珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

現代社会のコラテラル・ダメージについての覚書|生命と生活の赤ワイン煮込み~申し訳程度の良心を添えて~

自分で自分の顔を食べるアンパンマン

世界がもし私だけの村だったら、この状況下において、カラオケ店の私と、居酒屋の私と、風俗店の私と、旅行会社の私と、ホテル旅館の私と、その他「人の外出」ありきのビジネスに携わる私の生活全て生け贄に捧げてでも徹底的な外出自粛をするのだが、ウーン。無論、これは世界が私だけの村であるからこそ出来る対策であり、要は自分の腕一本と引き換えに生命を守る作戦である。ところが現実世界は私だけの村ではないので、そうホイホイと他人の人生を生け贄に捧げるというわけにもいかない。今の状況は、現実におけるトロッコ問題とも言えよう。一方の生活を犠牲にして大勢の生命を救うか、一方の生命を犠牲にして大勢の生活を救うかという究極のトロッコ問題である。大勢の生命を救うことは結果的に大勢の生活を救うことにも繋がるのだけれど、対照的に大勢の生活を救ったからといって大勢の生命が救われるかどうかは神のみぞ知る。これは果たして、どちらが5人の作業員で、どちらが1人の作業員なのだろう。どちらがどちらであっても、ぞっとしない話である。

 

時事問題に触ると具合が悪くなるのでもうこの話はやめますやめやめ

全ての人間の生命と生活を平等に扱うことが出来るのは神様だけだと思っている。それでも人の中から全ての人間の生命と生活を平等に扱おうと考える人が現れて、そうあらしめる行為に走らせるのは、ひとえに「良心」のためだろう。これは倫理とか、道徳と呼んでもよい。しかしまあ、できっこないと思われていたことに取り組んではそれを実現させてしまうのが人間であるから、遠い遠い遠い未来に、(皮肉やディストピア的な意味ではなく)本当の意味で全ての人間の生命と生活が平等に扱われる国、或いは世界が出来るかもしれない。ただ少なくとも私が生きている間は確実に、これから何か大きな問題が起こるたびに、人はこの「良心」のために苦しむのだろう。そして「良心」を煩わしく思うことさえあるだろう。ある時にはいっそ「良心」を捨てて、私のようなポンコツどもの生命を生け贄に優秀な人々の生活を守りたいと思うことだってあるだろう。人の「良心」は、イヴが蛇にそそのかされて禁断の果実を口にしてしまったのと反対に、蛇にそそのかされて口から吐き戻そうとしている禁断の果実なのである。勿論、この場合のイヴは我々なのだけれど。

 

何が出るかな 何が出るかな

たぶんきっとおそらく、人類に天秤はまだ早い。先程二本足で立てるようになったばかりの赤子にハーレーダビッドソンを与えるくらい早い。人が何かと何かを天秤の両の皿に乗せたが最後、諍いにならなかったことがあるだろうか。ましてやその皿に乗せたものが生命や生活だったらもう大戦争だ。テミスかユースティティア辺りに返してらっしゃい。我々に許されているのはせいぜいサイコロをころころ転がすことくらいじゃないか。サイコロなら赤んぼが投げようが世界一偉い人が投げようが同じことだし。「サ…サイコロが割れて……7だとおおおお~」みたいなことをしない限り。あっ遊戯王で好きなキャラは海馬瀬人、カイザー亮、プラシドです。私の人生の行き先も誰かがサイコロをころころ転がして決めてくれないものか。私のことを天秤の皿に乗せてもいいけどさ、あまりにも軽すぎてもう片方の重さで上に吹き飛んで天井に激突して死んじゃうかもしれないから。なんかそういうSCPがあったな。これから世界が天秤を使う側に出るか、サイコロをころころ転がす側に出るか、なかなかの見ものである。

 

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