珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

トイレの壁についての覚書|かべ【壁 wall】建物の内と外を区画したり,建物内部の空間を区画するために鉛直またはそれに近い角度で設けられる構築物(『世界大百科事典』)

トイレの女神でも助走つけて殴るレベル

焦燥がすごい。常に何かに追い立てられているような……とにかく四六時中落ち着きがなく、理由のない焦りに付き纏われ、一歩歩けば息も絶え絶え、一周回って笑いが出るほど……これ絶対憑かれてると思うんですよね。そういう時は決まって座る場所が欲しくなる。座りたくて座りたくて気が狂いそうになる。どこかに座らなければ。座らなければ死んでしまう。やっとの思いでバイト先のトイレに駆け込み便座に座る。なんだか世界が歪んで見える。トイレの個室の壁がめちゃくちゃ斜めに見える。ドアから遠い側の壁の方が少し手前に来ているように見える。トイレの壁が斜めに見えるなんてもう私はおしまいだ。きっちり平行に設置されているはずのトイレの仕切り壁が斜めに見えるなんて。そう斜めに……斜めに見える・・・……いやいや斜めだよこれ。うちの店の女性トイレの仕切り斜めだよこれ。私の視界が歪んでいるわけではなく、斜めだよこれ!トイレの個室が台形なんて聞いたことないぞ!今まで全然気付かなかった!なんてこった!トイレの壁が斜めだ!

壁は何を言われても気にしないんでしょうけど

トイレの床に目を向ける。床の模様に注意しつつ、床と壁の境目をなぞるように視線を動かせば、もうどう考えたってその壁は斜めである。並行ではなく斜めに設置されたトイレの仕切り壁を前に、私は無力であった。この壁が斜めであることに気づいた人間は私以外にほぼいないだろう。まさかトイレの個室が長方形ではなく台形になっているなどと思うまい。しかしその事実に気づいたからといって、私に何が出来ようか。そう、私は無力であった。無力な私を前に、斜めの壁は勝ち誇るように佇んでいた。なんでそんなに偉そうなんだよ。斜めになってるくせに。まっすぐ立っている方がずっと偉いんだ。お前なんかちっとも偉くない。たまたま業者が気付かなかっただけで、もし気付かれていたらお前なんか一発で修正されるんだからな。しかし今となっては、仕切り壁が数センチズレていたという理由でいちいち業者を呼んで工事したりなんかしない。壁は許されたのだ。壁は存在を許された。出る杭は打たれ、斜めった壁は直されるこの世の中で、イレギュラーとして存在することが許された。まっすぐ立っているお利口さん共の間でただ1枚、毅然とした態度で斜めに立っている壁。ああもう分かった分かった。お前がナンバーワンで、オンリーワンだ。

(物理)

はみ出し者と呼ばれるほどアウトローでもなく、個性派と呼ばれるほどの個性もなく、不遇な人間と呼ばれるほどの哀れみの要素もなく、落ちこぼれと呼ばれるほどおバカでもなく、無難と呼ばれるほど難が無いわけでもなく、つまるところどんな肩書きも似合わない。同調か反抗か、さもなくば死のような世の中を生きるのに中途半端は1番やりにくい。半端者が最も損をする。まあ徹底的にいい子でいるのは面白いように思えないので、出来ることなら斜に構えて、それでいて動じない心が欲しいものだ。あの壁はまさに「斜に構えて、それでいて動じない」お手本のような存在である。実際すげー斜めってるし、動かしようがない。

 

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精神の貴族についての覚書|精神を裕福にしようと試みて泥沼に陥っている人間の戯言

精神の貴族始めました

というのは、ヴォルテールは、彼にならって書いたすべての連中と違って、なによりもまず精神の貴族であり、わたしもまさしくそれにほかならないからである。

ニーチェ『この人を見よ』

精神の貴族。いい言葉だ。肉体的に、物理的に貧しいことはさしたる問題ではない。精神が貧しいことこそが問題なのである。今生ではどう頑張っても肉体の貴族にはなれそうにないので、精神の貴族を目指そうと思う。裕福な精神の持ち主たれ。精神の貴族たるもの、どんな時でも余裕を持って優雅たれ。ところで裕福な精神って何だろう。自分で自分は今まさに精神の貴族なのだと思えたなら、その時点でもう精神の貴族である。ここでニーチェが言っている「精神の貴族」と私が字面から勝手に想像している「精神の貴族」は恐らく全くの別物だが、とりあえず私はこれから精神の貴族を目指そうと思う。さて、精神の貴族たり得るには一体何が必要だろうか。頭の中に思いついたことを適当にタイピングしていこう。

楽天カードEdyが付いてることを最近知った貴族

1つ目は「不動の心」である。これは武術家が山篭りの末に手に入れた岩メンタルとかそういうアレではない。高い位置に根を張って転がり落ちない心、もっと正確に言えば転がり落ちる不安を知らぬ心である。私は転がり落ちる不安を知らない。だって精神の貴族だから。外野からストレスの塊をぶつけられたとて、それをストレスと認識しない。認識できない。認識できないからストレスの塊は私の体を通り抜けていく。塊がぶつかることもなく、故にぶつかった衝撃で私が転がり落ちることもない。ストレスに弱い大抵の人は、転がり落ちるほどの衝撃によって転がり落ちる前に、転がり落ちるかもしれないという不安によって自ら勝手に転がり落ちるのである。しかしここで私は精神の貴族なので、転がり落ちる不安を知らない。貴族はコンビニでカードをかざしながら「あっEdyの残高足りるかな……」などといちいち不安に思わない。だって貴族なのだから、Edyの残高は無限に入っている。残高不足で間抜けなエラー音が響く心配などこれっぽっちもする必要がないのだ!流石貴族だぜ。ちなみに現実のEdyのチャージ上限は5万円。

労働中の怒り憎しみがその日中ずっと頭から離れない貴族

2つ目は「哀れみの心」である。この哀れみを慈しみと混同してはいけない。マザー・テレサの如き「慈しみの心」ではなく、あくまで貴族的な「哀れみの心」である。だって私は精神の慈母ではなく貴族であらねばならぬのだから。慈しみと兄弟であるように見えて実は全く赤の他人であるところの哀れみである。別に私はリアル貴族のやんごとなき一族方が慈しみの備わらない哀れみの心しか持ち合わせていないなどとはわりと思っている 少し思っている そんなに思ってない全く思っていないが、貴族的な哀れみ――「まあお気の毒……」、冷たさを伴わぬ冷ややかさという不思議な感情、生ぬるい金属の表面のようなツルリとした哀れみを、持たねばならぬのだ。平民諸君、哀れな子羊たち。私はいつでも諸君へ哀れみの眼差しを向ける準備は出来ている。我々に余計なストレス試練を与えるために神が天より面白半分で放り投げた遣わし給うたクソ客子羊たちを、私は哀れみの眼差しで迎えよう。私は横暴な羊飼いではなく貴族なのだから、子羊に向かって唾を吐きかけたりはしない。ただ目を伏せて静かに一言呟くだけだ。「まあお気の毒……」

このゴミ袋クソ重たいですわとか言わない貴族

3つ目は「お嬢様の心」である。貴族は貴族でも私はお嬢様である。お嬢様なので当然カワイイし、我儘も許してもらえるし、大抵のことは自分の望むままになるし、箸より重いものは持ったことがない……箸より重い感情も持ち上げられない。不愉快な感情は非常に重たいので、お嬢様には持ち上げることが出来ないのである。だから即座に捨てる。不愉快な感情はパッとその場に落として、それでおしまい。持ち上がらないものを持ち上げようとしなくていいし、ましてやゴミ箱にわざわざ捨てに行かなくてもいい。お嬢様は自らゴミを抱えてえっちらおっちら歩くことなんてしない。あとは紅茶とケーキが勝手に運ばれてくるのを澄ました顔で待っていればいい。足元に積み上がった排泄物同様の感情のことも気にしなくていい。そのためにハイヒールが生まれたのだから。

要領のいい平民に嫉妬して中指を立てる貴族

というわけで以上が行き当たりばったり思いつきのとんちんかんで考えた精神の貴族になるための方法。最後の方は完全に飽きてしまっているのがよくお分かり頂けるかと思う。ところで世の中には驚くべきことに、上記の精神の貴族になるための方法を、家庭教師もつけず、訓練も積まず、平民のままで、貴族並に、いや貴族以上にうまくやっている人間が大勢いるらしい。はーやってらんねえや。違うな。やってらんねえですわ。

 

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愛しのカフェインについての覚書|たまには思索しない記事も書いていこうね

トップバリュになら抱かれてもいい

たまにはリアルな記事でも書こうと思う。先日寄ったマックスバリュでえらいモノを見つけた。常に過酷な睡魔と闘う夜勤限界フリーターの頭に電流走る。いや……カフェイン走る。

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こういうのを待ってたんだよ!!!!!!

ゼリータイプのエナジー飲料。私はエナジードリンクジャンキーかつ、ゼリードリンクが好きで好きで一時期そればかり食していた時期もあったくらいの人間なので、もう、誠に……誠にありがとう。それしか言う言葉がみつからない。そのカフェイン量なんと175mg。モンエナ355ml缶のカフェイン量が140mgと言えばその凄さがお分かり頂けると思う。お値段は1本あたりわずか138円。安い、安すぎる。モンエナは1本200円くらいするのに。圧倒的カフェインコストパフォーマンス。店舗にて速攻まとめ買いしたが、ネットスーパーだと箱で買えるので月が変わり次第そちらで買おうと思う。

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一緒に写っているのはタブレットタイプのエナジー飲料(?)。ああ、もう……待ってた。こういうのも待ってた。読書人間の必須栄養素たるぶどう糖を80%も配合し、カフェインにアルギニンにクエン酸まで……言うことなし。読書のお供に。価格は158円。安い。90g入りでこの値段は普通のラムネとして考えても安い。ありがとう。ありがとう。トップバリュに足向けて寝られねえよ。

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勿論、普通の炭酸タイプのエナジードリンクもある。こちらなんと1本あたりのカフェイン量が怒涛の195mg。すげえ。すげえよ。しかも最近シュガーフリーの低カロリータイプも出た。一生トップバリュに着いて行く。

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ちなみにカフェインコストパフォーマンスで言えば、マツキヨのPBのエナジードリンクもおすすめ。種類が色々あるし、デザインもなんとなくオシャレ。私は基本的にエナジードリンクはカロリーゼロのものしか買わないので、右の黄色い缶しか飲んだことがない。

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私の身体は今日もボドボド

カフェインの過剰摂取が身体に悪いのは知っている。が、悪くなって惜しい身体ではないのである。悲しいかな。単純労働のためだけに動いている身体である。ストレスを溜めるためだけに動いている身体である。申し訳程度の睡眠のためだけに動いている身体である。こんなストレスの貯金箱さっさと割ってしまえという気持ちでいっぱいだ。ストレスが酷すぎて砂が指の間から溢れるように独り言が出る。口を縫い合わせてついでに鼻も縫い合わせてそのままお陀仏したい。労働中は常にカフェインとニコチンのことを考えている。以前は赤マルを吸っていたが今はJPSマルボロ高えよと思い始めてなんとなくJPSに切り替えたがこれが大当たりであった。うめえ。うまくてパッケージもオシャレで値段もそこそこで言うことなし。介護保険料を支払う前にポックリ逝けたらいいのになあ。これからどんどん若さを失っていく私はどうなるのだろう。ブログには精神というかふわふわしたことばかり書いていたが、リアルでは肉々しいことも考えている。楽しいこと。安息。安息。安息。私の安息は一体どこにあるのだ。

コーヒー淹れて、考えることにしよう。

 

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選択の海に溺れることについての覚書|過ぎたるは及ばざるが如し

現代人の臓腑に張り巡らされたネット回線

最近スマートフォンでやることが無くなりつつある。というよりも、インターネットでやることが無くなりつつある。いや違うな、インターネットでやれることが多すぎて今やることを選べなくなりつつある。手持ち無沙汰でスマホをを握ったはいいものの……私は一体この端末を用いて……何をすれば良いのだろう。ニュースサイトやまとめサイトをぼんやり眺めているだけで腹一杯どころか胸焼けがする。広大という言葉で片付けるにはあまりにも広大なインターネットの中から、私は私が快適であるために一体何を選べば良いのか。バイキングやビュッフェが楽しいのは自分の選択能力の範囲内で選択できるからであって、己の選択能力を遥かに超えた選択肢は却って苦痛をもたらすのである。30種類のケーキの中から好きなものを選ぶのは楽しいが、100万種類のケーキの中から好きなものを選ぶのは苦痛でしかなかろう。近頃の私とインターネットの関係は、神経質な人間と散らかった部屋の関係に似ている。一刻も早くここから出て行かねばならぬ気もするし、逆に踏み入って片付けねばならぬ気もする。それでも……それでもやっぱり、インターネットのことは嫌いになれない。我々は既に人類規模で「インターネットを嫌いになれない呪い」に罹っている。あなたがあなたの心臓のことを死ぬほど嫌っていたとしても、あなたはあなたの心臓をその場で放棄する訳にはいかないように。

はっけよい参った

 優柔不断は自身からも他人からも敬遠されがちな特性だ。自分が決められないのも辛いし、決められない人間を見ているのも辛い。私は合理主義で保守的な優柔不断という特にタチの悪いタイプであるので、とにかく選択能力が低い。今から手元にあるスマートフォンを用いて、消費する時間に見合うだけの有益なもの、それも極力刺激が少なく不快感を被らない安心なもの、それでいて気分転換になるもの、を獲得したい……一体どこに行けばいいんだろう。インターネットの仕事は24時間365日、我々の選択能力を遥かに超えた選択肢を提示し続けることである。果ての見えない広い広い海の水の1滴1滴が選択肢である。近頃よく本を読むようになったのは、「選択肢が多すぎて降参」のサイン。我々は常に選択を迫られている。あなたが今このブログを読んでいる(ありがとう!)のは、何らかの選択の結果たどり着いたからであって、何らかの選択次第では一生訪れることは無かっただろう。ここに限らず、またインターネットにも限らず、ありとあらゆるものとの出会い。人はこれをロマンチックに運命とか一期一会とか呼ぶのかもしれない。一方で必然と呼ぶ人もいるかもしれない。私はこれを選択と呼ぼう。恋人との選択の出会い。人間ただ生まれて、ただ生きて、ただ死ぬだけでも眩暈がするほど選択をしなければならないというのに、パソコン、あるいはスマートフォンと呼ばれるこの画面の向こうには、一体いくつ、一体いくつの選択肢があるんだ?何をしよう、何を見よう、どこへ行こう……ぐるぐるぐるぐる……

選択肢は下水道にでも流してしまえ

 抽象的で感覚的で主観的でとっ散らかってて収集つかなくなるのは当ブログではいつものことだが、散らかしついでにもう少し散らかしておきたい。何故近頃インターネットをぷらぷらすることに関心を失いつつあるのか。1つは前述の通り選択肢が多すぎてどこで何をすりゃいいか分からないから。選択に疲れてしまったから。それとは別にもう1つあって、実に単純、自分の頭の中であれこれ考えるのにハマっていてその行為にインターネットは全く必要ないからである。最近のトレンド、自分の頭の中であれこれ考えること。趣味としてはコスパ最強。時々本など読み、その後自分の頭の中であれこれ考えることを楽しんでいるうちは、インターネットも無用の長物というわけだ。おせっかい焼きのインターネットが横から提示してくる選択肢を全てなぎ払い、自分の殻に篭って思索に耽る。この素晴らしい特権を持っているのはかつての貴族か暇人くらいである。右手があれば彼女なんかいなくてもいいからね。しょうがないね。

「いっちょここらで死んどくか」

人生は流しそうめんのように流れているように見えて、無数の、それこそ無数の選択エネルギーに突き動かされている。例えば、私は今この瞬間に「ブログを書くことを止めて死を選ぶ」という行為を取ることだって出来る。やらないけど。さて直前の句点を打ち終わった、今この瞬間にも選択肢はある。今も。今も。今も、私は「ブログを書くことを止めて死を選ぶ」ことが出来るのだ。そして、今も。今も。今も。

 

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過思考と過認識についての覚書|人類が背負う不治の病

考える人

アーッ何も考えたくない。自分を不快にさせる何かについて考えたくないとかそういうことではなく、ただただ思考を回したくない。そんな時は結構ある。筋金入りの悲観主義者であるからして、思考を回せば出るわ出るわ過去現在未来の淀み。皆様は子供の頃に「何も考えない」ごっこをしたことはないだろうか。ルールは簡単、ただいっせーので皆同時に「何も考えない」ようにすれば良いのである。ところがこの遊び、意図的に頭を真っ白に出来るのはせいぜい最初の2、3秒程度であって、その後は延々「何も考えない」ということを考えている。何も考えない。何も考えない。私は何も考えないし考えてない。何も考えてないったら!わー!わー!「何も考えない」でいることが人として実に難しい点からも分かる通り、考える力というものは非常に強大だ。我々の臓器が我々の命令なしで働くのと同様に、我々の純粋な認識を絶え間なく阻害してくる。何かを見て「あっ何かだ」と考えた時点で純粋な認識は我々から遥か遠い地点まで逃げおおせている。まして「あっ丸い」とか「あっ赤い」とか考えてしまった時点で純粋な認識は既に地球の裏側にいるのである。

マゾヒズムってそういうこと

余計なことばかり考えてしまう人間に適切な処方箋は何か。別の苦痛である。これは私の無根拠な持論なのだが、苦痛を快楽で打ち消そうとするならば、快楽を苦痛の倍量を一定期間絶えず与えられることが必要だが、別の苦痛を用意してやればそれはごく少量で済む。苦痛を打ち消すのに別の苦痛はコスパが良いのだ。冒頭に戻るが、余計なことを考えたくないのであれば風邪か何か引いてしまえばいい。風邪を引いて、「ああ頭が痛いなあ」「ああ鼻水が止まらないなあ」「ああ咳が出るなあ」と考えておけば、身体的な苦痛と相まって余計な思考を回す余力が無くなるだろう。虫歯が痛む時についつい頬の内側を噛んでしまうのと同じようなものだ。頬を噛む痛みが虫歯の痛みを誤魔化してくれる。私は先日、敢えて睡眠不足で出勤してみた。眠くて眠くてもう眠いことしか考えられない。仕事中にイライラするリソースすら無い。睡魔に襲われるのはひたすら辛かったが、ストレスの量は格段に少なかった。痛みを痛みで誤魔化さなければやってられないのである。

お父さん、お父さん!認識がぼくをつかんでくるよ!

考えすぎて疲れるというのはそういったことが日常的に無い人間からすれば実に馬鹿馬鹿しい限りであろうが、当人からすればかなり深刻な問題だ。この考えすぎて疲れる問題、更に重症化すると「認識しすぎて疲れる」にまで発展する。私は1ヶ月程前にこの認識しすぎて疲れる症候群に襲われて死にかけていた。どのような症状かというと、ただ見慣れた道を歩いているだけであらゆるモノからあらゆる認識が勝手に頭に入り込んできて脳内を荒らし回るのだ。もっと具体的に言おう。例えばいつもの道を歩いていて、いつものポストがあった。それは何ら変哲もないただのポストであり、ポスト以上でも以下でもない。にも関わらず、「赤い」「四角い」「投函」「手紙」「はがき」「郵便局」といった当たり前の認識が次から次へとなだれ込んで、頭の中が忙しくなる。私の頭の中は「ポストですよ!!!赤い!!!真っ赤!!!形は四角で足がある!!!足はちょっと細いよ!!!口が2つありますね!!!手紙を入れたりはがきを入れたりします!!!切手が必要!!!郵便局の人が回収に来ます!!!」という当たり前の認識でいっぱいになる。分かった。ポストが赤くて四角いのは分かったから落ち着いて欲しい。もう私の頭の中は満杯なのだ。これがポストのみならず電柱を見ても植え込みを見ても自動販売機を見ても自転車を見ても通行人を見ても起こるのである。電柱は長い、植え込みは植物、自動販売機は飲み物を売る、自転車はトロトロと進んでいる、通行人は黒い服。ふええもう認識が入らないよお。この現象をそれっぽく過認識とでも呼ぼうか。ここまで来ると歩いているだけで気が狂いそうになる。口から認識を吐き出してしまいたい。オエッ。

思考と認識は現代人にとって猛毒である

これら「考えすぎ症候群(過思考)」「認識しすぎ症候群(過認識)」、要は内側からオーバーヒートしているか、外側からオーバーヒートしているかの違いしかない。どちらも頭の中が要らないモノでいっぱいになっているわけだが、前者は要らないモノが自分の内から無限に湧き出してくる現象で、後者は自分の外から無限に入ってくる現象。身の回りを物質をいくら断捨離したとて、思考と認識の断捨離が出来なければ生きやすさなんて永久にやってこない。生きやすい人とは、恐らく思考と認識の断捨離が上手い人のことを指すのだろう。思考と認識は毒だ。モノと情報が氾濫している現代においては更に猛毒だ。しかし私は「思索のための思索」などという大それた文言を副題に掲げ、今日もいらん思考といらん認識に振り回されながら文章をひり出している。猛毒に散々苦しみながら労働をこなしたわけだから、帰宅後は解毒に勤しむべきなのに、自宅に帰るなりカップになみなみと新たな猛毒を注ぎ飲み干しながらキーボードを叩く。当ブログの記事は日々の追い猛毒によって作られています。 あたしって、ほんとマゾ。

 

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