されど素晴らしき暇潰しの日々についての覚書|最後に人から満点を貰ったのはいつだったかな
生きることは死ぬまでの暇潰しなのか
そうだよ(そうだよ)
暇潰しは1日1時間
「暇潰し」という言葉を目にする度に思い出す。小学生の頃ポケットモンスターサファイアにのめり込んでいて日がな一日やっていたのだが、ある日たまたま来ていた親戚からゲームはよくやるのかと尋ねられて、何かと難しい年頃であった私は「はい、隙あらばゲームをしています」と言うのも気恥ずかしく、「ま、まあ、暇潰し程度に」と返した。すると隣でそれを聞いていた母から「嘘つけ!あんた四六時中やってんじゃないの!」と言われ、私はぐぅと唸るしか無かった。「暇潰しにやる」と「四六時中やる」は両立させ難いのである。四六時中暇なら容易であろうが、かといって四六時中暇な人が1日中ゲームをやっていたとして、その行為を「暇潰し」とは表現しないだろう。暇潰しとはせいぜい、行為と行為の間に予期せず生まれた白紙の時間を、予定になかった行為で埋めることを指すのだから。しかしまあこれは一般的な話であって、誰かが己の人生を「行為(誕生)と行為(死亡)の間に予期せず生まれた白紙の時間(人生)」と捉えるのなら、食事も労働も睡眠も、ただの暇潰しなのだろう。
【やってみた】地方住みの喪女が8時間働いてみた【労働】
意味など無いと分かっている行為に無理矢理意味を持たせようと悪戦苦闘することほど虚しいこともあるまい。昼に自宅の庭に穴を掘って夜にその穴を埋める行為に、どうやって意味を持たせよう。だからこの際初めから意味を持たせようなどという無駄な努力はせず、あくまで「汝、暇を潰すべし」という使命のもとでそれらしく暇を潰しているのだ、と割り切ってしまえば、案外サッパリ生きられると思う。椅子にジッと座っているよりかは、穴を掘ったり埋めたりしている方が暇潰しには相応しかろう。穴を掘ったり埋めたりすること自体にまるで意味はないが、それは暇潰しとして極めて正しいのだ。自分の人生の行為それ自体には何の意味もない。だが、自分の人生を何かしらと何かしらの間の暇潰し期間と考えれば、人生における数々の虚しい行為は暇潰し行為として満点なのである。朝起きて顔を洗って朝食を食べてみる、満点。出勤して労働してストレス溜めて帰ってみる、満点。ポテチとビールでぼんやり晩酌をしてみる、満点。明日の労働のことを考えて憂鬱になりながらベッドに入ってみる、満点。天井を眺めながら自分の人生に絶望してみる、これも満点。よくできました。
つまらない本でも無いよりマシ
もしもあなたが30分で読み終わるつまらない内容の本を1冊だけ渡されて、「これで12時間暇を潰しなさい」と言われたら、あなたはその本を何回読むだろうか。あなたはまず最初の1回を読んで「ウワッつまらない」と思う。しかし、そこからあと11時間半ある。その11時間半を潰す手段は、手元に有るつまらない本1冊しかない。あなたがその本のあまりのつまらなさに二度と読まないと一旦は誓っても、遅かれ早かれ、結局2回目を読んでしまうのではなかろうか。最初の1回を読んでから1時間後にしぶしぶ2回目を読んで、さて、まだあと10時間ある。ゲェーッ。あなたは手をぷらぷらさせたり足をバタバタさせたりしてから、数分後、数十分後、或いは数時間後に、また本を開いていることだろう。人生における数々の虚しい行為たちも、まさにそれである。それしかないから、それをするのである。起きて、働いて、食べて、寝て、また起きる、それしかないから、それをするのである。人生という長い長い暇を潰すのに、虚しい労働は実に相応しかろう。1/3の時間を潰しながら、お金まで貰えるのだから。虚しい睡眠もまた良いものだ。1/3の時間を潰しながら、休息まで取れるのだから。虚しい食事もまた素晴らしい。1/24の時間を潰しながら、舌や腹を喜ばせることが出来るのだから。
カリスマギャルになれない来世なら要らないです
誕生の前に何があるのかなんて知る由もないし、死亡の後に何があるのかなんて分かりっこない。もしかしたら前にも後にも何も無いかもしれない。本当に本当に今ここにある人生こそが全てで、私の暇潰し論は何もかも間違っているのかもしれない。しかし誰も知らないことなのだから、少し妄想をするくらい許されるだろう。前世があってほしいわけでも来世があってほしいわけでもないが、それでもこう、誕生と死亡を衝立にしてこの虚しい人生をしっかり挟み、「ここはただの虚しい暇潰し期間であって、誕生を境に前があり、死亡を境に後がある」と信じさせてほしい。そして誰かに言われたい。「あなたの人生は、暇潰しとして実に満点です」と。