無限の焼鳥と無用の想起についての覚書|焼鳥が一体何をしたっていうんだ
名残おいしい
たまたま居酒屋の前を通っただけなのに、焼鳥をしこたま食わされた。私はそれを味わいもせず丸呑みにし、礼も言わずに立ち去った。まず主人が取り、次いで客人が取り、それでも尚余ったところのものが、我々通りすがりの某共に無償で振舞われた。そこに有ってそこに無い焼鳥を、道行く誰もが貪った。味わいもせず。近くの彼には沢山の取り分があったが、遠くの彼女には僅かな取り分しかなかった。けれども彼らの間に不平不満は何ひとつなかった。我々がいくら取っても皿の底が見えてくることはなかった。何故なら我々の目には初めから肉も皿も映っていなかったから。主人が客人に向かって有限のものを振舞っている間、我々には無限のものが振舞われた。それは店を離れても尚振舞われた。その上不思議なことに、いくら舌に乗せても腹が膨れることはなかった。呑んだ傍からまた注がれる焼鳥を延々と舐めながら、私はこう思うのであった。「焼鳥食いてえなあ」。
焼鳥の香りから(物理的に)逃げられる人間がいるわけないだろ
通行人に無償で振舞われる香りは、いつも哀愁に満ちている。香りは確かにそこにあるのに、自分のものにならないどころか、触れられないし、姿も見えない。それでいて、無関係な人間に色々なことを考えさせる――いい香りだな、今夜は焼鳥にしようか、焦げ臭いな、昔居酒屋でバイトしてた時の珍事件を思い出すな、最近居酒屋行ってねえな、誰か誘ってくれないかな、そもそもこれ何の匂いだっけ、云々。それらは全て、何かしらの記憶の想起である。触れられないし、姿も見えない、それでも自分の思い出に巣食って堂々と鎮座し、何かきっかけがあれば我先にと顔を出すような、遠慮を知らない記憶たちである。主人と客人、しかと聞け、あなたがたが目と耳と舌と手を使って有限なものを楽しんでいる間、通りすがりの人間共は姿かたちのない無限のものを無限に食わされ無限の想起へ陥っているのだ。私個人の例で言えば、真夜中に、働く前から既に疲労困憊で、歯を食いしばって徒歩通勤しているところに、歩道に面した居酒屋の、扉1枚壁1枚隔てた場所から歓談の声と香ばしい炭火焼の香り……私はどうして出勤しているんだ?せめて退勤ではないのか?他の人が笑って食ってあとは寝るだけ、という時間に、どうして私は労働の意思を固めているんだ?焼鳥食いてえなあ。というところまで考える。いや、考えさせられている。ついさっきまで頭空っぽにして歩いていたというのに。主人と客人、しかと聞け、あなたがたが私に労働を想起させたのだ。私にこんな、無限のものを、こんな夜中に、しこたま食わせて。今なら軽い賠償金で許します。口座番号挟んでおくので、そこの口座に焼鳥振り込んどいてくださいね。
焼鳥を食べる度にこの記事を思い出さないように
私は一生、赤の他人が焼いて赤の他人が食べる赤の焼鳥の匂いを嗅ぎながら、その度に襲い来る無限の想起に対して抵抗しつつ生きなければならないのだろうか。他人の思い出話に自分の思い出を勝手に連結して、他人の成功に自分の失敗を勝手に照らし合わせて、他人が財について語るのを聞けば無言で財布の中身を確かめ、他人が才について語るのを聞けば無言で頭の中身を確かめながら生きるのだろうか。そうやっていずれは人生まるっと、他人の人生という「答え」を見ながら自分の人生という「答案」に○×を付けていくような……ヒエーッ。焼鳥にされた方がマシだ。他人が食っている焼鳥の香りが全く気にならなくなるくらい最高に美味い焼鳥を食えるようになりたい。他人の焼鳥で過去を顧みるのではなく、自分の焼鳥で未来を考えていきたい。
好きな焼鳥ランキング
1位:皮
2位:軟骨
3位:砂肝