珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

チラシの裏のエッセイについての覚書|おしながき:「天動説」「ゴルゴ13」「マイフレンド」「宇宙コーヒー」

天動説

自分の中でしばしばそう・・ 思われてきたことは、事実、 そう・・ であるということにしてしまおう。でなければ、いつまでも終わりが見えてこない。仮に私の人生が80年あるとして、「これこれは自分の中ではそのように思われるが、はて」ということを10年も20年も厳密に吟味していたら、それだけで人生を消費し尽くしてしまうから。私の人生は学問の対象ではないし、私の考えは学説ではないし、私の思索は学問ではない。私の中にある疑わしい天動説を、事実、そうであるということにしておこうとも、私の外側においては何ら問題とならないはずだ。であれば同時に、私は私の内側に留まらねばならないということでもある。私が私の外側に出たが最後、私が一度はそうであるとしたはずの天動説は、まるきり滑稽な虚説へと転落してしまう。だが私が私の内側にいる限りにおいて、それは事実である。私の内側において、太陽は、地球の周りを回っている。

 

ゴルゴ13

私はおおやけ ではない。私は円の中心ではない。私は全体ではない。これらをはっきり認めることによって肩の荷は全て下ろされるし、下ろされたそれらは全て足の上に積み上がる。私は下ろされた肩の荷で身動きがとれなくなる。私は軽くなった肩を自由に動かしながらその場に留まる。私の両手はピストルの形を作って、荷物の差出人を狙う。次に、集荷場を狙う。次に、配送センターを狙う。それから、配送車のタイヤを狙う。私の元に絶えず荷物を送り込もうとする全てのものを狙う。

 

マイフレンド

私が私自身についてこれこれこうこうと考えるとき、同時にこれこれこうこう でない・・・ と考える私と必ず対立する。例えば私が「私は無価値な人間である」と考えるとき、同時に「私は無価値な人間 でない・・・ と考える私がそれと真っ向から対立する。もしも前者の、「私は無価値な人間である」と考える私しかいなかったら、きっとその時点で私という生き物の全ての機能は停止していたであろうし、またそうせざるを得なかっただろう。私はいつも、私自身の否定によって生かされている。また一方で、私が「私は価値のある人間である」と考えるとき、同時に「私は価値のある人間 でない・・・ と考える私がそれと真っ向から対立する。私はいつも、私自身の否定によって殺されかけている。否定はよき隣人であり、よき処刑人である。

 

宇宙コーヒー

ブラックコーヒーが好きで、砂糖も好きで、牛乳も好きなのだが、微糖のコーヒーが全く飲めない人間がいるらしい。飲めないどころか、下手すると半日胸焼けに苦しんだ挙句ゲロ吐く始末らしい。実話らしい。ばっちいなあ。時として、部分と全体の関係はこんな感じである。仮にとある一つのよき部分から始めて、最初のよき部分にとある別のよき部分をどんどんどんどん足していったとしよう。果たして、人間はいつまでそれをよき全体として保っていられるのか。冒頭の人間はブラックコーヒーに砂糖を足した時点で既に(己にとっての)よき全体を保っていられなくなった。まあそんなやつのことは無視して、よき部分をどんどん足していこう。1杯のブラックコーヒーから始めて、砂糖、牛乳、チョコレート、マシュマロ、シナモン、キャラメル、ココア、もっともっと足していこう。よき部分ならなんでも足していこう。カレーライスを足そう、ステーキを足そう、お気に入りのワンピースを足そう、ヴィトンのバッグを足そう、ダイヤのネックレスを足そう、タワーマンションを足そう、シリウスを足そう、さそり座を足そう、太陽を足そう、神様でも仏様でも、 それがよき部分である限り・・・・・・・・・・・・ 、なんでも足していこう。やがて1杯のブラックコーヒーにこの世のほとんど全てが収まりきるだろう。ロマンがあるなあ。ただしそれが果たしてよき全体であるかは、また別の話である。

※余談だが、この微糖でゲロ吐いた人、最近ではカフェラテも飲めなくなったらしい。カフェラテがブラックコーヒーより苦いと感じるらしい。でもカフェオレとコーヒー牛乳はめっぽう好きらしい。カフェモカとココアの味の区別がつかないらしい。

 

 

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