珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

何気なくない何気ない日常の何気なくない何気ない覚書|本文とまったく関係ないんですけどこれ書いてる今すごく耳がかゆい

スゲーッ

1週間って胸焼けするなあ。マジで。6日間を耐え忍んで、7日目にやっと開放されたときの心情といったら、新しいパンツをはいたばかりの正月元旦の朝のように爽やかな気分……などではなく、古いパンツをはきっぱなしの夏休み最終日の夜のようにグロテスクな気分である。「終わった!イエー!」ではなしに、「お、終わった……ヴォエェェ」である。また別の表現で例えるなら、6日分の食物の消化を7日目にしてようやく許可された感じ。1日目から6日目までの食物が全て未消化のまま胃の中に滞留していて、あっこれダメですねもう口から出ますねって頃合になって急に消化の許可が下り、胃液が大噴火して起こった胸焼けって感じ。

 

何気ない日常ってコエー

どうしてこうも、何気ない日常のひとつひとつを耐え忍ぶように生きねばならんのか。私は拷問されているわけではないし、制圧されているわけではないし、支配されているわけでもない。なんてこたあない。私自身が、拷問されていると思っているし、制圧されていると思っているし、支配されていると思っている、ただそれだけである。何気ない日常のひとつひとつから。何気ない日常のひとつひとつは拷問官であり、軍隊であり、支配者である。だから私は毎日彼らにビクビク怯えたり、コソコソ逃げ回ったり、ペコペコ媚びへつらったりして、過ごしているのである。

 

自分しか味方がいない人は自分という味方がいるだけまだひとりじゃないよ

何気ない日常って、あんまり味方じゃないよね。言うほど。そこまでは味方じゃない。敵ではないけど味方でもないもののひとつ。何気ない日常を味方だと思っている人たちの頭の中にある何気ない日常は、恐らくれっきとした「態とらしく幸せな日常」なんですよ。何気なくない。幸せは、何気なくない。幸せはいつも態とらしい。幸せが何気なかったら、どんなに幸せでしょうか。態とらしく幸せな日常が何気なかったら、どんなに幸せでしょうか。

 

年に1回くらいの頻度で額にヒンドゥー教のビンディみたいな吹き出物が出来る

じゃあ何気ない日常ってなんなのさって……なんなんでしょう。1日のうちから顔を洗うという行為を切り取れば、そこは何気ない日常でいいと思います。でもそこに、例えばそうだなあ、顔を洗ってパッと鏡を見たらずっと気になっていた吹き出物が治っていてちょっと嬉しかったとかそういう要素があったら、それは……それは何気ない日常でしょうか。大抵の人にとっては何気ない日常でしょう。しかし私に言わせてもらえれば、ちょっとした喜びがある時点で、もうぜんぜん何気なくないんですね。何気ないで片付けるにはあまりにも惜しいし、何気ないで済ませるのはあまりに傲慢だ。その日を吹き出物が治った記念日としてもいいくらいだな。私の祝日にしよう。

 

手のひらを返す(物理)

命からがら何気ない日常を送っている同志の皆さま、何気ない日常はぜんぜん何気なくないですよね。何気ないとか言って、人畜無害みたいな顔して、普通にグーで殴りかかってきますからね。かと思えば突然パーで頭をヨシヨシなでてきて、その次の瞬間にはチョキで鼻フック食らわせてきますからね。明日もまた、何気ない日常との戦いが始まります。何気ない日常に負けないように頑張りましょう。