喧嘩を売ったことで、この素晴らしき名著に喰われまいという私の試みは、見事成功したのである。

 

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人を動かすぽんぽこミームについての覚書|いつもよりぽんぽこ多めでお送りします

ぽんぽこりんな人間は大昔からいるものだなあ

だから不正の行いをする者や神のよみ し給わぬような言行をなす者に対しては、どんなことでもやってのけるというので、これに(あなどることのできない)おそるべきやつだなどという名を許したりしないのが何よりも大へんよいことなのです。なぜなら、このような悪名は彼らを得意にさせるものなのでして、彼らはこれをもって、「俺もこれで人の評判だと、 空穴からっけつ の役立たずではないらしい、この世の無用の場所ふさげではないらしい。むしろこれで我輩も一国一都市において、いやしくも身を全うしようとする者がまさにあるべき体の人間となったらしい」と考えるからです。

プラトン『テアイテトス』116頁 田中美知太郎訳,岩波書店,1966

要約:はやく少年院をぽんぽこランドに改称しろ

心がぽんぽこするんじゃあ~

ネットミームに詳しい人であれば、1度くらいは「ぽんぽこランド」という単語を目にしたことがあるのではなかろうか。出典はかの有名な2ちゃんねるスレ“「少年院」を「ぽんぽこランド」に改名したら少年犯罪減るんじゃね?”である。総レス数僅か70の小規模なスレッドながら、2ちゃんねる史に残る屈指の名スレッドだと思う。上のタイトルから元スレの過去ログに飛べるので、ご存知ない方は是非ともクリックして読んで頂きたい。心がぽんぽこすること必至である。そしてここからが本題なのだが、なんともまあ、ソクラテスもこう述べているように、2400年前のギリシアにおいて既に、「悪たる人間を悪の名で呼ぶと付け上がる」ということが証明されている。ジーザス(※)、これはひどい。人間はこの2400年、一体何を学んできたというのか。

※紀元前なのでジーザスはまだ生まれていない

(頭が)ぽんぽこ

最近でいうところの「マスク警察」がそれに近いだろう。「警察」という部分がだめだ。あいつらただの狂った連中だぞ。警察もとばっちりではないか。なんせ実際、バイト先の人が「マスク警察」から被害を受けているもんで。そいつは突然店に殴り込んできて、「街を歩いている若者がマスクを付けていない!!おいお前!!一体全体これはどういうことだ!!」と怒鳴り、それに困惑する受付担当者を見て「なんだお前のその態度は!!」としこたま唾を飛ばして帰っていったらしい。唾を飛ばすな。本末も転んだついでに4回転半するレベルで意味がわからない。うちでは従業員マスク着用が義務になったので、当時の受付担当者はマスクをしていたはずであり、「マスクを着けていない当事者の若者に直接怒鳴り散らす」ならまだ理解が追いつくのだが、「マスクをきちんと着用している無関係の人間に怒鳴り散らす」という点で本当に意味がわからない。というわけで、連中を「マスク警察」などと呼んではならない。連中を得意にさせるからである。「脳みそぽんぽこマスク太郎」に改称しろ。

※当記事にはたぬき、及び「ぽんぽこ」を冠するありとあらゆる企業・個人等を貶す意図は一切ありません

脳みそぽんぽこマスク太郎の話はここでお開きにして、なんというか考えさせられるのが、言葉の影響力である。実際少年院がぽんぽこランドに改称されたら、冗談抜きで少年犯罪は減ると思う。だって……ウン。施設の機能自体は何も変わらない、ただ名前がぽんぽこランドになったというだけなのだが。もし港区がぽんぽこ区だったら、今ほど多くの人々が憧れるエリート区にはならなかったかもしれない。そこにはグーグルもある、ヤフーもある、電通もある、博報堂もある、日テレもある、ソニーもある、ただ、ぽんぽこ区である。そこで働くエリート女子はぽんぽこ区女子である。ちょっと可愛い。しかしながら同時に言えることは、仮に港区がぽんぽこ区であったならば、「ぽんぽこ」という言葉がエリートを表す言葉に転化する可能性もな……無くも……無くもないかもしれなくもないかもしれない……ということだ。それが一度浸透してしまえば、我々は「ぽんぽこ」に対するぽんぽこ感を今ほど感じないだろう。今の私は「ぽんぽこ」という言葉のぽんぽこ感を前に完全に押され気味な状態であるが、ぽんぽこ感を凌駕するほどのエリート感が「ぽんぽこ」に備われば、やがて「ぽんぽこ」はエリート感に支配され、本来持っていたぽんぽこ感は駆逐される。超極端な例を考えるなら、「俺、黙ってたけど実はぽんぽこなんだ」「すげえ!お前ぽんぽこなのかよ!超エリートじゃん!」ということである。もしこうなってしまったら、かつて「少年院」であったところの「ぽんぽこランド」はエリート感に侵食され、再び少年犯罪が増加傾向を見せるであろう。ここまでの一連のぽんぽこを一言で表せば、それすなわちミーム、これに尽きる。

そろそろこの辺でぽんぽこすることにします

ぽんぽこぽん(おしまい)

 

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