珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

自由から逃げようとすることについての覚書|めちゃくちゃなことばかり言うんじゃありません

「考えなくてもいい生活」に憧れる

ここ数日、「考えなくてもいい生活」についてばかり考えている。「考えなくてもいい生活」がしたい。買い物ひとつするにも、遠いけど安いドラッグストアと、近いけどあんまり安くないスーパーと、もっと近くて高いけどお気に入りの商品が置いてあるコンビニと、どこにいこうかなと考えて、悩んで、うだうだゴロゴロして無為に時間を消耗してそれだけで疲れて、結局お金は大事だよってことでチベットスナギツネみたいな顔して蒸し暑い中遠くのドラッグストアへ汗まみれになりながら出掛けていくのである。アヘ汗。

後悔の大安売り

考えなくてもいい生活とはすなわち、己には選択の余地が無い(少ない)生活であって、その文面だけではそこに幸福や安楽が存在するとは思い難いのであるが、私は自分のこれまでの生活から逆説的に在るとかたく信じている。毎日の生活の中で、心地良いとされる方を選択して結果的に心地良かったことがあっただろうか。疲労に負けていっときの堕落を貪っては後悔し、睡魔に負けていっときの惰眠を貪っては後悔し、食欲に負けていっときの嗜好品を貪っては後悔し、物欲に負けていっときの奢侈品を貪っては後悔し……はて、心地良い選択肢とは何だったのか。心地良い選択肢は心地良いものではなかったのか?心地良い選択肢にいつも苦しめられている。一の快楽と引き換えに万の後悔を得られるチケットが手元に溢れるほどある。使っても使っても使っても使っても無くならない。

追いかけても捕まらないくせして逃げても逃げても追いかけてくる

 自由を与えられすぎる生活に向いてない人、そこそこ居ると思う。時間、持ち物、食事、金銭、そうした生活面にある程度の規則がないと上手くやっていけない人。拘束されたいわけではない。命令されたいわけでもない。でも自由は自由であるが故に却って苦しい。それならば自分でルールを作ってしまえばいい。ところが自分で自分に課したルールというものは、どうしてあんなに味気ないのか。自由を律するためのルールのくせして、守るのも自由、破るのも自由。こんなところにまで自由が追いかけてくる。だから自由はたくさんだって言ってるだろ!

あーもうめちゃくちゃだよ

一般的に良いとされているものを毒と見做して敬遠し、良くないとされているものを薬と見做して崇めるようになる際の、その切り替わりのスイッチは一体どこにあるのだろう。自由は毒。拘束は薬。一見アベコベに思われるようなことについて真面目に考えられるということは、結局現状がめちゃくちゃ恵まれているということだ。恵まれていなかったら、そんな余計なことを考える余地すらあるまい。恵まれているから、望まない暮らしとか、持たない生活とか、そういうことを考える余地があるのだ。なんだ、結局恵まれているのか、安心した……ならばどうしてこんなに苦しいんだろう。

ごはんですよはごはんじゃないですよ

 自分に枷を嵌めて制限するにしろ、自由を謳歌してやりたい放題やるにしろ、必要になってくるのは決定する意志と貫徹する意志だ。決めよう。今決めよう。2019年下半期に入って、いいタイミングじゃないか。考える前に部屋をひっくり返してドッタンバッタン片付けて、すっきりした部屋の中心で思索しよう。余計な選択肢を排除する。「時々してもいい」とか「たまにならやってもいい」とか、もうそういうのは全部切り捨てて、白か黒か、はっきりさせる。あらゆる物事に。ごはんはごはん、ごはんですよごはんですよ。ごはんにごはんですよを乗せて食べるのはとても美味しいけれど、そうやって白いごはんと黒いごはんですよを混ぜて灰色にして(※)自分を甘やかすのはもうたくさんだ。何を言ってるんだ?

※ごはんとごはんですよを混ぜても灰色にはならない

自分、不器用ですから

ところで、時々枷を嵌めたり、時々枷を外して自由を謳歌したり、それでは駄目なのか。駄目なのだろう私の場合。性根はぐうたらの癖にふらふらするのが嫌いな完璧主義という潔いほどの矛盾っぷりで、自由と拘束を上手いこと行ったり来たり出来るほど、器用ではないのである。

 

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