珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

暗い人間による「暗い人間」についての覚書|最近の事例と自身の経験を基に

人手不足だって言ってるだろ!

うちで雇われて間もない深夜の新人が「暗い」ということを理由に受付に立たせて貰えなくなるかもしれない。ホゲーッ。誰か1人が倒れたら深夜の営業そのものが成り立たなくなるようなカツカツの状態でエライ人は一体何を言っているのだろう。とはいえ接客業で「暗い」のは致命的欠点であることは理解している。こうなったら私が意地でも彼を育ててエライ人を見返してやるしかないじゃないか。彼はすこぶる真面目な男なのだ。貴重な貴重な深夜フルタイム枠なのだ。何が何でも、受付に立てる男に育ててやる。

……ところで、他人の明度を上げるのってどうすればいいんですか?

「暗い」と言われましても

仕事が遅い人にスピードアップを促したり、効率が悪い人に効率良く動くコツを教えてあげたり、そういう指導は大体イメージがつく。けれども「暗い」と言われたら……半分お手上げではないか。私とて、高校時代に国語教師から舌打ちと共に「あんた暗いねぇ」とクラス全員の前で言われたくらい筋金入りの根暗であるから「暗い」と言われる人の心情は手に取るように分かる。「暗い」キャラを返上しようとして大失敗した時のアレな気持ちも分かるし、陽キャが羨ましくて羨ましくて仕方がない気持ちも分かる。どうしてこんな根暗に生まれたんだろうと自分の性質を憎んで憎んで憎んだりもした。話し方の本とか読んでも(当たり前だが)さっぱり話せるようにならない。腹から声を出すやり方がさっぱり分からない。唇で息を吐くように細々と喋る癖が治らない。だからこそ、他人から見ても明らかに「暗い」と評されるような人に対して、いっちょお前の性格を明るくしてやろうなんて気軽に言えないのである。

「声が小さい」は心によく刺さる

暗い人間は光に敏感。どんなにオブラートに包んで包んで真っ白になるまで包み隠して「あなたちょっとどんよりしてるからもう少しハツラツとやろうよ」という旨をやんわり仄めかしたとて、パッと気づいてしまう。何重にも包まれた柔らかな言葉の中にも、言葉の向こうにある冷ややかな臭いを即座に嗅ぎつけてしまうのだ。私は彼に「もう少しハキハキと声を出そう」と言えるだろうか?高校時代、体育祭の団別パフォーマンス練習で、全校生徒の1/3の前で1人だけ立たされてリーダーから「お前だけ声が出てねえんだよ!!」と説教食らったことのあるレベルで根暗の私が?彼に「声が小さいよ」と言えるだろうか?これは私が人のことを言える立場ではないとかそういう話じゃなくて、言う前から彼の反応が目に浮かぶから言えないという話である。ウウッ。部活でもなしに約200人が見ている前で怖い先輩にただ1人説教されるなんて、プロの根暗にしか出来ない芸当だろう。そんな私に何が出来るというのだ。ところでお前200人の前で説教されたことある?私はあるけど?えっお前ないの?マジ?200人の前で名前も知らない先輩に説教されたことないの?

老婆心です

話を戻す。指摘する勇気が持てないのなら、せめて見方を変える所から。「暗い」という欠点をポジティブに捉えるならば「落ち着いている」、だろうか。だからこう、「あなたのその落ち着きは良いね!」とか「パニックにならないのは素晴らしい!」という風に褒めてやる。……はて、これは私の領分なのだろうか。育成だなんだと下手にやる気を出さず、エライ人の言うとおり彼のことはすっぱり裏方に回してしまって、受付に立てるような人が応募しに来るのを待つ方が得策ではないか。これではあまりにも、無責任だろうか?受付に立てるような人、応募しに来ないかなあ。時給は悪くないどころか良い方だろう。交通費も出る。求人の釣り文句も悪くない。実際、昼や夕方の応募はそこそこ来る。深夜にだけ来ない。今度『夜勤のすゝめ』みたいな記事を書こうかと思う。夜勤はいいぞ。毎日が動物園だ。

暗い私は暗いままで生きていたい

暗い人間が暗いまま生きていてもお咎めの無い世界へ行きたい。誰も彼もが「ありのままの自分」でうまいこと生きていけたらどんなに良かろう。人付き合いの才を持つ人間が裏で黙々とつまらない事務仕事をさせられたり、事務仕事の才を持つ人間が表でガヤガヤと虚しい人付き合いをさせられたりすることなく。表に居たい人間は表に、裏に居たい人間は裏に。しかし現実は誰も彼もがありのままの自分でうまいこと生きられるほどよく出来てはいない。下手に偽ったり、取り繕ったりしているうちに、自分が迷子になっていく。

隣人は仏様ではないのです

少し話は逸れるが、「自分はいっぱいいっぱいだから他の人のことを受け入れる余裕は全く無いけれど、ありのままの私のことは全て受け止めてほしい」という人。いる。そういうことは仏様にでもお願いして欲しい。我々凡夫にそんなこと要求しないで欲しい。なんだかんだで皆いっぱいいっぱいなのだ。私が左に一歩ずれて、あなたが右に一歩ずれて、それでカッチリ噛み合うなら、お互い一歩ずつ頑張ってみないか。私は動かないからあなたが二歩分動きなさいよってのはあんまりだし、それの逆も然り。そうやって一歩動けば、ありのままの自分は輪郭を失ってしまうかもしれない。けれどもありのままの自分は自分そのものなので、自分が死なない限りありのままの自分も死なないのである。あなたも私も死んでない。大丈夫。

暗い私は暗いままで生きられない

私は今のバイトを始めて随分表向きの性格が変わったと思うけれど、結局本性は暗いままだし、それがバイト中は身を潜めているだけに過ぎない。情緒もへったくれもないことを言うと、1人暮らしフリーターなので、ありのままの自分ではご飯を食べられなかった。元々、喋らなくていいならいくらでも喋らないでいられる性分だったので。そんなんじゃバイトも長続きしない。ご飯を食べるには自分が迷子になってでももう少しお喋りになる必要があった。だから少しだけ努力して少しだけ迷子になって少しだけお喋りになった。時々「ありのままの自分」と「少しだけお喋りになった自分」との乖離に苦しむことはあるけれど、まあ結果として良かったと思う。ご飯にありつけるわけだし。

暗くてもいいんだ本当は

私は彼を勝手に「自分の暗さに悩んでいる人」に仕立ててしまった節があるが、私がひとりで死ぬほど失礼な考えを展開しているだけで、もしかしたら彼はちっとも気にしてないかもしれない。それなら重畳、それがいちばん。

 

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お金時々テクノロジーについての覚書|今日も小銭を握り締めたまま

一般的な社会人のお金の使い方が気になります

嘗て、社会人は財布の中には常に「年齢×1000円」を入れておくべきだという教えがあったらしい。実際に言っている人は見たことない。私の学生時代にさえ既に古い考えであったものが、キャッシュレス時代に突入してからはもう完全に化石の教訓となっている。この考えを逆に取れば、財布の中身次第で年齢をコントロール出来るのではないか?私は毎日0.9歳~2歳程度の間を行き来している。まだギリギリ、哲学的な真理を掴めそうな年頃である。3歳になるともう厳しいだろう。哲学は青年の嗜みだが、答えを知っているのは赤んぼだけだ。しかしまあ、財布に3000円しか入っていないから3ちゃい!なんて笑いが取れたのも今は昔。人によっては本当に、どんなにいい歳した大人であっても、万一の場合の電車代数百円くらいを財布に突っ込んでおけば事足りるのだ。買い物しようと街まで出掛けたら財布を忘れたけどスマホケースに交通ICが入っていたので事なきを得た愉快なサザエさん。るーるるるっるー。

世間がペイペイ鳴いている

何かと話題のバーコード決済。全然分からない。キャッシュレスに関しては交通ICやnanacoくらいは分かるが、QUICPayとかiDとか……アーハン?といった感じ。今もQuickPayと打って何か違うなと思って調べたらQUICPayだったので恥かく寸前で焦って修正した。QUICPayを使ったことのない人間の9割はQuickPayだと思っているのではないだろうか。私は世の中にwi-fiというものが浸透し始めた辺りからハイテクを追えなくなってきている。今でもwi-fiはよく分かってない。フリーwi-fi飛んでるところで繋がったら儲け、くらいに思っている。でも今のところデータ量に困ったこと無いんですよね。

人間vsハイテクのチキチキレース

「無くても困らない」と考え始めるところから、時代に追いつけなくなるのだなあとしみじみ思う。キャッシュレスキャッシュレスというけれどキャッシュはまだまだ現役だし、公共交通機関を日頃利用しないならクレジットカードが1枚あれば十分だし、バーコードだか何だか知らないけれど、お金を払う行為1つにそんなたくさんの選択肢が必要なのかね……なんて、アップデートを諦めてしまった人間の言葉そのものだ。中高生の頃は自動更新であった。大学生から現在にかけては手動更新だ。そしてゆくゆくは……更新拒否。再通知は150年後くらいでお願いします。

「無くても困らない」がそれと同じくらい「有っても困らない」。ただただ最先端を突っ走るテクノロジーに走って追いつく体力と、テクノロジーを捕食する食気が無いだけで。少しばかり歳を重ねて理解した。時代に追いつくには十分な体力が要る。流行を吸収するには丈夫な胃袋が要る。こちとらもう走れもしないし、食えもしないのだ。脚は細り、胃も小さくなって、慣れ親しんだものしか受け付けなくなった。

時代からの落伍というと聞こえが悪いが、自分の脚と胃袋のためを思って棄権した、と思えば止むなしである。問題は、自ら棄権したくせに救護テントという安全圏の中からガチャガチャとレースに口出しする人間がいること。或いは自ら救護車に乗り込んだくせに、先頭集団に追いつけ追い越せと喚く人間がいること。安全圏に居ればなんだって言える。私はもう左半身落伍しているから、今のうちに口を閉ざす練習をしておこうと思う。右半身はまだテクノロジーに興味津々で手足をバタバタさせている。真ん中からブチンと千切れそうだ。

ポイントカードは作らない派

私の財布の中には現金が無いのもそうだが、カード類も最低限しか入っていない。健康保険証、個人番号カード、クレジットカード、銀行とゆうちょのキャッシュカード、形だけ持っているバイト先のポイントカード。合計6枚。電子マネーは入ってないし、ポイントカードも実質持ってないようなものだ。あとついでに、診察券も無い。出先で倒れて搬送されたら、その病院の診察券を貰えたりするのかな?その日が来るまで作らないだろう。多分。搬送記念の診察券もその後使わないだろう。多分。

 

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特に意味のない頑張りについての覚書|自分の頑張りに値打ちが付くうちに頑張っておきなさいよ

頑張っているか、頑張っていないか

自分が頑張っているとは思わないが、最近では頑張っていないとも思わない。他人から「頑張っているね」と言われたらピャッとして否定するだろうし、「頑張っていないね」と言われたらムッとして否定するだろう。人の性質や行為は「頑張っている」「頑張っていない」に二分出来るのか否か。「頑張っている」と「頑張っていない」の中間には何かあるのだろう。そんな疑問を抱いて考え込む時点で、自分は「頑張っている」と「頑張っていない」の中間を知らないのだと分かる。世の中には「ほどほど」という言葉があるのだ。何事もほどほどに……ええと、ほどほどに「頑張っている」のですか?ほどほどに「頑張っていない」のですか?――だめだこりゃ。

どれくらいやれば/やらなければほどほどなのか

「ほどほど」を知らないくせに、両端のどちらかに属しているわけでもないと云う。私の性質や行為は一体どこに消えたのだろう。虚数空間に吸い込まれでもしたのだろうか。「頑張っているか。」「ノー」「頑張っていないのか。」「ノー」「ではほどほどにやれているのだね、よかったよかった。」「……???」そんなやり取りが先程から頭の中でぐるぐるしている。ほどほどにやる、ってなんなんだろう。世の中の特に飛び出てもいないけれど引っ込んでもいない大多数の人たちは、みんなほどほどにやっているのかな。全ての物事をほどほどにやっているからほどほどになっているのかな。頑張り事項と頑張らない事項を足して2で割った結果がほどほどになっているのかな。こういう訳の分からない疑問を訳の分からないままにしておくのもほどほどということなのだろうか。じゃあ、私はほどほどにしておきます。

やることメモに振り回されながら

ここらで唐突に自分を評価するような物言いをすれば、バイト中あれもこれも気付きすぎてしまってやるべきことが次から次へと勝手に積み上がっていくのだけれど、気のせいだろうか。忘れっぽいのでその都度メモを取っているのだが、気づけば5つとか6つとか溜まっていて、気づかないフリをすればそこで上がりなのだけれど、そうもいかず……5人や6人が1つずつ気づいて1つずつやってくれたらいいのになあ、などという都合のいい期待を適当に追っ払って今日も1人でゴソゴソやっている。以前も言った私のポリシー。誰かがやらねば誰もやらないことは誰かがやらねば誰もやらぬのである。

5000兆頑張りポイントほしい

 冒頭で自分は頑張っているとは思わないと言ったが、少し訂正。多分、こういった細かい部分では頑張っているのだろう。細かい部分では。あれがないこれがない、じゃあ用意しなきゃ、あれが壊れているこれが壊れている、じゃあ修理しなきゃ、あれが置きっぱなしこれが置きっぱなし、じゃあ片付けなきゃ、あれとあれとあれについて改善要望を出して……と。自宅でも細かい部分は頑張っている。片付けとか、読書とか、ブログ更新だってそう。でもやっぱり私を総合的に評価したら、そんな小数点未満の上乗せなんて何の効き目にもならなくて、頑張っている人間の仲間入りは出来ないのだ。ただどこにでもいる限界フリーターのうちの1人でしかなく、そういう人間がどんなに細かい部分であくせくしたところで、「あらあら今まで頑張ってこなかったんですね」という評価以上のものは得られないだろう。今まで頑張ってこなかった負債が大きすぎて、現状可能な頑張りでは返済しきれない。今のバイト先で頑張ったらもらえる頑張りポイントは最大5だが、今まで頑張らなかった負債は5000兆くらいあって、最大5の頑張りポイントが何の足しになろうか、というところである。もし私が今から海外に飛んで見知らぬ土地で貧しい人のためにボランティアをやり始めたら、頑張りポイントは1万くらいもらえるかもしれない。それでも、「あらあら今まで頑張ってこなかった人間がなんか急に頑張ってますね」以上のものにはならないだろう。1万の頑張りポイントが何の足しになろうか。負債は減らない。

今日も不器用に突っ走ったり言い訳したりしている

 頑張っているつもりが実際はただただ1人で突っ走っているだけな気がして、時々妙に恥ずかしくなる。頑張っていないつもりが実際は頑張ってみたけど成果が出ていないことへの言い訳を並べているだけな気がして、時々妙に情けなくなる。とはいえどうせ返せない負債なのだ。今まで頑張ってこなかった人間というラベルの端を爪でカリカリしたところで剥がれはしなのだ。開き直ってほどほどにやっていこう。

ところで結局ほどほどって……ほどほどって、如何程。

 

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手のかからないものたちについての覚書|疲労が溜まると抽象的になりがち

時間はいつから流れているの

時間とはよく出来たものである。私がわざわざ手を加えて流してやらなくても、勝手に流れていくのだから。いつも気づいたら夜になっていて、夜が流れて朝に替わり、朝が流れて昼に替わり、昼が流れてまた夜に替わる。私が手を加えなくても。トイレの水もレバーさえ捻れば勝手に流れるし、そうめん流しも茹でた麺を高い位置に置いてさえやれば勝手に流れていくのだが、時間にはそうやってレバーを捻ったり麺を置くような手間すら必要ないのだ。すげー。どんどん流れていく。

手のかからないいい子たちです

忙しない現代において、手のかからないものは良いものだ。前述のとおり時間は手を加えずとも流れていくし、空間だってそうだ。我々がわざわざ手を加えなくともそこにある。宇宙……は空間と実質同義だが、まあ宇宙も別枠で手がかからないということにしておこう。存在や概念も本来は手がかからない、我々には手の加えようのないものだと思うのだが、紀元前、哲学者にとっつかまって以降、あれこれこねくり回されている可哀想な奴らである。神様は……一方では手のかけようがこれっぽっちもなかったり、一方ではめちゃくちゃ手がかかったりするその二面性において、結果的にめちゃくちゃ手がかかっているのである。創造主を創造したのは誰であるか?これ以上はいけない。

よく分からない物事に思いを馳せる

手のかかるものは疲れる。具体的なものも疲れる。現実なんてまさに「手のかかる、具体的なものの集まり」なのだから、くたびれ果てるのも道理である。それらと格闘することに疲れたら、手のかからない抽象的なものについて考えてみると、なんとなく落ち着く。時間。空間。それ。あれ。これ。「抽象的なもの」という抽象的なもの。哲学は、私のようなアホには手のかけようのない品なので、却って安心しながら読んでいる。何回読んでも理解出来ないということは、理解出来るまで何回でも読めることなのでおトク。時間や空間の始まりや繋ぎ目や終わりに思いを馳せる。時間や空間の始まりや繋ぎ目や終わりってなんだ?分かりません。それが手のかからない抽象的なものだということ以外分かりません。

「いい子」

ところで現代社会における「手のかからない子」に付与されるあの物悲しいイメージは一体何なのだろう。「手のかからない子」はすなわち「いい子」で、「いい子」とはよいものではなかったのか。「手のかからない子」と言われた時、キビキビシャキシャキ動けて、自分の面倒はきちんと自分で見て、親や先生の言うことに「ハイ!」と大きな声で返事を出来るハツラツとした将来有望な子供、という想像を出来る人が一体何人いるだろう。控えめで、物静かで、大人の言うことは何でも聞いて、揉め事とは無縁の、どこか抑圧されたような子供ばかり想像してしまう。「手のかからない子」のイメージは昔からそうだったのだろうか。それとも、現代になってから?むしろ前者はエリート層における「手のかからない子」、後者は一般層における「手のかからない子」という感じだろうか。子供とはてんで無縁なもので、わからん。

頭と体の輪郭が崩れていく

近頃自分のブログ記事の内容まで抽象的になって来ているのを薄々感じている。低気圧の影響をモロに食らうタイプのためか、とにかく頭が回らないので、抽象的なことしか言えなくなっている。頭も回らないし体も回らない。以前はどんなに忙しくても必死に動き回って「お゛わ゛り゛ま゛し゛た゛」と一応言えていたのだが、なんか気づいたら退勤時間でアレェ!?となることが増えてきている。頭が回らなくてブログ記事が抽象的になるくらいならまだしも、体が回らなくて仕事が終わらないのは相当マズい。私の体も、勝手に流れていってくれないかな。手のかからない抽象的な奴らみたいに。

 

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自分を手放す行為もしくはヤケクソな生き方についての覚書|自意識という病

「生きやすい」という不思議な心地

おお……人ってこんなに生きやすくていいのか。そう思えるくらいここ最近急に生きやすくなった。落ち込んでないし、怒ってないし、責めてないし、疲れてないし、悩んでない。気分がとてもサッパリしていて、口は軽やかで、脳内はとてもクリアだ。もしかするとほんの一時的な、あんまり考えたくないがいわゆる躁状態的なアレかもしれないが、幸いにも気分が良い理由が判明しているので、またオチそうになったときの救済策としてここに記しておく次第である。

自分に焦点を当てないこと

脳内がクリア、と書いたがつまりそれは思考が絡まっていないということだ。考えることが減ったということだ。とはいえ仕事中は仕事のことをめちゃくちゃ考えているし、ブログのネタについても日々めちゃくちゃ考えているし、先日から突然閉まらなくなった冷蔵庫のドアについても頭を抱えながらめちゃくちゃ考えている。誰か助けてください。

では何を考えることが減ったのか。単純に、自分自身について考えることが減ったのである。意図して減らしたわけではなく、ある日突然フッと減った。不思議な感覚だ。もしかしたら無意識のうちにヤケになったのかもしれない。それでも気分がとても軽い。ヨッコラショと意識して駒を進めなくとも自分の時間は勝手に進んでいくのだから、全自動双六になったつもりでゴールを目指せば良いのではないか。

自分自身について考えすぎないこと。ライフハックっぽく言い換えるなら、自分にフォーカスしないこと。以下、ラクに生きたいのならフォーカスするべきではない点についてぼんやり考えた結果。

 

1.過去の自分の発言や行動にフォーカスしない

過去の自分が何を言って、どういった行動をしたか。そういう記憶が頭の中を延々ループしてしまう人は一定数いるらしい。恥ずかしい、情けない、申し訳ない、みっともない……のような、負の感情の中でも特別タチの悪い「みじめ」というカテゴリーに属するものが自分の中でぎゅうぎゅうのパンパンに膨らんでいくあの感覚は、何度味わっても慣れるものではない。こういった物言いは好きではないのだが、変えられない過去について悩んで負の感情にどっぷり浸っているのはあまりにも生産性がなさすぎる。反省しなくていい部分はしなくていい。反省するエネルギーは、本当に反省する必要がある場面まで取っておこう。

2.自分の価値にフォーカスしない

複数名がいる場で自分に話が回ってきたとしよう。その場にいる全員の視線が自分に集まっている。自分の発言を周りが待っている。その期待(実際は特に何も期待していなくとも)の重さがそのまま自分という意識の重さになり、自分の意識も自分にどんどん集中するという負の連鎖で、自意識は重量を増しどんどん地面にめり込み、目の前が真っ白になって……めり込んだ地点がそのまま自分の墓場になる。

集団の中にいるとフリーズしてしまう人の場合、意識的にしろ無意識的にしろ、「これだけの人数の中で何かを行為する権利が自分にはあるのか?」「これだけの人間に干渉する/されるだけの価値が自分にはあるのか?」という問いかけが常に自分の中を巡っているのだ。「集団」そのものに対してでも「集団の中の他人」に対してでもなく、「集団の中の自分」にばかり目が向いている。大海の中に割り箸を突っ込んでチョチョイとかき回すような、たったそれだけの行為を恐れている。あなたは海面に突っ込まれた1本の割り箸である。混ぜる真似事をしてみたり、刺す真似事をしてみたり、割り箸は割り箸らしいことをすればいい。海はその程度で溢れたりしない。

3.自分の将来にフォーカスしない

明日のことを今思い悩むのはやめよう。聖書にもそう書いてある。未来の景色は誰にも分からないけれど、かといって無機質に塗り潰されたブラックではなく、よーく目を凝らせば何かが見えそうな深いグレーをしている。暗順応と呼ばれるアレに似ている。だから皆どうにかこうにか目を凝らして深いグレーの中から何かを見出そうとしている。とはいえ将来について何も考えずに生きられる人間はそうそういるまい。将来のことを考える行為を手放せる人間はある意味幸福だ。ヤケクソになれる人間はある意味幸福だ(というヤケクソ)。見えぬ将来のことを思い悩まずに生きられるのは、諦めた者の特権だと思う。未来の選択という煩わしい行為を捨ててベルトコンベアのような一本道で生きられるのは、持たざる者の特権だと思う。転がり落ちた人間は強い。

 

 以上、ぼんやりとした分析である。自分にフォーカスしない方法論については……またいつか考えるかもしれないし、考えないかもしれない。

心の声が正しいとは限らない

よく「自分の心の声を聴く」とかいうけれど、正直言ってそんなん素人が滅多にやるもんじゃないと思う。人によっては間違いなくドブ沼に落ちる。現在進行形で気が滅入っている人は、少なくとも「ライフハックブログに載っていたから」なんて軽い気持ちでやるべきではない。気が滅入っている状態における心の声などリビングデッドの呼び声に等しい。メンタル好調で、現実に大きな悩みは今のところ特に無し。そういった好条件の元で更に一歩先へ進みたい人だけがやるべきだ。自分の心の声が綺麗事を言ってきたらうるせえバカで突き放す。汚いことを言ってきてもうるせえバカで突き放す。

自分を手放す。これ最強。

 

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