珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

【白】コンビニスイーツの(個人的)最高峰が爆誕した件についての覚書|セブンイレブン「しろもちたい焼き」

購入のきっかけはただただ、「うちのブログ映えしそうだな」という理由であった。黒い皿に乗せて写真を撮りたいといういつもの理由であった。元々和菓子が苦手なのでたい焼きなどこれまで買ったこともなかったが、中身があんこでないならまあ、と気軽な気持ちで購入した。そんで、気軽な気持ちで食した。しかしながらこれから購入される皆様においては、是非とも覚悟を決めて召し上がって頂きたい。

毎日毎日ぼくらは鉄板の上で焼かれたことなさそう

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今回紹介するアイテムはこちら。セブンイレブンの「しろもちたい焼き」。なんというかもう見た目の時点で百点満点と言えよう。かわいい。とてもかわいい。アルビノのたいやきくんだ。そういえば最近白い和菓子を目にすることが増えた気がする。白いどら焼きなんてもう珍しくもなんともない。白羊羹、白おはぎ、白きんつば、白抹茶シュークリームとかいう和洋折衷を白塗りしたものまである。白い和菓子はどことなく神々しい雰囲気を湛えている。

黒い海をおよぐたいやきくん(白)

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買って良かったSeriaの黒皿。今後も食品を紹介するときは大抵この皿に乗せるつもりなので、興味のある方は過去記事も是非ご覧いただきたい。200円商品になってもいいから、あと一回り大きな平皿を出してくれないだろうか。

shirokuro-044.hatenablog.jp

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(`o´)コラコラコラ~ッ!!

こんにゃくペーストを使用した至高のもちもち生地

先程も言ったとおりこれまでたい焼きを買ったことがほとんどないので、たい焼きを頭から食べるか尻尾から食べるか論争に意見を述べられるほどこだわりはない。取り敢えず今回は尻尾から頂くことにする。

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もっちり

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みょん

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みょ~ん

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みょんみょんみょん

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ブチィ

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いやはや凄まじい弾力であった。原材料を見ると「こんにゃくペースト/加工澱粉」とある。なるほどこのたまらんもちもち感はこんにゃくペーストのお陰なのですね。

セブンスイーツのカスタードクリームはうまい

それでお味の方はどうかと言うと……参りました。もちもちプリプリでほんのり甘味を感じる皮の中に、セブンイレブン自慢の激ウマカスタードクリームがみっちり詰まっていて、和と洋のたまらんコラボレーション。セブンイレブンのカスタードクリームは本当に美味しい。シュークリームにはよく「エグロワイヤル使用」なんて書かれてたりするのだけれど、これはそうではないのかな。あっエグロワイヤルってのは卵のブランドです。いやそれでもめちゃくちゃウマい。製造者は北海道にある「十勝大福本舗」。なんでも埼玉にアウトレット直売所を持っているらしいのだけど……和菓子のアウトレット直売所とは……?

jikomanpuku.com

プレハブ(驚愕)

どこかで見たカスタードクリーム入りの白いたい焼きも激安で売られているようだ。本商品にはセブン&アイと十勝大福本舗との共同開発と書いてあるのだが……なんというか、そういう……大企業と共同開発品したやつを……こう廉価で……レシピとか権利とか大丈夫なのかなあと思いつつも、まあとにかく、近所の人が羨ましくなるレベルの直売所であることは間違いない。

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おいしゅうございました。

セガのたい焼き

たい焼きの画像を眺めていたら、珍妙な記事にたどり着いた。

www.famitsu.com

セガのたい焼き!?池袋店を1号店として、7月に秋葉原店がオープンするらしい。クレーンゲームを遊びながら片手で食べられるもの、を追求した結果、たい焼きになったとか。それは幾らなんでもというか、親戚にクレーンゲームガチ勢の叔母(55歳)を持ち親戚の集まりの度に叔母主導でゲーセンに駆り出され彼女の本気の眼差しを近くで見てきた身からすれば、モノ食いながらクレーンゲームはあんまりではないかと思うのだが。ちなみにこの叔母はガチ勢もガチ勢なので、箱入りのフィギュアとかでっかいぬいぐるみとかビッグサイズのお菓子とか息を吸うようにホイホイ取ってしまう。それはさておきセガのたい焼き、変わり種も沢山あるようなので気になる方は是非行ってみよう。

文章という放蕩息子についての覚書|文章のゆりかごから墓場まで

生まれる前に死んだグループ

以前、こんなグループを立ち上げようと思っていた。

(グループ名は未定) (以下グループ概要)

参加要件:【読者数100人未満】【モノ書きである】【ちゃんと自分から読者登録しに行く】【誰かが読者登録してくれるのを待たない】【時折記事に目を通す】読者数100人未満のモノ書き限定のグループです。相互に読者登録をしましょう。貴方の読者登録で救えるモノ書きがいる。貴方の読者登録で救われたモノ書きが紡ぐ美しい作品がある。小説、詩、日記、備忘録、エッセイ、書評、人文学、言語学、哲学、エトセトラ。モノ書きの基準は「自分の考えを文章にしている」こと。実用的なお役立ち情報(ライフハック)などがメインの方は参加をお控えくださいませ。サブ程度ならOKです。グループに参加したら、なにはともあれ誰かの読者になってください。もう一度言います。誰かの読者になってください。時間があったら、その人の記事も読んでください。もし記事を読んだら、スターもぽいぽい投げてしまいましょう。沢山投げましょう。相手が怖がらない程度に。投げられたら、ぽいぽい投げ返しましょう。飛び交うスターはきっと綺麗でしょう。モノ書きの生命はそうして長くなるのです。そして読者数が100人を超えたら、グループを卒業してください。先に言っておきます。あなたの書いたモノは、100人が見てくれています。あなたの作品は1人ではありません。卒業おめでとう。

こんなグループを立ち上げようと思って、概要をここまで記事に書いて取っておいたのに、いざ開設しようとしたら、グループを作れるのはPro登録者だけと言われて膝から崩れ落ちた。クレカが届いてPro登録するまでこのまま下書きとして残しておけばいいかと思ったら、恐れ多いことに、立ち上げる必要性そのものが無くなってしまった。なんやかんやあって使えなくなっていたカードがあと1週間程度で手元に届く。すぐにProへアップグレード……とはならないだろうが、果たした折にはこの文章を改変して、何かグループを作るかもしれない。その時はよろしくお願いします。

 

 生まれる前に死んだ記事

以前、このような記事を書こうと思っていた。「以前、こんなグループを立ち上げようと思っていた」という記事を、以前書こうと思っていたのだ。ウーン自分でもぐちゃぐちゃになってきた。要するにまあ、上の文章全体が、かれこれ1ヶ月以上前に書いたものである。クレジットカードが「あと1週間程度で」手元に届く、と書いているが、届いてからもう3週間近く経過している。

 

 生まれる前に死んだ記事について書いた死んだ記事

……という文章を、10日ほど前に書いたのである。クレジットカードが手元に届いてから1ヶ月近くが経過している。もう安心して頂きたい。あなたの読んでいるここが、この文章が、現在である。先延ばして、先延ばして、完全に賞味期限の切れた文章を、恥知らずにもこうやって公開しているわけだ。

それにしたって、どうして時間の経った自分の文章というものはこうも奇妙に見えてくるのだろう。文章は私の手を離れた途端、私を生みの親とも思わず自分ひとりで生まれてきたような顔してこちらを一瞥し、好き勝手に出歩いてはあっちこっちで喚き立てている。足もないのに歩き回り、口もないのに言って回り、顔もないのにデカい面して……生みの親に恥をかかせながら食うメシは美味いか?美味いか。そうか。書き手の価値観は本人が意識しようがしまいが日々アップデートされている。昨日はと言っていたものを今日はピンクと言っているくらいならまだ良いが、昨日はと言っていたものを今日はと言っていることだってある。書き手は変わっていくのに、残された文章は変わらない。文章は他人を変えることは大得意なくせに、文章自身を変えることだけは出来ないのだ。

「ごみばこ」

私は記事を書いている途中で方向転換したりしっくり来なかったりして切り捨てた文章たちを、いつか使えるかもと思いながら「ごみばこ」という下書き記事の中にストックしている。そしてそれを時々開いて眺めては、「うーん、これはごみ」と嘆息してページを閉じる。でも「ごみばこ」そのものを削除できない。使わないのだから定期的に廃棄処分すれば良いのに、なかなか出来ない。何故か。書いた当時からしてみれば、わざわざこんな「ごみばこ」の中に放り込んで保存しておくくらい、その「ごみ」に対してどうしようもなく愛着があるのだろう。それか「うまいこと言ってやったぞ」みたいな傲慢。

 折角なので今回はその「ごみばこ」の中から、何点か取り出して他人事のように解説してみようと思う。自分がボツにした文章を自分で掘り起こして自分で添削するという異例の試みである。マゾかな?

 

世の中には2種類の「日」がある。給料日と、給料日じゃない日だ。

 わざわざ太字にしてあるくらいだから凄く強調したかったのでしょう。お金に執着していた頃の文章ですね。惨めなほどに「うまいこと言ってやったぞ」顔が透けて見えるようですが、別になんにもうまくありません。

 

突然だが私(あなたでも)は今、愉悦に飢えているとする。猛烈に愉悦を欲している。来る日も来る日も四方八方からストレスを与えられ続けた精神は醜く歪んでしまった。とにかく愉悦が欲しい。愉悦。愉悦。嫌いな上司と嫌いな上司がコロッセオで殺し合う様をポップコーン片手に観戦したい。投資に失敗した妻子持ちサラリーマンが貯蓄を全て失った上に莫大な借金まで背負ったその瞬間を見たい。

 めちゃくちゃ物騒なんですけどこれを書いた頃の私はどれだけ荒れていたのでしょう。

 

 毎日なんにもすることがない人にとって、ちょっとその辺に食事に行くとか、そういうことでも人生の一大イベントのような

これは、書きかけですけど分かりますね。ところで当然ながら、まことの意味で「なんにもすることがない」人なんていないのです。生きるのなら、ご飯を食べなくてはいけないし、余程の金持ちでもなければご飯を食べたあとは自分で食器を洗わなきゃいけないし、他にも洗濯とか、掃除とか、風呂とか、買い出しとか、屁理屈を言えば、息を吸ったりもしている……ああええと、これは「なにかをしている」ことに含まれるのでしょうか?現代社会の中で生きるための最低限度の行動は、「なにかをしている」ことに含めてもいいのでしょうか?「休みの日って何してんの?」って聞かれて「ご飯を食べたり食器を洗ったり、あとは洗濯をしたり掃除をしたり風呂に入ったり買い出しをしています。あと息も吸っています」と答えることが許されるのでしょうか?やはり「なにもしてないよ」と答えるのが最善なのでしょうか?「なにかをしている」という水準が高すぎて泣きそうです。

 

少なくとも私個人にとって、雨の日は意識的に(それも非常に強く)「しよう」と思わなければエンジョイできない日であって、そんな日はもう憂鬱に身を任せてガーガー喚いていた方がよっぽど楽なので、わざわざ「エンジョイする方法」を考えたりなどしないのである。が、たまには普段の自分のポリシーとは異なることを考えるのも必要なので、気乗りしないが考えてみる次第である。

 はてなからのお題、確か「雨の日をエンジョイする方法」的なやつ、を書こうとして、イマイチしっくり来ず毎日頭と首をひねっているうちにお題が変わってしまったのでボツになった文章、その一部です。エンジョイ出来ないものを無理にエンジョイしようとするからガタが来るのです。

 

立てたラップの芯の穴にビー玉を入れると落ちる 

ニュートンにでもなりたかったのでしょうか。

 

時には文章を供養してやるのも良いものだ。などと言うと勝手に殺すなと文章たちから苦情が来そうである。こう……生きたまま(?)、成仏をお祈りする(?)みたいな……それに相応しい良い言葉ありませんか?

 

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 生まれる前に死んだ記事について書いた死んだ記事について書いた死んだ記事が生まれた

 ……という記事を、5日前に書いたというお話だったのさ。

 

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自由から逃げようとすることについての覚書|めちゃくちゃなことばかり言うんじゃありません

「考えなくてもいい生活」に憧れる

ここ数日、「考えなくてもいい生活」についてばかり考えている。「考えなくてもいい生活」がしたい。買い物ひとつするにも、遠いけど安いドラッグストアと、近いけどあんまり安くないスーパーと、もっと近くて高いけどお気に入りの商品が置いてあるコンビニと、どこにいこうかなと考えて、悩んで、うだうだゴロゴロして無為に時間を消耗してそれだけで疲れて、結局お金は大事だよってことでチベットスナギツネみたいな顔して蒸し暑い中遠くのドラッグストアへ汗まみれになりながら出掛けていくのである。アヘ汗。

後悔の大安売り

考えなくてもいい生活とはすなわち、己には選択の余地が無い(少ない)生活であって、その文面だけではそこに幸福や安楽が存在するとは思い難いのであるが、私は自分のこれまでの生活から逆説的に在るとかたく信じている。毎日の生活の中で、心地良いとされる方を選択して結果的に心地良かったことがあっただろうか。疲労に負けていっときの堕落を貪っては後悔し、睡魔に負けていっときの惰眠を貪っては後悔し、食欲に負けていっときの嗜好品を貪っては後悔し、物欲に負けていっときの奢侈品を貪っては後悔し……はて、心地良い選択肢とは何だったのか。心地良い選択肢は心地良いものではなかったのか?心地良い選択肢にいつも苦しめられている。一の快楽と引き換えに万の後悔を得られるチケットが手元に溢れるほどある。使っても使っても使っても使っても無くならない。

追いかけても捕まらないくせして逃げても逃げても追いかけてくる

 自由を与えられすぎる生活に向いてない人、そこそこ居ると思う。時間、持ち物、食事、金銭、そうした生活面にある程度の規則がないと上手くやっていけない人。拘束されたいわけではない。命令されたいわけでもない。でも自由は自由であるが故に却って苦しい。それならば自分でルールを作ってしまえばいい。ところが自分で自分に課したルールというものは、どうしてあんなに味気ないのか。自由を律するためのルールのくせして、守るのも自由、破るのも自由。こんなところにまで自由が追いかけてくる。だから自由はたくさんだって言ってるだろ!

あーもうめちゃくちゃだよ

一般的に良いとされているものを毒と見做して敬遠し、良くないとされているものを薬と見做して崇めるようになる際の、その切り替わりのスイッチは一体どこにあるのだろう。自由は毒。拘束は薬。一見アベコベに思われるようなことについて真面目に考えられるということは、結局現状がめちゃくちゃ恵まれているということだ。恵まれていなかったら、そんな余計なことを考える余地すらあるまい。恵まれているから、望まない暮らしとか、持たない生活とか、そういうことを考える余地があるのだ。なんだ、結局恵まれているのか、安心した……ならばどうしてこんなに苦しいんだろう。

ごはんですよはごはんじゃないですよ

 自分に枷を嵌めて制限するにしろ、自由を謳歌してやりたい放題やるにしろ、必要になってくるのは決定する意志と貫徹する意志だ。決めよう。今決めよう。2019年下半期に入って、いいタイミングじゃないか。考える前に部屋をひっくり返してドッタンバッタン片付けて、すっきりした部屋の中心で思索しよう。余計な選択肢を排除する。「時々してもいい」とか「たまにならやってもいい」とか、もうそういうのは全部切り捨てて、白か黒か、はっきりさせる。あらゆる物事に。ごはんはごはん、ごはんですよごはんですよ。ごはんにごはんですよを乗せて食べるのはとても美味しいけれど、そうやって白いごはんと黒いごはんですよを混ぜて灰色にして(※)自分を甘やかすのはもうたくさんだ。何を言ってるんだ?

※ごはんとごはんですよを混ぜても灰色にはならない

自分、不器用ですから

ところで、時々枷を嵌めたり、時々枷を外して自由を謳歌したり、それでは駄目なのか。駄目なのだろう私の場合。性根はぐうたらの癖にふらふらするのが嫌いな完璧主義という潔いほどの矛盾っぷりで、自由と拘束を上手いこと行ったり来たり出来るほど、器用ではないのである。

 

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思考の詰まりとその解消法についての覚書|高粘度ジェルで不安も悩みもスッキリ解決とはいかないので

8時間寝たら帰ってきた

死んでいた。もうなんか、とにかく、なにもかも、私を動かす何もかも、大元の動力さえ稼働停止に陥って、掃除どころではなく、洗濯どころではなく、部屋の片付けどころではなく、読書どころではなく、ましてブログ更新どころでもなく、数日は留守にする心持ちであった……のだが、電気を消して8時間ぐっすり寝たら再稼働した。昨晩私は日付が変わる前にきちんと記事を投稿したので継続日数は守られていますいいね?

Twitterという思考の洗浄ノズル

生身の人間相手に思考を吐き出すことが叶わない場合、定期的にそれを文章に起こして排出しなければ、すぐに詰まりを起こして思考パイプが破裂してしまうと思っているのだけど、どうなのだろう。それを考えれば、Twitterは思考パイプが詰まりがちな人間にとっての救世主だったと言っても過言ではあるまい。思考に限らず、何気ない感情ひとつにしてみてもそうだ。自室で宙に向かって「つかれた」と言うのと、Twitterで全世界に向かって「つかれた」と言うのでは、スケールが圧倒的に違うのだ。全世界に向かって発信している。全世界に向かって「つかれた」と主張する権利が自分にはある。これまで自室の壁や床や天井に飲み込まれてそれで終いだったはずの言葉が、全世界に向かって羽ばたいている。Twitterはよいものだ。自分のタイムラインが、ひたすら自分にとってよいものだけで構成されているうちは!

梅雨時の汚い川みたいな

世間で「気にしすぎ」「考えすぎ」「心配性」などと呼ばれるタイプの人間は、この思考パイプが元々狭いか、これまでの人生で溜まった思考の汚れがパイプの内側にびっしりこびり付いて、スムーズな排出を阻害しているのだろう。一定時間思考を流し続けていると、所々にある濾過フィルターで思考の余計な部分が濾されていき、人によって所要時間に差はあるものの「まあ、これでいっか」「なんとかなるか」「考えていても仕方がないか」「ええいままよ」などという結論に落ち着くものである。そういった結論に落ち着いてくれないと困る。人間の頭の容量は無限ではない。そして人生とは目まぐるしいので、結論が出ないうちにまた心配事が増える。待ってましたとばかりにダムから放水が始まる。この水は汚水である。狭いパイプの中を水が押し合いへし合い、健康な人間にはきちんと備わっている濾過フィルターをぶっ壊しながら進み、濾過されない汚水は汚水のまま延々と思考パイプの中を走り抜けて、朝が来て夜が来てまた朝が来て夜が来てまたまた朝が来てまたまた夜が来て……発狂エンドを迎えたら、そこでゲームオーバーである。

思考の詰まりを予防する4つのステップ(こう書くとそれっぽい)

思考が詰まらないようにするためには、「分岐ノズルを付けて外部に放出する」「思考パイプの内側の汚れを落とす」「濾過フィルターを増やす」「思考パイプを補強拡張する」などの処置が必要になる。

1番目の「分岐ノズルを付けて外部に放出する」というのは、他人に相談したりSNSで吐き出すなどして予め流れる思考の体積を削っておくことである。なんやかんやでこの初期対処こそが最も肝心だったりする。インターネットが発達した今では手段も沢山あることだし、軽く出来るものは軽くしておこう。

2番目の「思考パイプの内側の汚れを落とす」には、パイプユニッシュでもパイプマンでもパイプハイターでもいいけれど、とにかく過去のモヤモヤを可能な限り迅速に精算してしまうこと。そのために自分は今何を気にしているのか、ということをしっかり把握する。紙に書き出すのが1番よかろう。これの何が大変かというと、そうやって洗い出した悩みの1つ1つを改めて思考パイプに流していかねばならないからである。思考の詰まりを解決するのに、ともすれば詰まりの原因にもなる思考を更に流さなければならないのだ。詰まりが加速しそう。下手すれば今よりも詰まりが悪化するかもしれない。むしろその可能性の方が大だ。でもやらなければならない。精神分析だったか、なんかトラウマ治療にそういうのがあったはず。自分1人では到底間に合わないほど重篤な汚れなら、プロに依頼するのが吉である。もちろん水道管業者ではなく、医者やカウンセラーに依頼しよう。暮らし安心と銘打った業者も、思考パイプの内側の汚れとなると専門外だろうから。

3番目の「濾過フィルターを増やす」。同等の悩みでも10分悩んで「●●にしよう」とか「まあいっか!」と結論付けられる人と、1週間悩んでもまだ悩み足りない人との違いは、このフィルターの量と質にあると思う。フィルターの正体は「これは大丈夫」「これもなんとかなる」という根拠のない確信……という言い方ではあんまりなのでもっと良い言葉に置き換えるならば、「無条件の肯定」。それが自分の中にあるかどうか。よく「自己肯定感」とか言われるアレと同一のものと見て差し支えなかろう。自分の能力を過度に低く見積もっているから、そこから様々なものが飛び出してしまうのだ。その飛び出したものが、悩みの枝葉となって更に自分を押しつぶしてしまうのだ。まあ、自分の能力を過度に高く見積もるのも、それはそれでよくないけども。1つの悩みが延々拡大して行き場を失うのは、ある悩みに対して「もしXXだったら」「もしそこからYYになったら」「さらにZZが起こったりでもしたら」と、発生するかも分からないイフの枝を次々に生やしていくことが原因であって、思考の詰まりを予防するにはそういった枝を生やさない、つまり悩みに悩みを生やさない努力が必要だろう。ある日、何か気がかりになることが発生したが、終わってみたら結局なんともなかった。そういった経験をしたら、すかさずメモに残しておこう。日常で「結局なんともなかった」という事例は案外多い。そうした経験を自分の中にきちんと保存出来ない人が、日々思考の詰まりに苦しむのである。

4番目の「思考パイプを補強拡張する」は……ここまで来るとメンタル強度の問題になる。補強拡張工事をしたい人は、それに相応しい自己啓発本を見つけ実践してください。大量のタスクを1人で冷静に捌ける人や、何やら重大で深遠な問題について毎日毎日延々考えていてもケロッとしている人は、思考パイプがめちゃくちゃ頑丈な人と見てよいだろう。前者の人は思考パイプがパイプというよりも片側4車線道路のようになっていて、次々やってくる思考をハイあなたはここ、ハイあなたはここ、と自動的に適切な車線に振り分ける作業を無意識に行っている。すげー。聖徳太子は片側10車線道路の持ち主だったのでしょう。後者は哲学者です。以上。

見つけてほしいよ私のやる気スイッチ

冒頭で「8時間ぐっすり寝たら再稼働した」と書いたが、厳密には少し違う。「8時間ぐっすり寝て起きたもののその後しばらくは『うええなんもできねえよお』と寝っ転がっていたがトイレ行ってコーヒー飲んでブログの管理画面を開いたら再稼働した」である。私のやる気スイッチは、トイレか、コーヒーか、ブログの管理画面にあるというわけだ。さて、どこだろうな。

 

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雑誌を妄想してみた件についての覚書|結局石油王になるしかねえんだわ

やわらか精神に雑誌が突き刺さる

雑誌を買わなくなって久しい。雑誌というものは大抵、「よき人」「よきモノ」「よき動物」「よき懐事情」「よき暮らし」「よき仕事」「よき習慣」などを載せている。それらの「よきもの」を見るのが辛くて、買わなくなった……ということは以前からちょくちょく記事中に書いている。「よきもの」に乏しい雑誌なんて、大した需要もなかろう。とはいえ、元々雑誌中毒者だ。大学時代は色んな分野の雑誌を月に5冊とか6冊とか買っていた。中学や高校時代にも少ない小遣いからファッション誌を複数冊購入していた。小学生の頃は今は無き『科学と学習』や『小学●年生』を定期購読していた。幼稚園の頃も、付録付きの雑誌をしょっちゅう買ってもらっていたと思う。年季の入った雑誌ジャンキーと言えよう。

 最近改めて思う。雑誌が読みたい。けれど自分よりキラキラしている人や、自分には到底手に届かないモノや暮らし、自分には成し遂げられないバリバリの習慣など、あんまり見たくはない。我儘な奴だ。通勤中に考える。今の私が読みたい雑誌って、一体なんだろう。

 

たぶんこんなのが読みたい

●月刊『命が危うい』

本誌のターゲット層。睡眠時間が毎日4時間を切っている。休日が無い。ストレスがヤバい。甘いお菓子や激辛食品が止められない。カフェインが無いと生きていけない。栄養ドリンクに依存している。エナジードリンク中毒である。3食カロリーメイト。時々胸が痛い。胃も痛い。帰宅即気絶。でもまあいっか。確実に寿命を縮めているけれどそんなに気にしてない人たちに向けた、月刊『命が危うい』。

内容は何だろうな。少なくとも命を危うくしないための記事ではなかろう。むしろ「35歳である日ポックリ絶命する方法」とか「寿命を縮める食品はこれだ」とか「編集部おすすめ!寿命の縮まる最恐アトラクション」とか「確実に呪いを持ち帰れる心霊スポット」とか……酷いアンダーグラウンドだ。ちなみに労働をしたことのある人間の99%が150年以内に死亡しています。労働は恐ろしいですね。

 

●季刊『表紙マガジン』

タイトルそのまま、エモい表紙の本をひたすら紹介したマガジン。流石に本の表紙を見てダメージを受けたり本の表紙を自分の人生と比較するほど弱ってはいない。軽率に表紙買いをしてしまうタイプなので、たまらん表紙のものをどんどん紹介して欲しい。積ん読本が増えること請け合い。読書家の有名人が紹介する「わたしのおすすめ」みたいなコンテンツは要らない。ただいい感じの表紙の本をズラッと並べてくれるだけでいい。

大分前に、「表紙買い過激派でかつ内容にもかなりこだわりのある自分の好みに合う文芸書はなかなか見つからない」といった旨のことを書いた気がするのだが、先月末にブックオフに行ったところ、あった。3冊も。しかも全て108円~216円棚の中から、ものの10分程度で見つかった。世の中本当「ある時はあるし無い時は無い」。これに尽きる。無い時にいくら探しても無いものは無いが、ある時に探せばポロポロポロポロ出てくる。それで、それがこの3冊。

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左の本は完全にタイトルが飛んでしまっているが、須藤元気氏の『神はテーブルクロス』。白、白+黒、黒でいい感じに揃った。ちなみに現在は右の『パピヨン』を読んでいる。めちゃくちゃ面白い。語彙力がないので書評は「めちゃくちゃ面白い」くらいしか出来ないのだが、とにかく良い作品。読み終わったらまた何か書くかもしれない。「めちゃくちゃ面白かった」とか。

 

●月刊『そのへんの石』

編集部が撮影したり、読者から送られてくる「そのへんの石」の写真を掲載する雑誌。8割が「そのへんの石」の写真で埋め尽くされており、残りは「そのへんの石」に関する小説やエッセイ、「そのへんの石」についての雑学、「そのへんの石」の撮影テク、「そのへんの石」占い、石材や墓石の広告など。

私は子供の頃とにかく石が好きで、親にねだって結構本格的な鉱物図鑑を買ってもらい、休日には少し遠出して父親と一緒に山の中で鉱物採集をしたりしていた。キレイな宝石よりも、花崗岩玄武岩安山岩、そういう岩の方に興味があった。自治体か何かが主催している歴史系フィールドワークにも参加して、黒曜石を掘ったり、化石を掘ったりもしていた。その影響で一時期妙に恐竜に凝っており、博物館にも行った。それも小学生中学年までで、高学年になると「女なのにこんなことして恥ずかしい」みたいな躊躇いが生まれ、鉱物採集も恐竜研究もぱったりやらなくなった。とはいえ高学年になってももうひとつの趣味であるデュエルマスターズは続けてたし、とにかくそういう少年のような子供時代を送ったのである。それらの趣味趣向は将来に持ち越され、大学では地面を掘ることと関係のある分野……のすぐお隣さんの分野を専攻したし、何故か20歳近くなって遊戯王にドハマりした。魂百。

 

●週刊『顔がいい』

「よき人」を見たくないのではなかったのか?と言われそうだが、顔のよき人のよき顔はよきと思う。取り敢えず顔だけ見せてくれ。文章を一切省いた芸能雑誌みたいなものか。それってただの写真集では。

 

文芸誌というものを買ってみたい

マイナーな、というと失礼だが、街中の大きなTSUTAYAくらいでしか見かけない雑誌の類は本当にそそる。文学ムック『たべるのがおそい』とか特に最高だ、いつか買ってみよう……と思っていたのだが今年の4月で終刊したらしい。

www.tabeoso.jp

 あとは……「MONKEY」とか。

www.tomutomu-corp.com

「いつか買う」は危険。

しかしこれほどのインターネット時代、小説だって随筆だってコラムだって幾らかはお金を出さずに読めてしまう、しかも電子書籍というものすら存在する、そんな時代に大手出版社から発行されている以外の、いや大手出版社から発行されているものも含めて、文芸誌は生き残れるのだろうか。

magazine-k.jp

『たべるのがおそい』、めちゃくちゃ凄いことを成し遂げている。それだけにいっそう終刊が惜しい。バックナンバー購入するだけの価値はあるだろう。

大手出版社がいつまで文芸のパトロン(文芸誌は基本的に採算のとれない出版物である)でありつづけるかわからない以上、

 この部分がなんとなく突き刺さったので。文芸にはパトロンが必要。古来から芸術はパトロンを必要としている。絵画然り、音楽然り。かれども文芸は、絵画や音楽のように一瞬でパッと目を引く華々しいものではない。現代においても絵画や音楽の「バズりやすさ」と比較し、文芸におけるそれのなんと難しいことか。何よりもパトロンを必要としているが故に、そういったものと関係が依存しやすい。場合によってはパトロンの気分ひとつ……

 

懐かしのサークル募集

「理想の雑誌が無いから俺たちで作っちまえ」とばかりに作られた、同人感のある雑誌。実によきものである。それで思い出した。昔は同人を扱う雑誌上で文芸サークルやイラストサークルのメンバー募集がよく出ていたものだが、今はああいうものは無いのだろうか。ブログもあればTwitterもあり、Pixivもある時代に、作品を封筒に入れて主催に送り、主催がそれをまとめて定期的に会誌として発行する……なんてアナログなサークルが廃れていくのは必然の流れだろう。1度くらいどこかのサークルに籍を置いておけばよかったなと、それこそ10年以上前の、あったようななかったようなサークルメンバー募集のページを思い出して、今日もまた色々と思索に励むのである。

 

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