珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

「普通」とは真逆のものについての覚書|要らない才能あったら譲ってください

「普通」観が合わない相手だと厳しい

先日は「普通」に関する記事を書いたから、今日は「普通」とは真逆のものについて書いてみようと思う。きっとみんなも好きだろう、「普通」とは真逆のもののことが。口では「普通」がいちばんと豪語する人も、心の中には何か「普通」ならざるものへ憧れを抱いていないだろうか。また、「普通」とかいう、「無難」の名を冠してその実「無限の難」とでも言うべき畜生のことを憎たらしく思ったことはないだろうか。例えば、どの科目の先生に採点してもらってもよいが、運良く国語の先生に提出したらマルを貰えて進級でき、運悪く数学の先生に提出したらバツをつけられ落第するような理不尽な試験なんて誰も受けたくないだろう?自分の答案にマルをくれる先生が見つかるまで、留年に留年を重ねて探し回らないといけないんだ。「これは普通ですか?」と聞いて「はい普通ですよ、よく出来ました」と言って褒めてくれる先生なんてそこらじゅうにいるもんじゃない。大抵の場合、「これが普通なわけないだろ!お前は俺の授業の何を聞いていたんだ!退学!」とか言われて学校ごと破門にされるんだ。

 

へえ君も人間なんだ お揃いだね

真逆なものについて書く前に、「普通」についておさらいしておこうと思う。「普通」の元を辿れば、人間が生まれた時にひとりひとつずつ与えられる目盛りのないものさしの存在に行き着く。我々はなぜ、「みんなの中にあって、みんなにとって、みんな当たり前のこと」という無茶苦茶な概念を平然と想起してしまうのか。それは我々がまだ、あの時の真っ白なものさしを忘れられないことの証明である。我々は確かにあの時、みんな同じものさしを持っていたのだ。全人類共通の初期装備とでも呼ぼうか。生まれた時はみんなみんなお揃いだった。己の生命以外何も持たない赤子にとって、唯一にして初めて外部から与えられた装備品が「みんなお揃い」であることに気づいたならば、これほど安心できることもあるまい。信頼と実績の神様ブランド、正規品の証印までしっかり押してある。それで、我々はいくつになっても「みんなお揃い」という感覚を絶えず想起しながら、かつて体験したあの強烈な安心感にすがりついて生活しているというわけだ。我々人類は、無論完全にではないにせよ、まあだいたいのところで、「みんなお揃い」だと思っている。そうあってほしいと願っている。その方が安全で、快適で、ゆりかごの中でねんねしている時のように気持ちがいいからだ。しかしながら「みんなお揃い」じゃあんまり言葉的に幼稚だということで、「普通」とか「普遍」とか「一般」とか「通常」といういかめしい名で呼ぶ。

 

無い才能は語れねえんだよ

それで、本題は……「普通」と真逆のものだった。私がそれを何か特定の単語で呼ばずに”「普通」と真逆のもの”と言っているのは、性質の幅が広すぎるからである。『普通 対義語』で検索してみると、「希少」「奇抜」「異常」「特別」「特殊」「異様」「特異」……などとある。「普通」くんちょっとモテモテすぎやしませんかねえ。これらをざっくり大別すると、価値がありそうなものなんかヤバそうなものの2つに分けられる。上記の言葉でいえば前者は「希少」「特別」「特殊」などが当てはまり、後者は「奇抜」「異常」「異様」「特異」が該当する。さて皆様のお好みは如何。まあ好みがどちらにせよ、「普通」について考えるよりも遥かに面白そうではないか?「普通の才能」についてウンウン考えるより、「特別な才能」とか「異様な才能」について考える方が絶対に面白い。そもそも普通の才能ってなんやねん。初手この世で最も難しい才能について考えさせようとするのやめろ。じゃあ「特別な才能」といったら……身近な物事を考えるだけでも色々出てくるな。サッカーの才能とか、ピアノの才能とか、ウン、きっとそういうことを考えている方が楽しいんだ。実際にその才能があるならもっと楽しいだろう。「異様な才能」といったら、アレだね、異世界転生して現代知識で無双する時に発揮するような才能だね。これもこれで、考えるのに楽しいものがある。

 

カードゲームで人が死ぬのは常識

「普通」と真逆のものとは、決して道を踏み外したとか一般から逸脱したとかそういう類のものではなくて、どちらかといえば「普通」の方が逸脱した存在なのだ。知らんけど。我々が謎の力によって普通の方へ普通の方へ帰ろうとするとき、私のクソ理論で言えばみんなが生まれた瞬間の「みんなお揃い」へと回帰したがるとき、そうした運動に夢中になる人間はまあちょっとカワイイが、そこそこ成長した個体が絶えずそれを行うには些か不気味すぎる気がする。ただ、そういう回帰もたまにならいいと思う。時々は人間を一律普通の方へ軽く引っ張るくらいやっておかないと、真逆のものどもは無限に拡散して収拾がつかなくなる。極端に言えば、例えばサッカーの才能という「普通」と真逆のものがあまりにも拡散しすぎると、老若男女問わずサッカーの才能で全てが決まる世界みたいな、ホビーアニメの世界観じみたところまで進んでしまうかもしれないので、たまには謎の力によって引き戻してやる必要がある。「普通の人は、ドリブルなんて出来ないよ」「普通そういうのってサッカー選手しかやらないよ」などと。謎の力が何を以て「普通」と言っているのかはさっぱり分からんが、少なくとも生まれたばかりの赤んぼは、ドリブルなんてできっこない。「普通」というあやふやな統一へ回帰しようとする力も、一応はこんな具合で重要な役割を果たすこともある。

 

反省

結局、「普通」と真逆のものよりも「普通」に関することばかり思索してしまった気がするので、真逆のものについては多分きっと恐らくまた今度書きます。あと、最近の記事にカギカッコが多すぎるのが自分でも気になっているのですけれど、一応これでもダイエットした方です。もっと精進します。

 

 

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