珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

ごみの日に出される人間についての覚書|ああ共同体ちゃんやさしいきみは

お前いっつも断捨離の話してんな

個人で行う分は許されても、現代の共同体としては容易に許されない行為というものが世の中には山程あって、それ故に人間の社会は大変面倒くさいことになっているわけだが、「要らないものを捨てる」はその最たるものと言ってもいいだろう。そもそも共同体が――というか共同体(の概ね上位)に属する一部の人間が――安易に自分の手持ちを要るものと要らないものに振り分けること自体危険な行為なのだから。身近な例をとっても、山田A子が個人としてA子個人のものを捨てるのと、山田A子が山田家という共同体の一員として(実質A子個人のものであったとしても)共同体のものを捨てるのとでは意味合いが変わってくるのである。また、共同体中においては「個人のもの」「共同体のもの」という認識が個々人によってズレていることも珍しくない。かといって、普通は「テーブルクロスはA子個人のもので共同体に供しているもの」「醤油差しは共同体のもの」なんていちいち確認を取り合ったりしない。話を戻すと、必然的に共同体にとっては、「誰しもがそれを要らないものと認識していながら要らないものとして扱わずあたかも必要なものであるかの如く残しておく」ことが日常茶飯事になるのである。だから地球がゴミ溜めになっていくんですけど。

 

きっと誰かが捨てたがってるんだ

個人であればどんなものでも捨てられる。どんなものでも捨ててよい。役に立たない便利グッズ、壊れた電子レンジ、動かない洗濯機、要らないおもちゃ、邪魔なトルソー、目障りなポスター、不愉快な元彼からのプレゼント、100個捨てても、大丈夫。けれどもこれが共同体となると面倒くさい。役に立たない便利グッズ、「いつか使うつもりだったのに」。壊れた電子レンジ、「修理に出そうと思ってたのに」。動かない洗濯機、「週末にちょっと見てみるつもりだったのに」。要らないおもちゃ、「近所の子にあげようと思ってたのに」。邪魔なトルソー、「高かったのに」。目障りなポスター、「メルカリに出そうと思ってたのに」。不愉快な元彼からのプレゼント、「質屋に持っていこうと思ってのに」。ああやかましいやかましい。捨てたいものも満足に捨てられないこんな世の中じゃ。しかしながら、捨てたことに対する文句が後から出る程度の共同体なら、共同体のうちでもまだ捨てやすい方の共同体である。どんなに捨てたくても捨てたくても捨てられない共同体のことを考えれば。だってほら、役に立たない人間、壊れた人間、動かない人間、要らない人間、邪魔な人間、目障りな人間、不愉快な人間……これ全部、捨てるわけにはいかないのよ。

 

公共の福祉!公共の福祉です!

白黒れむの主観において「ウワッこいつ捨ててやりてえ」と思うような人間は沢山見てきたし、逆に誰かが私のことを「ウワッこいつ捨ててやりてえ」と思っているかもしれない。しかし、いくら「捨ててやりてえポイント」が貯まったところで、「ポイント満了です!公共の福祉のためにあなたを捨てます!」とはいかないのである。今この瞬間の「公共の福祉」を思えば捨てたくて捨てたくて仕方がない誰かを、これから先の『公共の福祉』を思って捨てないでおくのである。どんなに捨てたくても捨てたくても捨てられない共同体ちゃんは優しい。本当は捨てたくて捨てたくて仕方がないのに捨てられないから両腕いっぱいに抱え込んでその重さでしくしく泣いちゃう共同体ちゃんは可愛い。みんなのために抱え込んでいるところのものが何一つみんなのためにならなくて悔しがる共同体ちゃんは切ない。共同体ちゃんは我々よりずっとずっと先を見ている。もしも今この瞬間、共同体ちゃんがとある厄介者の老人をうっかり取り落としてしまったなら、これから先、共同体ちゃんは色々な人間を うっかり・・・・ 取り落とし続けるだろう。ある時は役に立たない老人を、ある時は壊れた若者を、ある時は動かないサラリーマンを、ある時は要らない引きこもりを、ある時は邪魔な大人を、ある時は目障りな子供を、ある時は不愉快な……不愉快な人間を。

 

共同体ちゃんは一生懸命やってるだけだよ

満了した「捨ててやりてえポイントカード」を体中に何百枚も何千枚も巻きつけて、それでもなお増えていくカードの束をなんとも思わないような人間が、普通の、ただ普通の、ただ普通に善良な人間を破壊しながら歩いていく世の中を見ていたら、捨ててやりたい人間は捨ててやるべきだと心から思う。けれども一度捨ててやりたい人間を捨ててしまったら、純朴極まりない共同体ちゃんはいつか、捨ててやりたい人間を捨てた時と全く同じやり方で、善良な人間も捨ててしまうだろう。より必要な人間のためならば、必要な人間も捨ててしまうだろう。要るものと要らないものの差なんてほんのさじ加減であるのと同じように、捨ててしまいたい人間と善良な人間の差も、ほんのさじ加減なんだよなあ。まる。

 

 

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痛い女の痛い生活についての覚書|痛々しい女の痛々しい生活がなんだって

お先真っ暗、お手手は真っ赤

半年程前から両手指の湿疹がすごい。どれくらいすごいかと言うと、客に心配されるくらいすごい。あまりにも言われるので手袋を付け始めた。皮膚科では抗ヘルペスウイルスの薬を貰ったので、ヘルペスなんだろう。私の指は一体何度皮が剥けたら気が済むのか。これを書いている今は左手の親指以外の指は全滅している。1日の絆創膏の消費量は優に20枚を超す。水に濡れて痛い、物に触れて痛い、手袋をして痛い、風に当たって痛い、もう何をしても痛い状態で、何にも触らず手をぷらぷらしている時だけ辛うじて正気を保っていられる。出来るものなら手を宙に掲げた降参のポーズでずっと生活したい、まさに文字通りの「お手上げ」状態なのである。話は変わるが先日、小用中に激痛を感じるようになったため膀胱炎という予測を立てて泌尿器科併設の評判のいい婦人科に行き、「膀胱炎の検査は尿採取だけらしいから大丈夫」という完璧な油断の上で何の前準備もせず受診したのだが、なんだかんだあって結局視診される羽目になり、院長先生から「ヴォアァ~~~ヘルペスがすごいある」と言われた。太ももの裏にあるクソデカ湿疹も発見されて「これもヘルペスですね」と言われた。話変わってないじゃん。先生には「休息をしっかり摂ってください」と言われた。先生、休息の摂り方も教えてください。

 

多分治療費が1番痛いと思います

私の現状を端的に言うと、「楽しいことは何も無いのにただ痛いことだけが沢山ある生活」となっている。手洗いが辛い、洗顔が辛い、風呂が辛い、仕事の洗い物と消毒剤が辛い、バッグに手を突っ込んで鍵を探すのも辛い、ポケットに手を差し込むのも辛い、トイレが辛い、歩行が辛いという、じゃあ一体何なら辛くないのかという話だが、少なくとも起きて動いている間はずっと辛いので、睡眠だけなのだろう。ちなみに今めちゃくちゃトイレに行きたいのだが、用を足すたびに皮膚を裂かれるような痛みに襲われる上に30分以上痛みの余韻が続くのが怖くてかれこれ1時間近くもじもじしている。それはさておき、その「楽しいことは無い、ただ痛いことだけがある」という現状を自覚してから、なんというかこう、死に瀕した人の見る世界を疑似体験しているような気分である。周りの色が少しだけ薄くて、空とか音とか光とか、そういうもの全てがよそよそしくなった。自分がぽっかり浮いていて、何もかもが初めて見るもののようだ。世界よ、そんなに腫れ物に触るように扱わなくても。まあ実際、歩く腫れ物なんですけども。この免疫力よわよわの状態でコロナにでも罹ったら、自分、本当に死ぬんじゃないかと思う無論いつか治るという希望を持って病院には通い続けるけど、ただただ毎日痛いことに耐え続けるだけの暮らしってあんまりだ。昼は歯を食いしばってアチコチの痛みに耐え、夜は拳を握り締めて気違い連中の相手をしなくちゃいけなくて(もちろんアチコチは痛いまま)、それを癒してくれるものが何も無いんだから、生きてるだけで拷問もいいとこである。もともと人の生って拷問みたいなところあるけど。

 

~ここでトイレ~

今トイレに行ってきたんですけど痛みに対する恐怖のせいかほとんど出ませんでした。残尿感がすごい記念にエピクロス先生のお手紙引用します。

七日前にこの手紙を書いていたとき、わたしは排尿がまったく困難となり、ひとをその生涯の最後の日へと導くかずかずの苦しみを受けた。そこで、わたしの身にもしものことがあったら、四、五年の間、メトロドロスの子供たちの世話をしていただきたい;ただし、いま、君が毎年わたしのために出費しているより多く出費していただかなくてもよろしい。 

エピクロス――教説と手紙』出隆・岩崎允胤訳,岩波書店,1959

(※文中の「;」は本文中ではシロテン)

 天国ではエピクロス先生のおしっこが安らかに出んことを 

 

ねこはかわいい

人間、老いたらアチコチがかなわなくなるわけだけれども、その時に何も楽しいことがなかったら、今の私以上に辛いと思う。自分はこれから死ぬまでひたすら痛いことしかないのかも、と自覚したらやっていけないと思う。そりゃ医者に怒られてでも酒を飲んでタバコを吸いたくなるし、身内に怒られてでもパチンコに行くわけだ。一方私の方といえば、「楽しいことを探す!!」と言いながらひたすら堅苦しい本を読み漁っては「ウーン、人間はクソ」という結論にたどり着いている。違う。そうじゃない。強いて思いつく楽しいことといえば、スマホアプリのねこレストランというものをここ最近やっている。

play.google.com

ひたすらタップして客を集め、稼いだ金で店を拡張していくごく簡単なゲームなのだが、このゲームの後半以降は実質エンドコンテンツなのではと言いたくなる果てしない拡張要素によって永遠に遊んでいられる仕様となっている。あとねこが可愛い。従業員のねこにリーゼントとか付けることが出来る。意味がわからない。このゲームは短い広告動画さえ熱心に視聴すれば課金は一切必要無いのだが、広告が動画である故に通信料が容易に死ぬ。Wi-Fi目当てにコンビニ前で煙草吸いながら画面を必死にタップしている黒ずくめの女が居たら私です。とりあえず今はねこレストランに生かし……生かさせて?生かさせられ?生かされ?ええと、ねこレストランが私を生かしています。ねこは往々にしてよく伸びるし、人の寿命もよく伸ばす。

 

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現代社会のコラテラル・ダメージについての覚書|生命と生活の赤ワイン煮込み~申し訳程度の良心を添えて~

自分で自分の顔を食べるアンパンマン

世界がもし私だけの村だったら、この状況下において、カラオケ店の私と、居酒屋の私と、風俗店の私と、旅行会社の私と、ホテル旅館の私と、その他「人の外出」ありきのビジネスに携わる私の生活全て生け贄に捧げてでも徹底的な外出自粛をするのだが、ウーン。無論、これは世界が私だけの村であるからこそ出来る対策であり、要は自分の腕一本と引き換えに生命を守る作戦である。ところが現実世界は私だけの村ではないので、そうホイホイと他人の人生を生け贄に捧げるというわけにもいかない。今の状況は、現実におけるトロッコ問題とも言えよう。一方の生活を犠牲にして大勢の生命を救うか、一方の生命を犠牲にして大勢の生活を救うかという究極のトロッコ問題である。大勢の生命を救うことは結果的に大勢の生活を救うことにも繋がるのだけれど、対照的に大勢の生活を救ったからといって大勢の生命が救われるかどうかは神のみぞ知る。これは果たして、どちらが5人の作業員で、どちらが1人の作業員なのだろう。どちらがどちらであっても、ぞっとしない話である。

 

時事問題に触ると具合が悪くなるのでもうこの話はやめますやめやめ

全ての人間の生命と生活を平等に扱うことが出来るのは神様だけだと思っている。それでも人の中から全ての人間の生命と生活を平等に扱おうと考える人が現れて、そうあらしめる行為に走らせるのは、ひとえに「良心」のためだろう。これは倫理とか、道徳と呼んでもよい。しかしまあ、できっこないと思われていたことに取り組んではそれを実現させてしまうのが人間であるから、遠い遠い遠い未来に、(皮肉やディストピア的な意味ではなく)本当の意味で全ての人間の生命と生活が平等に扱われる国、或いは世界が出来るかもしれない。ただ少なくとも私が生きている間は確実に、これから何か大きな問題が起こるたびに、人はこの「良心」のために苦しむのだろう。そして「良心」を煩わしく思うことさえあるだろう。ある時にはいっそ「良心」を捨てて、私のようなポンコツどもの生命を生け贄に優秀な人々の生活を守りたいと思うことだってあるだろう。人の「良心」は、イヴが蛇にそそのかされて禁断の果実を口にしてしまったのと反対に、蛇にそそのかされて口から吐き戻そうとしている禁断の果実なのである。勿論、この場合のイヴは我々なのだけれど。

 

何が出るかな 何が出るかな

たぶんきっとおそらく、人類に天秤はまだ早い。先程二本足で立てるようになったばかりの赤子にハーレーダビッドソンを与えるくらい早い。人が何かと何かを天秤の両の皿に乗せたが最後、諍いにならなかったことがあるだろうか。ましてやその皿に乗せたものが生命や生活だったらもう大戦争だ。テミスかユースティティア辺りに返してらっしゃい。我々に許されているのはせいぜいサイコロをころころ転がすことくらいじゃないか。サイコロなら赤んぼが投げようが世界一偉い人が投げようが同じことだし。「サ…サイコロが割れて……7だとおおおお~」みたいなことをしない限り。あっ遊戯王で好きなキャラは海馬瀬人、カイザー亮、プラシドです。私の人生の行き先も誰かがサイコロをころころ転がして決めてくれないものか。私のことを天秤の皿に乗せてもいいけどさ、あまりにも軽すぎてもう片方の重さで上に吹き飛んで天井に激突して死んじゃうかもしれないから。なんかそういうSCPがあったな。これから世界が天秤を使う側に出るか、サイコロをころころ転がす側に出るか、なかなかの見ものである。

 

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物というものについての覚書|物だらけの地球(ほし)の中心で意味不明な供述をしており

買った時点で満足し終えるタイプ

先日、ドカンと物を捨てた。私の場合、物を増やしたい期と物を減らしたい期が代わる代わるやって来るので、増やしたい期に買って放置していたものを減らしたい期に未開封のまま捨てるなんてこともザラであり、彼らが一体何のために生まれて何のために死んでいったのか、またそれに費やした金銭が一体何のために生まれて何のために死んでいったのか、毎度毎度他人事のように首を傾げている。まあそれはそれとして、この時代にあっては、何かを手に入れることも、手に入れたものを手放すことも、一度手放したものを再び手に入れることも、再び手に入れたものを再び手放すことも、我々からすれば朝飯前なのである。物で溢れかえったこの地球、もはや水の惑星というより物の惑星と呼ぶほうが相応しかろう。

 

私は断捨離家でもミニマリストでもありませんのでこれはただの白黒イズムです

断捨離だとかミニマライズだとかそういうことを実践している人間なら誰しも、「真に必要な(有るべき)ものとは一体何か?」「物に依らない真の充足とは一体何か?」という問題に必ずぶち当たると思う。というかむしろ、そういう問題にぶち当たらないのならばその実践の意味はほぼ無いに等しかろう。物を無造作に捨てるだけなら我々よりも幼子の方がよっぽど巧みに、かつ潔くやってのける。それにもし、捨てるという行為そのものによる快楽のために物を沢山捨てたいのならば、まず物を沢山買ってきて、それから沢山捨てればよろしい。目指すべきは「捨てるという行為による瞬間的な快楽」ではなく、「真に必要な(有るべき)ものだけで満足出来る心による永続的な快楽」である。とはいえこれはやってみると案外簡単なもんで、私の経験上アレやコレを捨てたところで大した不便もしないし、ふとした時に存在を思い出したりはするけれど、無くても全く問題ない場合がほとんどで、大抵は綺麗な満足に終わった。つまり、これまで真に必要でないものを必要だと思い込み、真に必要でないもので周りを満たしておかなければ満足できない心になっていたということなのだろう。この綺麗な満足を積み重ねて、「真に必要な(有るべき)ものだけで満足出来る心」を作っていけばいいのだ。

 

これは余談

以下は私の経験に基づく偏見なのだが、人間ある程度悟ってくると、何かを手に入れたり作り上げる快楽よりも、手放したりぶち壊したりする快楽の方が圧倒的に大きくなる。出会いや生成よりも別れや消滅に悦を感じ始めるのである。断捨離だとかミニマライズに傾倒するような人間は大抵、これまでの人生において何かしらの悟りを得ているので、そうではない人間がぽいと物を捨てる時と比較すると、神懸かりの如き快楽を得ている。前回の大掃除の時には勿体無いという気持ちの方が大きくてどうしても捨てられなかったものを、今回思い切って捨てられた時に得られる快楽の大きさといったら、そりゃもう神さび状態である。あの高揚といったら、日本最古の ストリッパー 踊り子アメノウズメ然り、シヴァ神の腹に乗って踊るカーリー然り。

 

米食べろ

ところで、「真に必要な(有るべき)ものとは一体何か?」という問いの答えに相応しい物質が本当に存在するのかどうか怪しくなってきたのだが皆様は如何。だってほら、水や食べ物の類は確かに必要だけどそういうことじゃないんだよな感が否めないし、火や服も人生に不可欠だけどそういうことじゃないんだよな感が否めないし、かといって水道や電気やガスもそういうことじゃないんだよな感が否めないし、本は大切だけど無くたって生きていけるし、家電やパソコンやスマホに至ってはもうお話になりませんといった具合ではないか。断捨離やミニマライズの結果得られたものが「私に必要なものは水とパン!おしまい!」じゃああんまりだ。エピクロス先生じゃあるまいし。まあ結局のところ、水とパン、強いて足すなら火と衣服、それら以外に真に必要な(有るべき)ものなんかこの世に存在しないんだから、自分が心底好きなものが真に必要な(有るべき)ものってことでいいんじゃなかろうか。しらんけど。そう考えると、いかに地球が人間の欲求によって散らかっているかがよく分かる。ひっくり返されたおもちゃ箱が綺麗に片付けられる日は来るのだろうか。

 

で、「物に依らない真の充足」ってなにさ

わかんない

 

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話を聞かない客、地図が読めない私についての覚書|※この記事の本文中に注意書きなんてものは一切ありません※

(だいじょば)ないです

ぼく「この新システムって大丈夫ですかね?客が勘違いしてトラブルになりません?」

かわいいバイト「あっそれ利用時に注意書きが出るようになってるので大丈夫ですよ!」

ぼく「(うーん大丈夫じゃなさそう)」

 

俺の 俺の 俺の話を聞け~

利用に際し一定の注意を要する物事に関して、「注意書きがちゃんと出る」ことと「客が注意書きをちゃんと読む」ことは全くの別問題である。たとえ、読んで欲しい側が読んで欲しい内容を フォントサイズを超特大にして太字にして更に蛍光ペンで下線まで引いたとしても、読まない奴は全く読まない。コイツ目が付いてないんじゃないかと言いたくなるくらい、そもそも存在自体が目に入っていない。そしてそういう奴に限って、後からそんなこと聞いてないと言ってアレコレ文句を付けてくる。全ての客がきちんと注意書きを読んで利用しているという性善説じみた前提で事を進めるより、むしろ全ての客が注意書きを一切読んでいないという前提で予め対策を考えておく方が精神衛生上よろしい。店が出しているアプリの使い方を懇切丁寧に順序立てて書いてある説明書を渡しても、手順①の時点で既に説明書とは全く違うことをやった挙句に「は?出来ないんだけど」と言ってくる客もいる。うわっ…お客様のこくご力、低すぎ…?

 

「読む」という行為の定義から教えたほうがいいね

国語の授業に物申したいのだが、作者の気持ちを 都合よく捏造 推し量ることを教えたり、國破山河在城春草木深感時花濺淚恨別鳥驚心烽火連三月家書抵萬金白頭掻更短渾欲不勝簪を教えたりするよりも前に、「提示された注意書きをしっかり読んでその通りに行うこと」や、「雑然とした文章群の中からここは重要であると思われる部分を素早く把捉すること」のトレーニングをしっかりやってほしい。いや、それよりも1番初めに「提示された注意書きを無視しないこと」「使用前の段階でどこかに注意書きが無いかひとまず探してみること」を教えてほしい。これは国語というよりむしろ「せいかつ(生活)」の範疇である。ところで今でも小学校低学年を対象とした「せいかつ(生活)」の授業ってやってるんでしょうか。とにかく、「せいかつ(生活)」の授業を小学1年生から高校3年生までずっとやってほしい。小学生の段階ではごくごく基本的な「社会で生きる練習」から始めて、高等教育では税金の種類や確定申告の仕方や各種補助金や冠婚葬祭の基本などを教えればよかろう。その授業では「パッケージの裏面に一度目を通すこと」や「添付されている説明書には必ず目を通すこと」を教えて欲しい。ヤギじゃあるまいし注意書きを読まずに食うんじゃない。ただし、注意書きを食ってる人間はまだマシな方であることに留意されたし。注意書きを食ってる人間は注意書きの存在に気づいているからである。気づかない人間はもちろん読まないし、食べもしない。

 

人を滅ぼすのは人か、神か

……であるからして、人の敵は人の話を聞かない人であり、人の注意に目を向けない人であり、人の警告を無視する人であり、人の意図を汲み取る能力が(それはもう)著しく低い人である。人の悩みの種は程度の差こそあれ大抵は人だし、人をイライラさせるのも大抵は人で、人を傷つけるのも大抵は人で、人から人を奪うのも大抵は人だ。ただしこれは人に関して最も主語が大きくなるところの「人」である。きっと人の中には「人を滅ぼさねばならない」という遺伝子が潜在的に組み込まれていて、それが色濃く発現した人ほど、「人の敵としての人」たる人になるのだろう。もしくは「人はいずれ滅び去らねばならない」という神の意志が潜在的に組み込まれており、その神の意思が色濃く発現して「人の敵としての人」として存在する人は、神の御使いなのかもしれない。そういうことにしておこう。

 

バカモーン!廊下に立っとれ!

さて、ここまで読んでくださった皆様ならば、私が記事の本文中で提示したとある注意書きにも当然気づいて頂けたかと思う。結構分かりやすく書いておいたので、日頃から身の回りの注意書きにきちんと目を通している方なら簡単に見つけられたはずだ。記事中で私がこれだけ注意書きに注意することの大切さを主張したのだから、まさかここまで来て記事を遡りながらその注意書きとやらを必死に探そうとしている読者の方はいないだろうと信じている。……エッ私の注意書きを読んでくれなかったんですか?どうして?あんなに分かりやすく書いたのに?注意書きには注意しろって口を酸っぱくして言ったじゃないですか!那珂ちゃんのファン辞めます。仕方がないですね。この記事をタイトルから読み直してください。

 

 

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