珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

いつもの覚書|いつものやつです

戦わ働か なければ生き残れない!

私は働かなければ生き残れない悲しきライダー(免許未保有)であるが、それは世の中の一般的な人々にとっても当てはまるであろうし、もう少し言い方を考える必要があるだろう。ウーン。「働くことでしか生き残れない」。これだな。私は労働のことを心の底から憎たらしく思っているが、私には労働しか残されていないのもまた事実であって、働くことをやめたならば、こう、実質死ぬんだ。意欲とか、意思とか、意気とか、熱意とか、戦意とか、およそ「意」とつくものが概ね死んで、それで実質死ぬんだ。実質ね。実質って便利な言葉だぁ。

 

普段はどうしようもないロクでなしのくせにある日突然「たまたま話題のケーキ屋の前を通ったから」という理由でわざわざ列に並んでおいしいケーキを 2切れ・・・ 買って帰ってくるようなタイプの労働

労働しかない人生は実に虚しいが、労働さえない人生もまた虚しいだろう。そんなことが言えるだけ、まだ私は労働に対して甘いのかもしれない。99回突き落とされたとしても、ただの1回救われたのなら、それだけで何もかも許してしまうのかもしれない。何度も別れようと思ったが、生活のこともあるし、どうしても別れられない。恐らくあと40年近くは別れられそうにない。労働というやつは、外に向かっては誠実に繕いながら、私に向かっては手酷いことをいくらでもしでかすくせに、それでいてたまに、たまーーーにこちらへ向けて見せてくるヤツの良心の最後のひとかけら、そのなんと純粋無垢なことか。それで許してしまう私も私である。あの。私、労働から自分内暴力を受けています。ええ。そうです。トゥワンセルフってやつです。

 

何度も何度も労働とばかり 他の言葉を知らないのか?

私はあとなんべん同じ話をすれば気が済むのか。あとなんべん似たような記事を書けば満足するのか。月に1、2回は人生と労働の虚しさについて同じような言い回しでひたすら嘆くだけの記事を書いている気がする。これは言うなれば傷口に溜まった膿を定期的に抜くようなもので、そう、健康維持に必要なんだ。私は書くことでしか膿を取り去ることができないから。膿を抜き終わったからといって、傷口がその場で塞がるわけではない。傷口は永遠に傷口のままである。これはもうどうしようもない。私の人生がひっくり返らない限り、いや、私がひっくり返そうとしない限り、完治の日は決してやってこないのだろう。

 

先生が遠足の計画書のことを思い出してから生徒が遠足の思い出のことを忘れるまでが遠足です

家に帰るまでが遠足なら、家で嘆くまでが労働である。家を出たときから既に労働は始まっているし、なんならその日目が覚めたときから既に労働は始まっている。労働を嘆いている時間もまた労働である。精神の労働である。精神の労働は法をいとも容易くすり抜ける。精神の労働に対して、かの基準法は本来の力の半分も発揮できないだろう。労働のしんどさの本質は、精神にあると思うんだけどなあ。

 

転生社畜、チート魔術で労働無双

たとえ就職して収入が倍になろうが休日が倍になろうが、どっちみち私は嘆いてるんだろうなあ。倍になった収入や休日のことには目も呉れず、責任が倍になったとか、負荷が倍になったとか、そういう「負の倍」とばかり向き合って、フリーター時代のことを思い出しては嘆くんだろう。そんでフリーターに戻ったら戻ったで、半分になった責任や負荷のことには目も呉れず、収入が半分になったとか、休日が半分になったとか、そういう「負の半分」とばかり膝突き合わせて、社員時代のことを思い出しては嘆くんだろう。収入や休日は倍になるけど責任や負荷は半分になる都合のいい生き方ってありませんか?

 

 

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