珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

気の利かない真面目な人たちについての覚書|全員まとめてかんぴょうで縛ってグツグツ煮込んでやりたい

それは本当に自分の非となり得るか

他人に対して怒りや苛立ちを覚えるのは、その相手に対して自分が期待しすぎていることが原因だ……とか、他人に不満を覚える時は、自分自身の内に至らぬ点があるからだ……とか。そういう「人の振り見て我が振り直せ」論について何パーセント同意出来るかと問われたら、そうですね。現時点では3パーセントくらいは同意できると思います。

私の期待しすぎなのだろうか

これまでの人生、運の良いことに、「身内」と呼ばれるような人たちに対して怒りや苛立ちや不満を覚えることは殆どなかった。この場合の「身内」とは血の繋がった親族という意味ではなく、同級生とかバイト仲間とか、そういう意味での「身内」である。

しかし昼勤から夜勤にシフトしてからというものの、「身内」に対し青筋を立てる回数がヌ゛ゥワ゛ン゛と右肩上がりどころか真上に垂直急上昇し、その高低差で毎日毎日ゲロをぶちまけているのである。何もめちゃめちゃ効率よく動けとか、めちゃめちゃ気を利かせろとか言ってるのではない。ただ、ただ……「業者から届いた荷物はいつまでもダンボールのまま置きっぱなしにせずすぐに開封して倉庫にしまう」とか、「使った備品をあちこち出しっぱなしにしない」とか、「戸棚は片付ける」とか、「トイレ掃除をしたら清掃チェック表に名前を書く」とか、「商品には値札をつける」とか、「ミスをしたら報告する」とか、そういうことをやってほしくて、ただ、ただそういうことだけ……そういうことをやってほしいと思うことさえ、私は期待しすぎているのだろうか。

私が期待しすぎているんですか

届いた荷物がダンボールのまま客の目につく場所に数日放置されていることはザラだし、備品は目を離すとあっちこっち移動してるし、片付けても片付けても戸棚の中はぐちゃぐちゃになるし、何度名前を書けと言ってもトイレの清掃チェック表が空欄だらけだし、値札のない商品があっちにもこっちにも、そしてミスをしたらしたまま放置……これは、私の期待しすぎなのだろうか。同じ店で働く仲間に、お願いだから届いたダンボールは受け取ったらすぐ開けて中身を出してくれよと期待することは、期待しすぎなのだろうか。それは却って彼らに失礼だろう。彼らはダンボールの中身すら出せない人間だと認識していることになる。……実際、ダンボールの中身すら出せてないんですけど。

やっぱり私の期待しすぎですか

バイト先には、その日の連絡事項が書いてある連絡メモと、その日に限らず継続的に重要な連絡等を書き込む連絡ノートと、あとグループLINEがある。隙を生じぬ三段構えというわけだ。

改善して欲しいことがあれば、まずはメモに書く――効果なし。

次は連絡ノートに書く――効果なし。

最後はグループLINEでキレ散らかす――効果なし。

はてさて、隙を生じぬ三段構えとはなんだったのか。誰か真面目に教えて欲しい。メモに書いて、ノートに書いて、LINEでキレても「届いたダンボールはすぐに開けて、中身を出そうね」「トイレを掃除したら、掃除した人の名前を書こうね」ということすらしてくれない場合、一体どうすればいいのだろう。誰か本当に教えてくれませんか?

優秀な一名様、地獄へご案内

何十人か従業員がいて、こういったことに気がつくのはいつもひと握りの数名だ。ひと握りの数名が誰かが何日も放置していた段ボールを開けて中身を出し、ひと握りの数名が誰かが散らかした備品を片付け、ひと握りの数名が誰かが滅茶苦茶にした戸棚の中身を片付け、ひと握りの数名が名前を書かなかった誰かの代わりにトイレ清掃チェック表の空欄を埋め、ひと握りの数名が誰かが付け忘れた値札を付け、ひと握りの数名が誰かのミスの尻拭いをしている。気の利く人間ほど、常に苛々している。気が利けば利くほど、余計な仕事が自分に舞い込んでくるから。近頃、非常に温厚な大学生バイトのHさんがシフトに入る度にキレているらしい。それを聞いて、皆が縮み上がる。私も縮み上がる。それほど普段の彼女は温厚なのだ。平素は「おっとり」とか「ほんわか」と呼べるようなタイプだというのに、彼女を怒らせないでやってくれないだろうか。察するに、彼女もこちら側にきてしまったのだろう。「ひと握りの数名」という地獄に、足を踏み入れてしまったのだろう。

トイレ掃除したら名前を書けってもう百万回くらい言った

気がつく人間と気がつかない人間の違いはどこにあるのか。一つのことに取り組んでいても、次のことと次の次のことまで考えられる人間と、目の前のことしか考えられない人間の違いはどこにあるのか。同じように店内を一周してもらっても、「AとBとCを終わらせました、時間がなくてDまで回れなかったのであとで誰かお願いします。今日届いた備品は3階の倉庫に入れてます。そろそろEの点検もした方がいい時期だと思いますね」と報告してくれる従業員もいれば、全く同じ時間をかけて「トイレ掃除終わりました!」とだけ報告してくる従業員もいる。そしてもちろん……トイレ清掃チェック表に名前を書いてない。それの穴埋めしてるの、私。

真面目の持ち腐れ

これだけ書いたら恐らく、不真面目でチャラチャラしたバイトばかりの店だと思われるだろう。全く逆である。真面目な人しかいない。店長の方針で、見るからにチャラチャラした人は誰もいない。そういう人は最初から雇わない。この際なので愚痴りついでにガツンと言わせてもらおう。真面目だけど届いたダンボールすら開けられない、真面目だけど清掃チェック表に名前すら書けないのなら、彼らの真面目は、一体何のためにあるのだろうか?しばらく前に辞めてしまったが、事あるごとに「仕事ダルいっすね~」「休憩多く取りませんか?」と言ってくるサボりたがりの男の子がいた。しかし彼はすこぶる気の利く男で、仕事も早く、何もかもちゃっちゃと手際よく終わらせた上で「こっそり休みましょうよ、どうせバレませんって」とか言ってくるのである。気の利かない真面目と、気の利くサボりたがり、どちらがいいかと問われたら、私は後者を選ぶ。戻ってきてくれないかな、彼。

急募です

「よく気がつくこと」「よく気が利くこと」に自信のある方は、是非うちで働いてください。それしか自信がない人でも構いません。どの時間帯も人が足りていません。給料はいい方です。交通費出ます。昇進もあります。短時間の学生バイトでもあっさり時給アップしてもらえます。社割あります。シフトの自由度はかなり高いです。アクセスも良いです。誰か私たちを助けてください。

 

f:id:shirokuro_044:20190722120936p:plain

早朝5時に客とバトルした件についてのほんの些細な覚書|気が強くなきゃやってられない

目を逸らすな

先日、「マナー違反で強制退店となった客が正論でこちらの痛いところを突いてくるのに反論してご納得頂きその場を丸く収める」という珍しい経験をしたのでここに綴っておく次第である。

 

まずマナー違反客について。

1.マナー違反が目に余ったので店舗規則に基づき強制退店を促した

2.元々違反について1度大目に見ておりその上で違反したため退店は譲れなかった

3.周囲の客からその客に関して2度クレームが来た

 

違反客から言われたこと1つ目。「この店ではクレームを付けたもの勝ちなのか」。つまりクレーム内容が事実か事実ではないかに関わらず、クレーム対象とされた客は店を追い出されるのかということ。勿論そのようなことはないため、「そのようなことはございません。従業員が必ず事実確認をした上で、認められた場合にのみ注意のお声掛けをしております」と返答。納得頂く。

違反客から言われたこと2つ目。「じゃあ自分のような客はこの店を利用するなということか」。詳細は割愛するが、こちらにもどうしても入れたくない客というものがある。その手の客は高確率でトラブルの原因になったりこちらの頭痛の種になったりする。はいそうです利用しないでくださいと言いたいのは山々だが、当然言えるはずもないので「そのようなことはございません。代わりにXXやYYというプランをご用意しております。そちらをお選び頂ければお客様もまた他のお客様もお互い安心してご利用頂けるかと思います」と代替案を提示。

この前後にもお互い色々言っていた気がするがあまり覚えていない。この間、互いに目を合わせて一切逸らさない。睨み合う客と私。両者一歩も譲らず。沈黙。その後、相手が「分かりました、今度また来ます」と素直に代金を精算し、私が金を受け取りながらひたすら「申し訳ございません、ありがとうございます、申し訳ございません」を繰り返し後ろ姿を見送るまで、激しい睨み合いは続いたのであった。

 

 今回学んだ5つの大切なこと

1.厄介客とバトルになったら絶対に目を逸らさないこと(多分1番効く)

2.厄介客に正論で負けそうになっても口ごもらないこと

3.厄介客といえど申し訳ないという気持ちを伝えるため表情や口調をオーバーに作ること

4.厄介客ごときに負けてたまるかという強固な意思を持つこと

5.厄介客に対する日頃の恨みや憎しみをエネルギーに変えること

 

全国の限界労働者同志諸君、今日も厄介客に負けず頑張りましょう。

 

f:id:shirokuro_044:20190722135117p:plain

未だ生まれぬ書評についての覚書|感情で読むか、理性で読むか

書評記事が書けねえ件について

熱心に本を読むようになってから、結構な頻度でヨッシャ書評記事を書くぞと何度も何度も記事作成ページを開くのだけれど……書けぬ。これがとんと書けぬ。本を読んで、感動して、この心に渦巻く感動を文章で表現しようとして……書けぬ。手始めに何から書けばいいのかさっぱり分からぬ。あらすじ?全体のまとめ?イヤイヤ私は「感動」が書きたいのだ。「要約」を書きたいのではなく。しかし読み手に理解して貰うには最低限の内容説明が必要不可欠だ。そのためにもう一度本を手に取り、大まかな内容を記すためにパラパラとページを捲って、第一章はこうで、第二章は……ええいだから私は「感動」が書きたいのだ!「要約」を書きたいわけではないのだ!自由に書けないのなら書評なんてやめてやる!ウワーッ!

……となり、毎回挫折するのである。

感想があまりにも「感情」なので上手く説明できないんですよ

この傾向を冷静に分析するに、自分は感情で本を読んでいるのだと思う。よい本を読んだ直後に、他人から「どういう本だった?」と聞かれても、うまく説明できない。よかった。どこがどうって……よかったんだよ。とにかく。とにかくよくて、グワーッと心にきて、よさみが。そうよさみがすごい。よさみがすごい本だったんだよ。その本が心に刺されば刺さるほど、「本当に読んだのか?」と怪しまれてもおかしくないレベルで語彙力が低下してしまい、それ故に一層他人に伝えられなくなる。人間、よいモノに出くわしたら人に伝えて回りたくなる習性があるものだ。しかし語彙力の低下によりそれも叶わず、自分の中で発散できない感動がぽんぽこ膨れ上がり、感情的になればなるだけ、更に語彙力も低下する。やがて、他人に伝えるのが面倒になる。私がよかったと言ったらよかったんだ。詳しく知りたけりゃ私の心を読んでみな。つまるところ、感情で本を読み、それを内側に溜め込んでいくタイプ。一方で時間が経つにつれて荒ぶっていた心が若干静けさを取り戻し、感動をきちんとした言葉で他人に伝えたくて堪らなくなる人は、感情で本を読み、それを外側に発散していくタイプとでも呼ぼうか。

読書と同時進行で分析まで出来る人はすごい

 感情で本を読む人間がいるのなら、理性で本を読む人間もいるだろう。卒論発表会で、手元に配られたレジュメに書き込みをしながら他人の発表をふんふんと黙って聞いているようなイメージだ。すげー!とかほえー!とかわかるー!って気持ちが表に出てくる前に、「はて、以前読んだ本と内容が違うぞ」「何故作者はこのような考えに至ったのか」「この記述は前半のあの部分と矛盾するのではないか?」などと黙々考えながら読むタイプ。心に響くかどうかも大事だが、理に適っているかどうかの方が大事。一般的に見て、(多分)かしこい。

動的なエネルギーと静的なエネルギー

感情で本を読むと、動的なエネルギーが得られる。本に習って自分もいっちょやってみるかとか、本を読んでいたら何かをしなければならない気がしたとか、今なら何かやれそうな気がするとか。手足を動かすことに繋がっている。理性で本を読むと、静的なエネルギーが得られる。なるほど世の中こういうことがあるのだなとか、なるほどこういう場面ではこうするべきなのだなとか、来たる事象に備える静かな知恵。知見。智慧。いつか来る出来事に対して、自分の中に選択肢を増やしておくこと。知識とは選択肢。

私はもう少し理性で読むべきです

私の書き方が悪いせいで、感情で読むタイプはなんだか頭がとんでもなく悪そうに見えてくるし、理性で読むタイプは逆にめちゃめちゃ賢そうに見える。そのイメージはあながち間違いでもないかもしれないが、どちらが良いとか悪いとかではなく、ただ自分の性分にあった読書法を選べば良いと思う。自己啓発を目指すなら、両方のバランスが必要だろう。「ウオオ!すごい!よき!元気出た!モチベ上がる!」という感情的な刺激と、「なるほどですね、勉強になりました」という理性的な刺激。どちらに偏っていてもいい成長は出来ないのではなかろうか。

読書は娯楽であること。読書は教養であること。両方忘れずにいたいものである。

 

f:id:shirokuro_044:20190721115405p:plain

命についての覚書|たまには目を開いて現実を見る

「繊細」は最も縁遠い言葉です

自分はもっとガサツで図太い人間だと思っていた。スプラッタ映画を見ながらドロドロのトマトジュース片手に鉄板でジュージューと肉を焼けるような人間だと思っていた。ショッキングなものを見てもホエーッとか言いながら普通にメシが食える人間だと思っていた。昨日だか、一昨日だか、その辺りからずっとについて考えている。

人間、新しい顔よ

やはり頭と体は物理的に別々であるべきなのでは。「体は木っ端微塵になりましたが頭部は綺麗に残っており本人の意識もはっきりしているため、新しい体の用意が急がれます」「頭部は完全に破損していますが体は綺麗に残っており心臓自体はきちんと動いているため、新しい頭部の用意が急務です」みたいな。脳みそと、心臓。超超大事な器官は上と下に1つずつあるのだから、生き残るチャンスもその分あって良いのではないか。でも……でも、人間がそれくらい強くても、勝てないものはいっぱいある。片方が生きているうちにダメになったもう片方を用意する金が無いという貧乏。貧乏には勝てない。片方はちゃんと生きているのに、そのことを誰にも気づいてもらえない孤独。孤独には勝てない。運悪く頭と体が全く同時にダメになってしまうという不幸。不幸には勝てない。頭も体もどちらも生かしておくものかという強烈な意志。強烈な意志にも勝てない。そして……轟々と襲い来る……にも勝てないんだろうなあ。勝てなかったんだろう。

無才はただ消え去るのみ

誰かと誰かを比べて「どちらか1人しか助けられないのなら才能のある、優秀な方を」と考えてしまうのは、本当は良くないんだろうけど、ねえ。どうしてもそういう合理的な勘定が頭をよぎるのは仕方がないと思う。学も才も無いフリーターの私と将来有望な甲子園球児が崖にぶら下がっていてどちらか1人しか助けられないのなら、将来有望な甲子園球児の方を助けて欲しいし、実際多くの人はそちらを選択するだろう。私と東大生なら東大生を、私と人気モデルなら人気モデルを、私と人間国宝なら、そりゃ人間国宝を選んで欲しいし、選ぶべきだ。でも、しがないフリーターの私と、私以上のダメ人間(仮)がぶら下がっていたら……私は、「そいつより私のほうが使えます!私の方を助けてください!」と叫んでしまうのだろうか。ぞっとするなあ。

コモンカードを何千枚集めてもブルーアイズとは交換出来ない

リアルで残酷なことは言いたくないけれど、非現実的で綺麗すぎることも言いたくないのだ。ボンクラを1000人集めて縄で縛ってあの世の門の前まで引きずって「すみません、先程こちらに才能のある若者が来たと思うんですけど、どうかこいつらと交換してやってくれませんか」と頭を下げに行きたい気分だ。もちろん、私が縛られて引きずられる側でも良い。交渉の結果はまあ、お断りされるんだろう。渋々縄を解いてやれば、彼らは蜘蛛の子を散らしたように逃げていく。この世も非合理的だが、あの世も非合理的だ。現実においては結局、命に上下や軽重や貴賎があることなんて、みんな分かっている。分かっているけれど、そんな恐ろしいこと口に出来やしないから。

 

こんな具合で、昨日だか、一昨日だか、その辺りからずっとについて考えている。

 

f:id:shirokuro_044:20190720144631p:plain

それでも生きていることについての覚書|今日も生きてるんだよなあ

みんな違ってみんなすげえ

世の中には才能のある人たちがうじゃうじゃごろごろいる……ように見える。たった30人そこらのクラスメイトの中にも「XXくんすげえ」「YYちゃんすげえ」と持て囃されるような人たちが何人もいて、皆それぞれ違う才能を持っている。サッカーが上手い人、野球が上手い人、バスケが上手い人、テニスが上手い人、水泳が上手い人、歌が上手い人、楽器が上手い人、書道が上手い人……絵が上手い人。とはいえクラスメイトの「すげえ」なんてのは「自分がよく知らないことをやっててすげえ」「恐らく自分には出来ないであろうことを出来ててすげえ」くらいの意味合いで、実際にやってみたらお前すげえなと言っている本人の方が、言われている相手よりもすげえ場合だってあるかもしれない。それでも今この瞬間は、相手の方がすげえわけだ。「すごーい」「すごいですね」はお世辞でも言えるけど、「すげえ」は素がポロリした、って感じがして信頼出来る。お前すげえな。これではあまりに品が無い?それは失礼。お嬢様言葉で言います。お前すげえですわ!

探し物 探しに行けない

私にも、丁寧に育てていれば開花した筈の才能があったのだろうか。それは神のみぞ――いや、神と、親と、先生のみぞ知る。ちょっとくらいはあったかもしれない。人よりは少なかったかもしれないけれど、小さい頃好きだったアレやソレ、学生の頃熱中したアレやソレ、もしかしたら。今でも時々、とうの昔に落ちた蕾へ思いを馳せることがある。「白黒さんすげえ」とか「れむちゃんすげえ」って言われたこと、無くも無いと思うけれど……忘れた。置き忘れた。才能の全てを過去に置いてきた。どんな海賊にも探せないところに。あっ私のHNの名字は「はぐろ」って読みます。「しろくろ」じゃないです。この記事で1番大事なことです。ここさえ読んでくれたらもうブラウザバックしていいです。

手札アドなんてなかった

人間はその時手札に持っているカードで勝負しなければいけない。ルールを無視して勝手にサイドデッキから1枚引っ張り出してきてこれが俺のオベリスクだワハハハハとやるわけにはいかないのである。もう手札を捨てすぎて出せるカードが無い。出せるカードが無くたって死なない限り生きられてしまうのは、こればかりはどうしようもないな。自分には何が出来るのかな。何も出来ないけどただ生きているな。何も出来ない自分はただ生きているけれど、何でも出来る人が死んだりするのは本当に理不尽だ。生きてるだけで丸儲け、という言葉がある。この言葉に対しては、「ほんとになあ」という気持ち半分、「ぶっ飛ばすぞ」という気持ち半分。あっ失礼。ぶっ飛ばしますわぞ。

すげえ。生きてる

こうやってのらりくらり生きていると実感しづらいが、現実にはどんな些細な物事にも必ず「出来る」と「出来ない」が付いて回る。スマホで文字を打つこと。服を畳むこと。カップラーメンを作ること。ジュースを注ぐこと。ひらがなを読むこと。足し算をすること。丸を描くこと。手足を動かすこと。まばたきをすること。息を吸うこと。息を吐くこと。生きること。空に向かって耳を澄ませばきっと沢山の声が聞こえてくるだろう。「お前、生きててすげえよ」。そうなのか。私は生きててすげえのか。でもお前もすげえよ。だって生きてたから。空に向かって返してやろう。「お前も、生きてたのすげえよ」。すげえのはお互い様。へへ。

 

f:id:shirokuro_044:20190719130813j:plain