珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

脳から始める思索屋生活についての覚書|愉しみ、或いは励ましとしての思索

「葉」っぱ1枚あればいい

かの有名なコナミの野球ゲーム『パワプロクンポケット』に、「かつて主人公の彼女候補だった女の子が脳髄だけの状態になって培養液に浸され大きなガラス管の中でぷかぷか浮かびながら永遠に生かされるEND」が存在することはきっと諸賢もご存知であろう。永遠に生きることは勘弁願いたいところだが、仮にいつか(なるべく人間の寿命の範囲で)死を与えられる保証があり、かつ定期的に岩波文庫のテキストデータを脳に流し込んでくれるのなら、脳髄だけで生きるのは個人的に全然アリだ。煩わしい身体を捨てて、脳みそだけになりたい。思考する部分だけあればいい。前頭葉だけあればいい。葉っぱ1枚あればいいってはっぱ隊も言ってる。前頭葉1枚じゃ息を吸えないし息を吐けないけど、生きているからLUCKYってことで。……これは生きていると言えるのか?

 

ゆっくりしていってね

前頭葉だけは流石にミニマリズムが過ぎるにしても、ゆっくりみたいに頭だけでぴょんぴょん生きるのも魅力がある。頭しかないのでどこへも行けないだろうけど、私にとってはどこへも行けないのは却って好都合だ。医者や研究者に色々なデータを提供してやる代わりに、こちらが望む飲食物(どうやって消化するんだろう)と書物と爆速Wi-Fi付きハイスペックPCは与えて欲しい。頭だけなので広い部屋はいらない。人が頭だけで生きられるようになる頃には、書物を前に「ひらけゴマ」と念ずるだけでページが勝手に開く技術くらい朝飯前だろうし、「上にスクロール」とか「そこで左クリック」とか考えるだけでPCを操作出来る技術の開発くらいお茶の子さいさいだろう。世の中にはこのように、働きたくないし、遊びたくないし、歩きたくないし、座りたくないし、作りたくないし、壊したくないなどと言って、ただただ考えるための素材と考えるための器官だけで一生を過ごしたいタイプの人間もいるのだ。どうして私は饅頭に生まれてこなかったのかな。

 

ダイソーの220円イヤホンにコスパ最高なやつがあって私はそれを2~3ヶ月ごとに買い替えながら数年間ずっと愛用しておりまして結果的にそれ普通のイヤホンと金額変わらないじゃんって話になるんですが私が高いイヤホンを買わない理由はイヤホンをすぐに失くすからです

私は社会的レベルとしてはまごうことなき底辺だが、底辺なら底辺なりに、せめて考える底辺でありたいと思う。理性があり、慎みがあり、分別のある底辺でありたいと思う。それは「私は底辺だけどダイソーの110円イヤホンではなくドンキの550円イヤホンを買う」と周囲にアピールするくらいの、周りから見れば「いやAmazonSONYのイヤホン買えよ」と言いたくなるくらいの、本当にしょーもないプライドである。しかしこのしょーもないプライドのために、私は身の丈に合わない難しい本を読んで、日々あれやこれやと思索する必要があるのだ。考えることさえ出来ない人間にならないように。立派な肉体や財産を持っていながら一切思慮分別のない人間より、肉体や財産に不足があっても思慮分別のしっかりした人間になりたい。頭だけでぽいんぽいん跳ねてその度に指さされて笑われようとも、或いはガラス管の中に浮かぶちっぽけな脳味噌に成り下がろうとも、思慮分別だけは決して手放さないように。まあ放す手が無いんですけどね。

 

隣のハンバーグはうまい

私はもうだいぶ今の生活に嫌気が差しているのでこんな風に「頭だけになりたい」とか「脳だけになりたい」とか言っているのだが、人としてのあらゆる身体由来の可能性(体があるので歩くことが出来る→歩くことが出来るので市場に買い物に行ける→市場に買い物に行けるので良い野菜を買うことが出来る→良い野菜を買うことが出来るのでおいしいサラダを作って食べることが出来る、みたいな)を代償として躊躇いなく差し出せるほど、辛いことに囲まれて生きているらしい。ただその辛いことから薄い膜1枚隔てた向こう側に楽しいことが沢山あって、膜を通して楽しいことの香りがこちらに絶え間なく流れ込んでくるから、隣の家から漂うハンバーグの香りを嗅ぎながら下水溝の泥を食べるような生活を止められないのである。人生、生き長らえるには辛いことが多すぎるし、死に急ぐには楽しいことが多すぎる。生きようと思ったら辛いことが邪魔をしてくるし、死のうと思ったら楽しいことが邪魔をしてくる。幸せに生きることは実に難しい。持てる人間でさえそうなのだから、持たざる人間なら尚更だ。バイQ。

 

 

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されど素晴らしき暇潰しの日々についての覚書|最後に人から満点を貰ったのはいつだったかな

生きることは死ぬまでの暇潰しなのか

そうだよ(そうだよ)

 

暇潰しは1日1時間

「暇潰し」という言葉を目にする度に思い出す。小学生の頃ポケットモンスターサファイアにのめり込んでいて日がな一日やっていたのだが、ある日たまたま来ていた親戚からゲームはよくやるのかと尋ねられて、何かと難しい年頃であった私は「はい、隙あらばゲームをしています」と言うのも気恥ずかしく、「ま、まあ、暇潰し程度に」と返した。すると隣でそれを聞いていた母から「嘘つけ!あんた四六時中やってんじゃないの!」と言われ、私はぐぅと唸るしか無かった。「暇潰しにやる」と「四六時中やる」は両立させ難いのである。四六時中暇なら容易であろうが、かといって四六時中暇な人が1日中ゲームをやっていたとして、その行為を「暇潰し」とは表現しないだろう。暇潰しとはせいぜい、行為と行為の間に予期せず生まれた白紙の時間を、予定になかった行為で埋めることを指すのだから。しかしまあこれは一般的な話であって、誰かが己の人生を「行為(誕生)と行為(死亡)の間に予期せず生まれた白紙の時間(人生)」と捉えるのなら、食事も労働も睡眠も、ただの暇潰しなのだろう。

 

【やってみた】地方住みの喪女が8時間働いてみた【労働】

意味など無いと分かっている行為に無理矢理意味を持たせようと悪戦苦闘することほど虚しいこともあるまい。昼に自宅の庭に穴を掘って夜にその穴を埋める行為に、どうやって意味を持たせよう。だからこの際初めから意味を持たせようなどという無駄な努力はせず、あくまで「汝、暇を潰すべし」という使命のもとでそれらしく暇を潰しているのだ、と割り切ってしまえば、案外サッパリ生きられると思う。椅子にジッと座っているよりかは、穴を掘ったり埋めたりしている方が暇潰しには相応しかろう。穴を掘ったり埋めたりすること自体にまるで意味はないが、それは暇潰しとして極めて正しいのだ。自分の人生の行為それ自体には何の意味もない。だが、自分の人生を何かしらと何かしらの間の暇潰し期間と考えれば、人生における数々の虚しい行為は暇潰し行為として満点なのである。朝起きて顔を洗って朝食を食べてみる、満点。出勤して労働してストレス溜めて帰ってみる、満点。ポテチとビールでぼんやり晩酌をしてみる、満点。明日の労働のことを考えて憂鬱になりながらベッドに入ってみる、満点。天井を眺めながら自分の人生に絶望してみる、これも満点。よくできました。

 

つまらない本でも無いよりマシ

もしもあなたが30分で読み終わるつまらない内容の本を1冊だけ渡されて、「これで12時間暇を潰しなさい」と言われたら、あなたはその本を何回読むだろうか。あなたはまず最初の1回を読んで「ウワッつまらない」と思う。しかし、そこからあと11時間半ある。その11時間半を潰す手段は、手元に有るつまらない本1冊しかない。あなたがその本のあまりのつまらなさに二度と読まないと一旦は誓っても、遅かれ早かれ、結局2回目を読んでしまうのではなかろうか。最初の1回を読んでから1時間後にしぶしぶ2回目を読んで、さて、まだあと10時間ある。ゲェーッ。あなたは手をぷらぷらさせたり足をバタバタさせたりしてから、数分後、数十分後、或いは数時間後に、また本を開いていることだろう。人生における数々の虚しい行為たちも、まさにそれである。それしかないから、それをするのである。起きて、働いて、食べて、寝て、また起きる、それしかないから、それをするのである。人生という長い長い暇を潰すのに、虚しい労働は実に相応しかろう。1/3の時間を潰しながら、お金まで貰えるのだから。虚しい睡眠もまた良いものだ。1/3の時間を潰しながら、休息まで取れるのだから。虚しい食事もまた素晴らしい。1/24の時間を潰しながら、舌や腹を喜ばせることが出来るのだから。

 

カリスマギャルになれない来世なら要らないです

誕生の前に何があるのかなんて知る由もないし、死亡の後に何があるのかなんて分かりっこない。もしかしたら前にも後にも何も無いかもしれない。本当に本当に今ここにある人生こそが全てで、私の暇潰し論は何もかも間違っているのかもしれない。しかし誰も知らないことなのだから、少し妄想をするくらい許されるだろう。前世があってほしいわけでも来世があってほしいわけでもないが、それでもこう、誕生と死亡を衝立にしてこの虚しい人生をしっかり挟み、「ここはただの虚しい暇潰し期間であって、誕生を境に前があり、死亡を境に後がある」と信じさせてほしい。そして誰かに言われたい。「あなたの人生は、暇潰しとして実に満点です」と。

 

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私の頭の中の3歳児についての覚書|記事閲覧はお食事後にお願いします

うんこ(思考放棄)

参った。私の頭の中の「私」の知能が3歳児くらいしかない。というのも、外側の私が誰かに向かって「すみません、お手洗い行ってきます」と言っている時、頭の中の私は「うんこ!」と言っているのである。いくら他人に聞かれる心配が無いからって、この歳になって「うんこ!」は無いだろう。まあそれはさておき、世の中の大人たちが出先でめちゃくちゃ催している時に、口では「お手洗いに行ってきます」と言いながらその頭の中では一体何と言っているのか、少し気にならないだろうか?「私は今、便意を催しています」と英語の例文みたいなことを言っている人はそうそういるもんじゃないと思う。「あっやばいめっちゃトイレ行きたい、ヤバイヤバイトイレ、トイレ」辺りが妥当ではなかろうか。そんなことを頭の中で考えながら涼しい顔で歩いている世の中の大人たちはすごい。頭の中はトイレ、トイレでいっぱいなのに、「あー、その前にちょ~~っとお手洗い行ってきていいですか?」なんて澄ました顔で余裕綽々に言えるんだから。とはいえ一部の人はやっぱり――「うんこ!」って言ってるんじゃないかしら。

 

頭の中なら何言っても怒られない

 こんなことを至極真面目に書いているのも大概バカバカしいが、しかし頭の中の自分にはいつまでも子供のように振舞う権利が保証されている、という点は少し掘り下げたい所である。勿論、それは「誰が来ても絶対に玄関のドアを開けちゃいけません」という決まり付きではあるが。子供のように振舞っている頭の中の自分が言いつけを破って玄関のドアを開けたが最後、良くて大恥をかき、悪くて社会的に死ぬ。そうならないように、サイレントヒル4の主人公の住むアパートのドアの如く、頑丈な鎖で縛り付けてガチガチに密閉しておく必要がある。そのようにしておく限りにおいて、頭の中の自分はいくらでも無邪気に振舞っていい。尻を出してもいいし、うんこちんちんと叫んでもいいし、お袋ないしババアのことをママと呼んでもいい。現実の自分よりよっぽど権利を所持している。子供の頃の権利に比べて、大人になって得られた権利のなんと無味乾燥なことか。酒が飲める、煙草が吸える、財力に任せて大人買い出来る、エッチな本が読める……そんなことよりやっぱり堂々と「うんこ!」って言える方がいいと思うね。

 

円卓の私団

大人になってそこそこ経つが、未だに「大人らしい感覚」が分からない。それどころか私の感覚はずっと小学5、6年生あたりから地続きで、12歳らしく振舞えと言われても普段通りにやってればそれで12歳の私とほぼ変わらないと思う。低学年の頃はさておき、高学年の頃は既に陰キャコースまっしぐらだったし。先日、楽天市場で可愛い黒猫のクッションをポチりながら、はて、大人はこんな可愛い黒猫のクッションをポチってもいいものだろうか?猫のぬいぐるみだってあんなにあるんだぞ?と思いつつ、結局買った。12歳の私に購入許可を求めたら「承認」って返ってくるだろうし、念のため15歳の私や18歳の私や20歳の私に尋ねても「承認」って言われるだろうし、逆に30歳の私や40歳の私に訊いてみても「承認」と返されるんだろう。感覚が地続きである限りは、過去の私も未来の私も反対などしないのだ。

かわいい。これは全会一致で承認不可避。

 

見た目は大人、頭脳は子供

バイト先の人も、まさか私がブログでうんこうんこ書き散らかしてるとは思うまいし、ましてや頭の中でうんこうんこ言ってるとは思うまい。四六時中言ってるわけではないけれど。しかし、頭の中で考えていることはおくび にも出さず(出したら大変なことになる)、人前で涼しい顔して働くのは気分がいいものだ。その皮1枚めくったら3歳児の私が飛び出してくるというのに。ところで、12歳の私はこんなにうんこうんこ書いたり考えたりしてなかったし、10歳、8歳の私も流石にそういう類の言葉を面と向かって発することは卒業している頃だと思う。これは明らかに退行というやつでは? 

 

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「嫌い」のお作法についての覚書|まんじゅうきらい

言わせて……言わせてクレメンス……

世の中の多くの人に好ましく思われている対象に関して、しかし自分はどうしてもそれを好ましく思えない旨を是非とも申し述べたいという場合に、好ましく思えない自分の「それくらい言わせてよ」と、それを好ましく思う人々の「そんなこと言わないでよ」との仁義なき戦い、言うなれば権利と権利のデスマッチに我々はどう審判をつけようか。この場合、分が悪いのは好ましく思えない自分である。理由の説明としては「口は災いの元」という慣用句を挙げればそれで十分だろう。しかし、人間は古来より言わんでいいことばかり言いながら暮らしてきた生き物である。「言わない方がいいと分かってるけどこれだけは言わせて」で家庭を滅ぼしたり、「エッ今の言わない方がいいことだったんですか!?やっちまったぜ!!」で国家を滅ぼしたりしながら歩んできた生き物である。動物は言いたいことも言えないというのに酷い贅沢病だ。「言わせて」でGoogle検索すると112,000,000 件出た。人間どんだけ言わせて欲しいんだ。

 

国語、道徳、それから算数

にしたって、人の好みとは難儀なものである。古今東西大小様々な揉め事は、極端に単純化すれば好き派と嫌い派の争いというものに還元されるからだ。そしてこうした好きや嫌いをついつい口に出さずにはいられない人間の性質はなお一層難儀である。私が今ここで頭に浮かんだ「世の中の多くの人に好ましく思われているが自分はあまり好ましく思わないもの」についてアレコレ物申すことも可能なのだが、私にはそこを上手く言い表す力は無いし、下手くそな文でそんなことを言ったら当ブログを読んでいる人々に良く思われないことは必至であって、私は一瞬スッキリするかもしれないけれど、それで読者が減るのもヤダし、やらない。これは私の表現力不足の問題が1/3と、自制心が1/3と、損得勘定が1/3の結論である。「言わない方がいいけど言いたいこと」を上手な言葉で言い表せる表現力、あるいは下手な発言そのものを控えておく道徳心、そのどちらにも自信が無いのなら、そこはもう単純な損得勘定で構わないと言いたい。表現力や道徳心じゃなくて、利益主義でいい。表現力や道徳心に基づいた行動を試みようとして失敗するくらいなら。学校の数学は難しい方程式や数列を教える前に、「争いを避けるための基礎的な損得勘定」を教えてやって欲しいくらいだ。人類全員が表現力や道徳心で何とか出来るなら損得勘定の授業なんて却って毒にしかならないが、何とか出来ないからやむなく毒を仕込んでおくしかないのだ。「相手が嫌な思いをしないよう言葉を選んで伝える」もしくは「相手が嫌な思いをするから言わない」という選択がどうしても難しいなら、そこは「ひいふうみい……なんだか自分の利益が少ないぞ、やめた!」でいい。それでその場が丸く収まるなら。それでは結局長い目で見た時に害になる?ウーン、無い目は長く出来ないのだよ。

 

青い、青い薬

ところで、もし人類全員青色が嫌いなように生まれついていたら、何かの分類や目印等のために便宜上青を使うことはあっても、青い車とか、青いバッグとか、青いコップとか、そういうものは一切作られなかっただろう。だって、人類みんな嫌いなんだもん。作ったって売れるわけないじゃん。しかしご存知のとおり、現実では青が好きな人間が大勢いる。彼らがいるお陰で、青の存在価値はきちんと保証されているのである。これは、色の生存権を保護するために神様が用意した仕様と言ってもよいのではなかろうか。人類みな青が嫌いだったら、青の生存権を著しく侵害することになる。そしてこれは色だけではなく何事にも適用可能だろう。まあこれは色視点の話で、人類視点だとロマンの欠片も無い生存戦略の話になるのだが、ここでは1つの極端な例を挙げるに留めておこう。目の前に様々な色のカプセルが入った箱があって、人は病気に罹った際、その中から1つだけ選んで飲むことが出来る。ただし、様々な色のカプセルの中で実際に薬としての効き目があるのは青色の薬だけである。この事実を知っている人はいない。この条件だと人類みな青色が嫌いな世界の人間はより沢山死んでいただろうし、人類みな青色が好きな世界の人間はより多く生命を救われていただろう。そういうことだね。話を戻すと、人類の色の好みが全て私仕様だったら恐らく世の中はモノクロ写真の中の世界になっていたし、私があまり好きではないピー 色や ██ピー 色なんかは自然界を除いては駆逐されていたことだろう。なお、ここでは読者諸兄の色の好みに配慮して色名は伏せている。伏字の色は色名とは全く関係が無いので安心してほしい。私は読者諸兄と色の好みでバチバチしたいわけではない。平和!平和が1番ですぞ!

 

ニュースは健康によくない

スマホを交換してからは、唯一のまともな情報源と言っても過言ではなかったニュースアプリを入れていなかった。先日、DLすると楽天ポイントが貯まるニュースアプリがあったのでDLして久々にニュースらしいニュースを読んだ。世の中がなんだかえらいことになっていた。ニュースを目にしなければいかなる大事件であろうと自分にとっては起こっていないも同然である、というのはなんとも考えさせられるものだ。同様にいかなる悪いものも目に入れなければ無いも同然なのだが、悪いものの側から目に入ってこられたら、どうしようもないね。

 

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