珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

この大空に翼を広げる前に墜落する覚書|タダより高いものはないんだぜ

いま!!!

わたしの!!!

 

ねが!!!

いごとが!!!

 

かな!!!

う!

な!!

らば!!!(ここで絶命)

 

おお げんかいフリーター! しんでしまうとは なにごとだ!

おいおいおいおい。ここ日本には「言うだけタダ」というありがたーい言葉があるのを忘れてしまったのか。言うだけならタダ、10ぺん言っても100ぺん言ってもタダはタダ。願いの言の葉、100ぺん言ってもだいじょうぶ。それだのに願い事を言うより先に死んでしまうとは、これにはさしもの言霊も困惑不可避。まったく欲深い人間の風上にも置けないやつだ。もっと世の中の、模範的な欲深い人間を見習ったらどうかね。そもそも、先程のお前さんの願いに至るまでの前口上を聴いておったが、「叶うならば」のあとで一瞬ためらっただろう。そんなんだから肝心の願い事を口に出す前に死ぬんだ。言霊はお前さんが思っているよりずっと露骨に人間を選り好みするぞ。

 

ひとりお空に向かってもお願いできないのに

今の私には、お願いするのに必要なありとあらゆる条件が欠けているように思われる。お星さまに向かってお願いするほどの純真さもなければ、神さまに向かってお願いするほどの敬虔さもなく、閻魔さまに向かってお願いするほどの勇ましさもないし、ましてや人さまに向かってお願いするほどの度胸もない。お願いするなら、そう、自分に。自分にしかお願いできない。お願いする相手が自分しかない。それは「己の力ひとつで生きていく」という逞しい類のものでは決してない。前述の条件の欠如に加え、己が抱いている願い事にびた 一文の価値もない、ひいては己に悪銭ほどの、いや、こども銀行券ほどの、いや、こども銀行券の鐚札ほどの価値もないと考えているから、何に対してもお願いできないのである。そしてこれは言うまでもないことだが、自分さまは別段何も叶えちゃくれない。

 

お試しチケットは罠

お願いするだけならタダ。人さまに向かってお願いする場合は相手の心象などもあるので一概にそうはいかんだろうが、少なくともお星さまや神さまや閻魔さまに向かってお願いするだけならタダなのだ。それならば、己の願いが鐚一文ほどの価値もないと言ってもあくまでゼロではないのだから、お願いすればするほど得をするのはこちらではないか。鐚一文の価値が有るお願いをしてタダでそれが受け入れられた、さすれば私は鐚一文ぶんの得をするのである。突然だがここにお試し純真チケットがある。このお試し純真チケットを使えば、己に純真さがまったく欠けていたとしても、幼子のような純真さでもって1度だけお星さまにお願いをすることができる。よーし、お試し純真チケット1枚使ってお願いしちゃうぞ。お星さま、お星さま、あのね、私ね、あ、あの、お、お金持ちになんかならなくてもいいから、あの、お、おだ、おやだ、おだや、おやかだな、穏か、ああ……

 

「贅沢言わないから10億円欲しい」に等しい贅沢

「穏やかな暮らしがしたい」とは、なんと贅沢な願い事だろう。こんな極上の贅沢でさえも、「言うだけタダ」だというのか?地球一ぱいぶんの小判を捧げても、まだ足りぬほどの贅沢ではないか。こども銀行券の鐚札ほどの価値もない私がこんな贅沢な願い事を口にしようものなら、いくら「言うだけタダ」といっても、代わりにお命頂戴されるくらいの代償が必要なのではなかろうか?た、タダとは一体……ああいや、タダの価値しかない私を対価に差し出してもそれは結局タダってことか?タダとタダの物々交換だもの。どっちも物じゃあないけれど。物には価値があるからね、物に例えちゃ失礼だ。ははあ。

 

汚喪痴邪おもちゃ の缶詰

「言うだけタダ」の代金として「タダ」の私を支払って、そこで初めて私は絶命するというのなら、冒頭で願い事を言う前に絶命してる私は一体なんなんだ。「タダ」の価値さえもないということなのか。「タダ」の私を5枚集めたらレムチャンのびた 缶とか貰えるのか。灰皿にもならなさそう。

 

 

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文法にうるさい寿司の立場から考える「人間」についての覚書|I am SUSHI.

今週のお題「寿司」についていつもの一言

みなさん、寿司は好きですか? 握ったり回ったりする魅惑の食べ物……それが「寿司」。

視点 主語を統一しろ

※主語です!主語!

 

国語の教師かオメーはよォォォォ

握ったりするのは「人間」であり、回ったりするのは「寿司」である。はて、これは一体どうしたものか。私は「人間」の立場からこのお題に答えればいいのか、それとも「寿司」の立場からそうすればよいのか。寿司を扱う側の人間から見るのであれば「握ったり、回したり」とすべきであるし、人間に扱われる側の寿司から考えるのであれば「握られたり、回ったり」が正しいだろう。さらに細かく言えば、「握ったり、回したりされる魅惑の食べ物」もしくは「握られたり、回されたりする魅惑の食べ物」が、一文としてしっくりくる。ウム。セッコもこれには大満足。生憎私はこれまでの人生で一度も寿司になったことはないし、恐らく今後もそうであるはずだったのだが、はてなブログが与えてくれたせっかくの機会なので、寿司になることにします。

 

わたし、野球ド素人の寿司です。こっちはメジャーリーガーの大谷

どうも寿司です。10年くらい前の英語の教科書に英文で紹介されたこともある寿司です。「なれ鮨」って聞いたことない?寿司のルーツみたいなものが、英文で書かれててね。それと、初めて寿司を食べる外国人におすすめ出来るネタについても書いてありました。玉子と……あとなんだったか。とにかく、生臭くないものを最初におすすめしろと。それは尤もだが、最初に玉子を勧めるのは、あー、なんというか、イヤ、合理的なんだけどね、感情的にはちょっと「それどうなの?」ってなるというか。日本人メジャーリーガーが出場するメジャーリーグの試合で、注目すべき選手は誰かと問われて、誰々っていう現地の選手だよってお勧めするくらい、合理的だが感情的にはちょっと、みたいなところがあったね。より具体的に例えるなら、初めてメジャーリーグの試合を観戦する初心者の日本人に対して、今あんまり調子が良くない大谷よりも、絶好調な現地選手に注目しろって勧めるような感じだね。それは実に合理的だけど、感情的にはやっぱり「そりゃ大谷よ」って言ってほしいわけ。野球は全然分からないから変なところがあっても勘弁してね。自分、寿司だし。

 

寿司、年月を経てもその本質的な価値は変わらない人間になるー!

ところで、寿司ってのは大衆庶民向けの贅沢として本当に優秀だな。自分で言うのもなんだけど。100円寿司に行けば英世1枚でお腹いっぱい食べられるし、それでいてすごく贅沢した気分になれる。値段がいくらだろうと、寿司を食べた事実には変わりがないのだから。そう、値段がどれだけ安かろうと、寿司は一種の贅沢という観念が、我々の……じゃなくて、人間の中に刷り込まれている限り、寿司は他の食べ物とは一線画したところにずっと位置していられるのだ。値段が90円になろうが80円になろうが、寿司はその地位を揺るがすことがない。私もそんな人間になりてえなあ。今は寿司だけど。

 

>突然の輪ゴム<

全然関係ない話をするけど、老舗メーカーが作ってる箱入り輪ゴムの箱には大抵「高級」って書いてある。ダイソーで売ってるやつにもデザイン模倣の一種として書いてあったかな。昔の名残ね。1箱に何百本も入っていて数百円、それに「高級」と銘打ってあるのは今となってはちょっとヘンな気分もしますけど、レトロな感じがあって私は好きです。あっ、寿司は好きです。一人称は寿司。本当にこの話寿司と関係ねえな。

 

寿司があればとりあえず頑張れる可愛い人間のみなさん

寿司が年月を経てもその本質的な価値は変わらない食べ物の地位に至るまでに、一体どれほどの人間の苦労があったことか。寿司ド素人なのでそのへん全然わからないけど。えっ、今のお前は寿司なのになんで寿司についてド素人なのかって?だって人間さんだってずっと人間やってるくせに人間ド素人でしょ。お互い様よ。人間がその地位に上り詰めるには、本当に並々ならぬ苦労が必要なのだ。若い頃にひとつの大きな業績を上げただけじゃだめで、そこからもコンスタントに何かしらの業績を作っていかなければ、世間からは忘れ去られて、それどころか「一発屋」という不名誉な称号すら与えられかねない。人間、一回の人生でそう何発も当てられる方が却っておかしいのよ。寿司が今の地位を築くまでに人間の苦労があったというのなら、各々の人間が確固たる地位を築くためには、寿司の苦労が必要なのかもしれない。でも、寿司が人間にしてあげられることなんて、おいしさとよろこびを提供するくらいしかない。それで十分だろうか。十分かな。人間って、単純だし。

今週のお題「寿司」「人間」

 

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娯楽だけど娯楽じゃなかった覚書|ファミマの濃い味クリームチーズケーキを食べろ

くーねるはぐろ

寝食忘れて打ち込めることが寝食くらいしかなくてかなしい。三大欲求がそのままおの が人生の主たる娯楽になっている人間はちと危ういと思う。正しくは、三大欲求だけが、か。食べることしか楽しみがない、寝ることしか楽しみがない、チョメチョメしか楽しみがない、云々。楽しみがあるだけマシなのだろうか?ウーン。例えばラーメン好きがラーメンの食べ歩きをしたり寝具マニアが最新の寝具をあれこれ試したりするのは立派な娯楽である。一方で毎日の義務的な寝食、言ってしまえば「それをやらなければ生命を維持できないような」最低限の寝食、それを己が人生の主たる娯楽扱いしてしまうのは、やはり何らかの意味で危なっかしい気がする。当人が生活に困っているわけではないのならなおさら。もはや贅沢が義務と化した現代人のみなさん、どう思います?

 

つよい

金が有り余っているわけではないが、目下生活に困っているわけでもない。最低限の寝食を娯楽とせざるを得ないのは金銭的に切羽詰まった事情があるからだろうという推察を受けるのは当然の流れだが、ウーン、これでもね、もうちょっと出そうと思えば出せるのよ。娯楽に。でもなんというか、138円の新作パンを見て「おっうまそうだな」と考えている時間、それを購入してから『食事』( おやつではなく・・・・・・・ )として食べて「めっちゃうまい!」と感動している時間、それに勝る快楽が手の届く範囲にあるとも思えないし、たとえあったとしても、なんせこっちの経費はわずか138円なのだ。138円だぞ!?138円の新作パンの話は一例に過ぎないのだが、つまり何が言いたいかというと、凶悪なまでに快楽のコスパが良すぎるものたちが、あちこちにゴロゴロ転がっているのがわるい。

 

おいしいはたのしい

いや待て、少し考え直そう。おいしそうなパンを選んで購入しそれを『食事』として味わい満足するのは、そもそも万人にとっての娯楽じゃあないのか。何も寝食しかやることがないような人間にとっての娯楽などではなく。だとすれば、私がおいしそうなパンを選んでいるときの快楽は、何ひとつ特別なものではなかったということか。私がおいしそうなパンを食べて「おいしい!」と唸っているときの快楽に、特別なものは何ひとつ属していなかったということか。それは流石に言いすぎかな。ともあれ、これは例えるなら両手いっぱいに海の水をすくい上げて、「これが私の海」と言っているようなものだな。私が勝手に「私の海」と名付けたところのものは、現実には「みんなの海」であったし、同時に「誰のものでもない海」でもあって、実際「ただの海」であったのだ。

 

よくわからない解説

■=最低限の寝食による『娯楽』 □=一般的娯楽 とすると、

わたし ■■

みんな □□□□□

によりその差は3であると思いこんでいたのが、実際は

わたし ■■

みんな ■■□□□□□ 

であり、結局差はなんら縮まっていなかったのである。今気づいたんですか?

 

ちなみにこれが138円の幸せです

www.family.co.jp

 うまんい

 

なんでもおいしいしいくらでもねたい

物は言いようという素晴らしい言葉がある。コンビニの新作パンを選んでいるだけでウキウキできたり、ボロボロのベッドに横になるだけでニコニコできるのはコスパが良くて大変よろしいことだ。毎日三食高級フレンチを食べなければ心が飢えてしまうような人々や、毎晩ハープの生演奏がなければ身体が休めないような人々よりも、幸せの感受性は高いと思う。だが、幸せの感受性が高いからといってその人の人生が幸せであるとは限らないのだ。実際に幸せを受信しなければ。幸せ。幸せ。幸せってどこに落ちてるんだろう。あたかも海のない国で暮らしながら、大金はたいて買った自慢の船に乗って大海原に漕ぎ出す機会をただただ待っているようなやり方では、きっと幸せにはなれない。

 

 

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生きているだけでいい(生きているだけでいいとは言ってない)覚書|たったこれだけ(ぜんぶ)

どうあがいてもドンパチ

「ここにサインするだけでいい」という台詞の中には、物語を不穏不吉な方向に進めるためのエネルギーがぎっしり詰まっている。我々読者がこの台詞を目にしたが最後、手榴弾の安全ピンは無情にも引き抜かれる。「ここにサインするだけでいい(ここにサインするだけでいいとは言ってない)」。ここにサインするだけでいいとは言ったけど、ここにサインするだけでいいとは言ってないですよね。言われたとおりここにサインして、本当にそれだけでよかった物語があるなら是非とも教えて欲しい。この台詞が出てきたあとの展開といえば、サインを拒否してドンパチ始まるか、サインを書いてドンパチ始まるかの二択である。

※これと似たような台詞として、「XXの姿を見かけなかったか?」を挙げてもよいだろう。XXの姿を見かけた人間がいようがいまいが何かしらドンパチ始まるのがお決まりである。また該当の人物が見つかろうが見つかるまいが、XXが大変なことになっている確率は非常に高い。彼ないし彼女が人間の姿を保っているだけ、まだ有情というものである。

 

白黒さんあなた普段どんなジャンルの作品読んでるんですか

はい

 

それ甘露じゃなくてニトログリセリンでは

「██するだけでいい」という甘露滴る言葉をくぐり抜けた先には、大抵の場合、また新たな「██するだけでいい」が待っている。そうやって我々は「██するだけでいい」の蟻地獄から抜け出せないまま人生を終えていく。窮地にあって「生きているだけでいい」と言われた人間が、そのまま死ぬまで「生きているだけでいい」人間であったというケースは、残念ながら極めて稀である。「生きているだけでいい」と言われた当の本人は、その後大抵の場合、意識的無意識的問わず「生きているだけ」以上のことをやっていし、遅かれ早かれ周囲からせっつかれることだろう。昨日「生きているだけでいい」と言われた人間が、明日には「ただ生きているだけじゃだめだ」と言われるようなことは、フィクションよりむしろノンフィクションにおいて日常茶飯事である。

 

ごはん!( ╹◡╹)

「生きているだけでいい」の次の段階として正当なものは一体何だろう。はて、人間は単純な生存の次に何をせねばならぬのか。何を成さねばならぬのか。ええと……なんだ?人間がやらなきゃいけないことってなんだ?そもそも生きているってなんだ?高尚な話になっては困るのでここらでIQを下げておかねばなるまい。えーと、えーと、私が「生きているだけでいい」をクリアしたら挑みたい課題、ウーン…………ごはん!(IQ5)

 

生存が先か労働が先か

IQが下がった結果大変なことに気づいてしまった。「生きているだけでいい」こそが人間の最低限度にして原点だと思っていたが、どうやらその前に「ごはんを食べているだけでいい」があるらしい。なんてこった。それもそうか、生きているためにはごはんを食べている必要があるし、ごはんを食べているためには生きている必要が……おっと。これは沼だぞ。生きているのが先か、ごはんを食べているのが先かなんて、生存とごはんの間を反復横跳びさせるような真似はよしてくれ。それじゃ待機モードと充電モードの間を反復横跳びするロボットと何ひとつ変わるものではない。ここでこの無益な反復横跳びを終わらせるための助け舟を出そう。「働いているだけでいい」だ。働かざるもの食うべからずというありがたい言葉に代表されるように、我々の社会においてはごはんを得るためには働かなくちゃいけないんだから、「働いているだけでいい」「ごはんを食べているだけでいい」の前に置くのだ。ええ?生きている前に働くんですか?いやそこは安心して欲しい。先程と同様、働くにも生きていなければならないのだ。よって、「生きているだけでいい」「働いているだけでいい」の前に置こう。これによって「働いているだけでいい」⇒「ごはんを食べているだけでいい」⇒「生きているだけでいい(基点)」⇒「働いているだけでいい」⇒……の世にも不毛な無限ループが完成だ!ヒャッホウ!私かよ!

 

あーもうめちゃくちゃだよ

上の段落を要約すると、「生きているだけでいい、そのためにはごはんを食べるだけでいい、そのためには働くだけでいい、そのためには生きているだけでいい」となる。欲張りだなあ。「██するだけでいい」とは一体何だったのか。でも、大人って実際こんな感じで生きてるでしょ。大人だってみんな本当は 生きているだけでいい・・・・・・・・・・ のだ。ああそうそう、たった今「生きているだけでいい」とは言ったけど、 生きているだけでいい・・・・・・・・・・ とは言っていないのだ。ハァーア、やんなっちゃうよ。真に 生きているだけでいい・・・・・・・・・・ 大人になりてえなあ。

 

 

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孔明のエコバッグについての覚書|普通にエコバッグの話してる

文章は熱いうちに打て

先日の記事でチラリと見せたあれについてネタが新鮮な内に書きます

shirokuro-044.hatenablog.jp

 

これがあれです

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あれですね

 

それはエコバッグだと思っています。だからこそ私はエコバッグだと思っている

掛け持ちしているコンビニでレジ打ちしていたときのこと。スーツ姿のおじさんがカゴを持ってレジにやってきた。手元に水色黄色黄緑のポップな絵柄でテカテカした生地の、四角い布製品を携えて。ははーん、おじさん、それエコバッグですね?明らかにエコバッグを持っている人間に対してはわざわざ「レジ袋いりますか」なんて聞かないのだ。商品をスキャンし終わったあと、レジ袋のサイズを選ぶ過程をすっとばして躊躇いなく客層ボタンを押した。するとおじさん、手元のカラフルな布製品についているチャックをおもむろに引っ張った。ああうん、わかりますよ、折りたたんでコンパクトに出来るエコバッグでしょう。私も持ってますよ。できれば先にお会計から済ませて欲しいけど、まあエコバッグを広げるくらい別にいいでしょう。なんなら私が商品詰めますから。チャックが引かれる2秒くらいのうちにそんなことを考えていた。チャックが端から端へ到達する。おじさん、おもむろに中から1000円札を取り出す。ウン?おじさん、さらに中から小銭を取り出す。……ウン??中身がチラリと見える。外側と同じ生地で出来た布製の仕切りがいくつかついていて、カードが数枚入っている。ウン……???

 

わたし「あのー、レジ袋って……」

おじさん「あ、1枚ください」

 

さ、財布~~~~~~~~

 

完全敗北

いやあ一本取られた。だってあの形状と絵柄と素材で財布って思わないもの。しかもスーツ姿のおじさんがそんなの持って買い物に来るなんて思わないもの。なんだ?小学生の娘が家庭科の授業で作った財布とかそんなアレだったのかな?それなら許せるな。それ以外だったら許さないけどな。「折りたたんだエコバッグにしか見えない財布」って、以前ならなんとも思わなかったろうが、今となっては悪意しか感じないデザインだ。冷静に考えれば、あれは別に悪意あるエコバッグ型財布などではなくて、恐らく通販チラシによく載ってるポケットいっぱいの通帳入れみたいなやつで、それを財布代わりに使ってたんだと思う。それか小学生の娘が家庭科の授業で作った財布だな。悔しいから後者にしておこう。

 

前はローソンに行くとレジがさとうささらみたいな人工音声で「レジ袋は必要でしょうか!」って言ってくれてたけど客からすれば機械に返事するのは気が引けるし店員からすれば2回も同じことを訊く羽目になるしあれは本当に悪手だったよなあ

もしレジ袋が有料化していなかったら、私はそれをひと目で「財布」と見抜けただろうか?もしかしたら見抜けたのかもしれない。なんの迷いもなく商品をレジ袋に詰めながら、「このおじさん変な財布持ってんなあ」と、それが財布であることを無意識に見抜いていたかもしれない。派手な柄の四角い布=エコバッグという先入観が、私に「このおじさん変な財布持ってんなあ」をさせなかったのだな。ウーン、本当に一本取られたな。これからは、客が手に持ってる派手な柄の四角い布がひょっとしたら財布かもしれないという猜疑心を抱きながら、レジをやらなくちゃあいけないのか。ハァ。エコバッグ不信になりそうだ。私がそれをエコバッグと思ったならエコバッグになって、私が財布と思ったなら財布になってほしい。汝は財布!

 

「ポイントカードあります、レジ袋いりません、お箸とストローください、支払いはバーコード決済で」って書いたマスクつけて無言で買い物したい

なんかもう、行きつけの店で毎回レジ袋貰う派の人にはレジ袋年間パスとか配ったらいいんじゃないですかね。300円くらいで。

 

 

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