珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

充実したオプションについての覚書|キリマンジャロブレンドやや濃いめラージサイズミルク多め砂糖少なめぬるめの蓋付きのコーヒー抜きで

コーヒー自販機はどんどんゲーセンの筐体に近づきつつあるなあ

オプションがいっぱい選べるカップ式の自動販売機は見ててワクワクする。ボタンを押して数十秒待つと紙コップがウィーンと召喚されるアレだ。最後に利用したのがいつだったかすら覚えていないが、よく通る道にかなり新しい機種と思われるカップ式自販機がある。オプションが付けられるのは専らコーヒー系の飲料で、ブラック、ミルク、砂糖、ミルク+砂糖なんかが選べたりする。それに、ミルクと砂糖の量を多くしたり少なくするボタンがある。コーヒー自体の濃さが選べるものもあるし、温度をぬるめにする機能がついているものもある。追加料金を払うとラージサイズにも出来る。少し調べたところ、蓋付きで出してくれるものもあるらしい。いやあ至れり尽せりだね。これを店頭で注文しようと思ったら、「すみません持ち帰りですキリマンジャロブレンドやや濃いめラージサイズミルク多め砂糖少なめすぐに飲みたいので少しぬるめでお願いします蓋もつけてください」と言わねばならない。途中で何言ってるか分からなくなりそうだし、店員さんも途中で何言われたか分からなくなりそうだなあ。

 

ボタン連打して遊んでたらおまけでコーヒーがついてきた

充実したオプション。デスクリムゾンではない。自分が選んだものを他人にお願いして付けてもらうとか、他人が選んだものを自分で付けてみるとか、他人が選んだものを他人に付けてもらうとかよりも、こうやって自分で選んで自分で付けることがいちばん楽しいと思う。自分で選んだボタンを自分でピッピッと押して、自分好みのコーヒーが出てきたときはさぞかし気持ちよかろう。これぞ自由だ。選択する権利だ。アイデンティティだ。しかしねえ、実際のところは自由や選択する権利やアイデンティティばかりわんさとあってもどうしようもなくて、選ぶ才能付ける才能が必要になってくるわけさ。店頭に並んでいる沢山のリンゴの中からわざわざ腐ったリンゴを選んだり、新品の手袋をウキウキで足に履かせるような事態に陥らないように。

 

センスのいい扇子

選ぶ才能に関係する要素というと、堅く言えば判断力、柔らかく言えば(一般的な)センス、奇抜なところでは第六感辺りだろうか。自分の判断力やセンスや第六感に自信があるならば、まあ、だいたいのことはうまくやれるでしょう(ふんわり)。判断力や第六感はひとまず置いておくとして、問題はセンス。センスってなんだろう。センスってのは科学的に説明出来るものなんでしょうか。 センスってなんだろ。センスってなあに。センスがあればお洒落なファッションが出来て、お洒落なインテリアが出来て、お洒落な生活が出来て、お洒落な文化的行為が出来て、お洒落な人生が出来る……かもしれない。センス。欲しいなあ、人生のセンス。自分に関するありとあらゆるものについて、どこまでも自分好みなものを率直に選び取り、ついでに幸せごと掴み取っちゃうセンス。素直なだけがセンスじゃないが、センスは素直なものだと思う。自分の好みをしっかり理解していること。自分の好みを一旦バラバラに分解して、他人の鑑賞にも耐えうるようなスッキリとした形に組み上げること。人の好み、そのありのままの状態なんてのは、てんでバラバラ、無法地帯、カオスフィールド、夢の中の光景みたいにやりたい放題のバーゲンセールみたいなものだからな。それらを一旦整理して、何かひとつの「テーマ」に統一してやることが必要なんだ。

 

こう書くべきことはこう書きああ書くべきことはああ書くってこと

以上のような意味合いで言えば、私にとってブログを書くこととは、無数に存在する私の好みを分解・分析したのちにブログ記事として再構成する行為であるから、とっ散らかった私の好みを自分で理解しておくのにも役に立っている。少なくともこのブログの中においては、私は私の好きなものを選択しているつもりである。選択されたものに価値があるかは別として。そして選択したものを正しいやり方で装着出来るよう、万全の注意を払う。きちんと払えているかどうかは別として。深いものを浅い器に入れたり、浅いものを深い器に入れたりしないようにしている。目の前にある高い高い山の写真を撮るのにカメラを横向きにしたり、目の前にある長い長い新幹線の写真を撮るのにカメラを縦向きにしたりしないようにしている。

 

人間の本体ってどこだろう

ええと、何の話でしたっけ。自販機の話でしたっけ。違うな、充実したオプションの話だ。いや、センスの話だったかな。それともブログの話だったかしら。答えは全部だ。全部。全部私が選んで、私がこの記事にくっつけたオプションだ。オプションばかりで肝心の本体がぜんぜん見えてこないが、それは致し方のないことだ。ものの造り手たる人間自体、後から後から付け足し付け足しされた付属物ばかりで構成されていて、肝心の本体が全く見えてこない生き物でしょう。付属物ばかりで構成された人間が、付属物ばかりで構成されたものを造ったって、それは己の複製を粘土で造るようなものでしょう。だから問題はないな。ウン。人間は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、ものをつくろう。」人は御自分にかたどってものを創造された。人にかたどって創造された。

 

 

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