珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

最近見てない映画についての覚書|闇落ちしたロールパンナちゃんみたいな男の子が気になります

今週のお題「最近見た映画」について

最後に映画を見たのが14年前なんですが最近見てない「劇場版『鬼滅の刃』 無限列車編」の感想を書きます

 

(ネタバレは)ないです ※原作未読

いやー無限列車良かったですね。冒頭3秒で現代にタイムスリップした炭治郎たちが魔の山手線ループに巻き込まれた時はそうくるか~となりました。恐らく日本映画史上タイトル回収が最も早い作品だと思います。見所は沢山あったのですが、個人的にお気に入りのシーンは、電車を待っている時にねずこちゃんが咥えてるちくわをホームと電車の間に落としてしまって狼狽のあまりホームで大暴れする場面です。代わりのちくわをコンビニで買ってこようと提言する冷静な善逸くんと、妹を(社会的制裁から)守るためにホームに降りて大切なちくわを取ろうとする炭治郎の対比が面白かったです。その後無事ちくわを確保し妹と熱い抱擁を交わすも、駅員さんにしこたま怒られたフゥーン門兄妹のシーンは微笑ましかったです。ぶるんぶるん揺れる甘露寺さんのおっぱいに終始目を奪われました。見ている側としては最高だったのですが、インターネットのめんどうくさい人達からアレコレ言われないか心配になりました。今のところそのようなことも無いようで何よりです。4周目のループ終盤、満員電車で押し合い圧し合いしていた乗客たちがあまりにも押し合い圧し合いするあまり凄まじい光を放ちながら融合し、1体の巨大な鬼となって炭治郎たちに襲いかかるシーンは息を飲みました。煉獄さんがギリギリのところで放った悪即斬が無ければ全滅していたと思います。流石煉獄さんです。これにより山手線は全面運行停止となり、炭治郎一行は無事にループを脱出。その後みんなでおしゃべりしながら30km線路を歩いて元の時代に帰ったシーンは感無量でした。闇のロールパンナちゃんは推せそうと思いました。面白かったです。来週のジャンプ買います。

 

共感性羞恥が働きすぎる説

今週のお題、「最近見た映画」ってそれ鬼滅の刃一色になるのでは?と思っていたけれども、はてなブロガー結構色んな映画見ててびっくりして、そうでしたね、近頃ではネトフリとかアマゾンプライムなんかが有るんでしたね。自宅にいながらレンタルや金曜ロードショー以外で映画が見れるなんて、便利な世の中になったものだ。私は映画やドラマ、あと最近はアニメも含めた映像作品がどうしても苦手で、熱を上げている作品のアニメですらシークバー動かしたり早送りして5分くらいで見てしまうんですけど、アレは一体なんなんだろう。少なくとも小学生位の頃はテレビの前で大人しくしていたはずなんだけどな。最後に見たドラマは『ごくせん』の第1シリーズ。最初で最後の好きなドラマ。

 

 

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水槽の中と外、それからもっと外についての覚書|行けない世界を眺めること

だって世界は狭いから 

住む世界が違う人々は、案外身近に住んでいるものだ。先日書いた模範的な家なんかは私の住んでいるアパートの真正面にあるし、なんならうちのアパートの並びはデカくて豪華で駐車場に外車が停まっているような家ばかりが並んでいる。ここの激安アパートだけめちゃくちゃ浮いている。街を歩けば思う。「あ、自分とは住む世界が違う人だ」と。街中ではそういう人たちとたくさんたくさんすれ違う。見るからに金持ってそうなマダムもそうだし、ほぼ脚ってくらい脚が長いホストの兄ちゃんもそうだし、子供連れの幸せ家族なんかもそうだ。別に私は金持ちになって全身高級ブランドで固めて歩きたいとは思わないし、ほぼ脚のイケメンになってネオン輝く夜の店でシャンパンを積み上げたいとは思わないし、恋人を作って結婚して家庭を持って一家団欒したいとも思わない。ので、彼ら彼女らを見る目は羨望というには些かお粗末な、なんというか、水族館で妙な形の生き物をガラス越しに眺めている時のアレに近い。はえー。こんな生き物もいるんだなあっていう、アレ。

 

人間とかいうへんないきもの

私は観賞者である。水槽の外から、なんかすごい生き物のなんかすごい生態を、口開けてぼんやり眺めている立場である。人から観賞されるような性質にも色々あるので、被鑑賞者が一概に恵まれているとは言えないが、特に鑑賞されるような要素を持ち合わせていない、悪くはないが大して面白みのない生物は、鑑賞者として一生を過ごすしかないのだ。私、いや、我々のことを不憫だと思うか?ふと後ろを振り返ると、ガラス扉の向こうは館内に入ることすら出来ない連中で溢れかえっている。どうにかして自分も館内の物珍しい生き物を一目見ようと躍起になっている奴もいれば、得体の知れない不気味な生物なんか別に見たくもないねと言って入口に背を向けて座り込んでいる奴もいる。建物にも中の生物にもまるで興味を示さず、四六時中空を眺めて過ごしている奴もいる。そんな彼らに通行人の好奇の眼差しが刺さる。館内の不思議な生き物と館外の不思議な生き物、両方知っているのは観賞者たる我々だけだ。しかし、我々がひとたび観賞の権利を剥奪されたら、あの連中の中に放り込まれるというのか?我々がひとたびお偉いさんに気に入られたら、あの水槽の中に放り込まれるというのか?少なくとも今のところは自由な出入りが許されている。今のところは。

 

ギリギリでいつも生きていたくないから

観賞者は観賞する生き物であるので、基本的には観賞者に対して向けられる眼差しは無い。あるとしたらそれは神の視線くらいである。特別な美点があるわけでもないから贔屓目に「見」られることもないし、放っといてもそこそこに生きていけるような連中だから面倒を「見」られることもないし。勿論その中にはギリギリのところで水槽に入れなかったような奴もいれば、ギリギリのところで水族館に入れてしまったような奴もいる。せめてあと少し這い上がることが出来たなら自分だって水槽の中で自分の才を「見」てもらえるのに。いっそあと少しずり落ちることが出来たなら自分だって建物の外で面倒を「見」てもらえるのに。観賞者もピンからキリまで。「見」られなきゃやってられないようなタイプの観賞者が1番辛いよな。「見」られなきゃやってられないのに、上でも下でもギリギリのところで、決して「見」てもらえないんだもの。

 

あなたは水槽で、わたしは水槽の外で暮らそう

テレビで芸能人の自宅特集とか見て、「いいなあ、羨ましいなあ」と最後に感じたのはいつだったろうか。そんな時期も確かにあった筈なのだ。今そんな番組見ても「手入れがしんどそう」とか「移動が面倒くさそう」とか「物が多すぎてヤダ」とか「ここからここまで全部捨てたい」とかそういう感想しか思いつかないんだろう。逆に、敢えてクソ狭物件を選ぶ今ドキの大学生特集とか見たら、「いいなあ、羨ましいなあ」ってなると思う。今のアパートは決して広くはないが、月日が経つにつれて何故か部屋を持て余すようになってきて、その余白にゴミが散らかるもんで辟易している。まあそれはさておき、住む世界が違う人々は、案外、ガラスの水槽やガラスの扉をたった1枚隔てたところに住んでいるもんだ。

 

 

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人間には215本も指があんのよ!2本くらい何よ!という一筆箋|くすりゆび2ほんとv小指でどうやrttながいきじ書けっていうんさよ

長文ブロガーのちmうぃしょう致命傷

(´-`).。oO(左手の指が2本パンパンに腫れて全然動かせなくなっちゃった すんげえタイピングしづらいので誤字増えるかもしれないけどゆるしてね)

 

いつものスピードでたいぴんぐしtsrsしたらガチでこんなかんじなんや

(´-`).。oO(右手も親指と小指がズタボロでいたすぎrwうmkうごかせrないかえあ指曲げらっれないじゃんけんでぐー出せないねえ)

 

 

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自分のための他人のためについての覚書|隙あらばこの手の記事に物申す女

クソな人生せめて何かひとつくらい「ド素人」の域から抜け出して「素人」くらいを自称することが許されるような得意分野があったらよかったんですが

私がネットの海に氾濫するトーシローメソッドに対して良い印象を持っていないことは度々書いてきた。トーシローメソッド、要はインターネットの発展によって無数に生まれたド素人の、ド素人による、ド素人のための、科学や心理学の皮を被った方法論のような何かのことである。ただまあ、それらの中にも有用なものが存在することはれっきとした事実なので、ここらでいっちょ、なるべくポジティブかつソフトでマイルドな視点からそれらについて考えようと思う。いや決して、ここ最近ずっと悲嘆に暮れたぼやき記事ばかり書いてきたので、たまには何か役に立つかもしれない記事でも書こうかなと思った時に、結局その記事は自分で言うところのトーシローメソッド以外の何者でもないことに気づいて、自分に対する先制的自衛権を発動しておこうかなという下心など一切無いので安心して欲しい。ちなみに私自身ぺーぺーのアホのトーシロなのであまり真に受けないでください。恥ずかしいので。

 

モノクロなブログなので埋め込みリンクがあると記事が明るくなっていっすね

ド素人がド素人の経験から抽出したエッセンスをまとめて方法論に仕立て上げるのと、学術のプロがド素人 たち・・ の経験から抽出したエッセンスをまとめて方法論に仕立て上げるのと、何がどう違うかなんてわざわざ言うまでもないだろうが、とりあえずここでは「いいこと聞いた(見た・知った・体験した)から皆にも教えたい」という人間あるあるの有無について考える。トーシローメソッドなんて大半がコレで構築されているんじゃないか?ここから2分くらいネットサーフィンして見つけた2つのサイトを適当に貼っておこう。

foundationinc.co

この記事は「シェア」の話なのでトーシローメソッドを「(一応)1から書き上げる」こととはまた毛色が違うが、「人に教えたい」という意味では同じなのでまあいいかなと。英語記事だから頭良さそうに見えるし。ところで、シェアする理由として「他人に有益な情報を共有するため」が49%なのに対し、「自分はこういう人間であるという謂わば自己表現がのため」が68%、「自己充足のため」が69%、「自身の交友関係を維持するため」が78%あるのがちょっと面白い。ふふっ。日本語には「わたくしそのもの」を表現する言葉が沢山あって便利だな。

studyhacker.net

 こちらの記事に至っては、人がシェアする理由を「①感情を共有するため ②自分自身を表現するため」の2点に絞っており、「他人に有益な情報を提供する」という点をバッサリ切り捨てている。確かに続く内容や記事の主題のことを考えればその理由は切り捨てても構わないようなものだが、こうもあっさり削除されているとこれまた面白い。ふふっ。

 

はい。

徹底した利他主義者でもない限り、顔も見えぬ他人に対して自分の取り分以上の利を無償で投げてやろうとするもの好きはそうそういないものだ。まず自分の取り分を確保した上で、余りを他人に投げてやる。自分の取り分を少なめにして、他人へ投げる分を多くするような人が、俗的な意味合いで「聖人」と呼ばれるのだ。俗的でない方の聖人についても概ねそうであろうが、まあここでは俗的に呼ばれる方の「聖人」に限らせて頂きたい。こじれたくないので。私が2分でサーチして3分でまとめたところによると、「いいこと聞いた(見た・知った・体験した)から皆にも教えたい」精神は結局のところ、自己の利益に起因する場合が多く、他人の利益に起因するのは概してそれ未満ってことなんだな。フーン。知ってた。

 

夢の在り処 星の在り処 責任の在り処

じゃあ、私は数々のトーシローメソッドに対して、そこにド素人の浅はかな自己利益狙いが透けて見えるから嫌悪していたのかと言われると、なんだかそうでもない気がする。自己利益を狙うなんて当たり前のことなんだから。まあ多分なのだが、この記事でつらつら書いてきたこととは一切関係なくて、ただああいう手の記事の、責任がふわふわしているところが苦手なんだと思う。「自己責任でオナシャス」って書いときゃ何書いてもいいみたいなところがモヤモヤするんだと思う。満杯のゴミ箱に飲み終わったジュースの紙パックをねじ込むくらいの気持ちで他人の人生にまともな根拠のないド素人の独り言をねじ込もうとするような気持ちが気に食わないんだと思う。いや、人の生って満杯のゴミ箱みたいだなと言いたいわけではなくてね。もしネットでトーシローメソッドの記事を見て実行して死んだ人がいて、遺族がネット履歴からそのサイトを発見して、「うちの家族が死んだのはこの記事のせいだ!訴えてやる!」って類のことが……普通にもう起こってそうだな。ウン。訴訟大国アメリカではとっくに起こってそうだ。法律に関してはさっぱりなので何も言えないが、「自己責任でオナシャス」って書いてたら、たとえ死んでもやっぱり責任は負わなくていいのかな?実行者の責任能力にも依るのかな?

www2.rikkyo.ac.jp

分かりやすそうなので今度読みます。

 

自己批判 自省しろ

ここで冒頭の段落の内容に戻ろう。

いや決して、ここ最近ずっと悲嘆に暮れたぼやき記事ばかり書いてきたので(=自己弁護)、たまには何か役に立つ(=他者の利益?)かもしれない(=必死の保身)記事でも書こうかな(=罪滅ぼし)と思った時に、結局その記事は自分で言うところのトーシローメソッド以外の何者でもないことに気づいて(=言い訳)自分に対する先制的自衛権(=おばか)を発動しておこうかなという下心など一切無いので安心して欲しい。

ウーン、擁護出来ないくらい自分の利益に起因していますね。だめだこりゃ。

 

 

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矛盾の矛盾についての覚書|頭の内容量が減ってるんじゃなくて頭の容積そのものが減ってるんじゃなかろうか

ほこたて

なんもしたくないからなんかすることがほしいなあ

 

(^O^)

矛盾だと思われるだろうか?「なんもしたくない」というよりも「あたまからっぽにしたい」が正しいのかもしれない。で、あたまからっぽに出来るような「なんかすることがほしい」。ヨシ。現状、あたまからっぽになるくらいに熱中出来るようなこと――生産的なことが見つからないので、頭の中はつねにぐるぐるだ。このぐるぐるが実に体力気力を消耗する。稼働の必要がないときは頭のスイッチを切っておきたい。そのせいで地震雷火事親父から逃げ遅れたとしても、それが自分の運命であったとして潔く受け入れるから。

 

「最強」にも序列があってだな(矛盾)

「なんもしたくない」と「なんかすることがほしい」は、どちらが矛でどちらが盾なのだろうね。感覚的に捉えれば、積極的な「なんかすることがほしい」が矛で、消極的な「なんもしたくない」が盾に見える。それで……「なんかすることがほしい」という最強の矛が、「なんもしたくない」という最強の盾に挑みかかっている状態はまだ救いがあると思う。救われないのは、「なんもしたくない」という最強の矛が、「なんかすることがほしい」という最強の盾に挑みかかっている状態である。お前は間違っても蜂起しちゃいけない。黙って床の間に飾られてるか、武器庫の肥やしにでもなってろ。「なんもしたくない」という最強の矛は、最強の矛界でもとりわけ最強の矛であって、言うなればそう、「この世の全てを貫けるが、使った者は必ず死ぬ」最強の矛である。一度この矛を構えたが最後、リスポーンするまで死に体が確定してしまう。「なんもしたくない」は人を殺す。ついでなので盾についても考えよう。盾は守りである。「なんかすることがほしい」という守りとは、一見矛盾しているようにも思われる。「なんもしたくない」という守りが手足頭を引っ込めて引きこもっている亀ならば、「なんかすることがほしい」という守りは手足頭全てを突き出して臨戦態勢を取った亀だ。亀は亀でも亀仙人クラスの亀だ。つよい。甲羅の重さで全く動けない点を除けば。有り余るパワーを持っていながら、動けないのである。放っておいても甲羅の中でエネルギーが暴走して自爆する。うまく扱えれば、「なんかすることがほしい」は「なんかすることがあった」を経て「楽しい」や「生きがい」に昇格することが出来るのだが。言うなればそう、「この世の全てを防げるが、一定時間後に必ず自爆する」最強の盾である。

 

前回死んだ自分が生き返らないうちに戦い始めるのやめろ

ひとたび「なんもしたくない」という最強の矛と、「なんかすることがほしい」という最強の盾との争いが始まってしまったら、共倒れの未来しか見えないのだ。たとえ争いを始めなかったとしても、「なんかすることがほしい」という盾はいずれ勝手に自爆するので、それに「なんもしたくない」という矛が巻き込まれる可能性もゼロではない。よしんば巻き込まれなかったとしても、よく考えろ、残ったのは「『なんもしたくない』という矛」だぞ!これで一体どうしろというのだ!この先の人生どう戦えというのだ!まあ、その矛も使ったら死ぬってんで、やっぱり床の間に飾るか、武器庫の肥やしにしておくのが1番なんだなあ。

 

義務を課されないとうまくやっていけないタイプの人間は大学生になった途端に崩れ始めるから気をつけろ(経験談)

今年6月くらいの時点では、12月に貯金額のキリが良くなる予定なので、時期的にもキリがいいことだし、その時点での端数のお金を全て娯楽に突っ込む義務を課そうかと思っていた。が、給付金のお陰で貯金が+10万になり、そうなると12月の時点で10ウン万を娯楽に突っ込まざるを得ないことになってしまう。またもや、「お金を使わない言い訳」が生まれてしまったのだ。なんでやねん。「なんかすることがほしい」という盾がまた爆発してまうやろ。それに今のモチベーション的には、「なんもしたくない」という矛が絶賛蜂起中だ。あーもうめちゃくちゃだよ。誰かが義務を課してくれたらいいのにとさえ思う。何でもいい。「絵を描け」でも「料理をしろ」でも「ガンプラを作れ」でも「ランニングをしろ」でも「羊毛フェルトをやれ」でも「撮り鉄になれ」でも「ひとりソロキャンプ(?)をしろ」でも何でもいい。誰かが私に娯楽の義務を課してくれたら、私はハイワカリマシタといってそれに従うだろうに。「なんかすることがほしい」私に、誰か娯楽の義務を課してくれませんか?

 

 

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