珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

友情と恋愛の食わず嫌いについての覚書~その2~|自分語りと自己弁護のマリネ お子様ソースを添えて

平然とやってのける人々の平然とした顔を見て

誰かと会話をする際において、相手の機嫌を損ねぬこと、相手の不興を買わぬこと、相手を退屈にさせぬこと、相手に気を使わせぬこと、などを毎度毎度一生懸命考えて慎重に、必死に、丁寧に、気を遣いながら、怯えながら、相手の表情目線声色等把握可能なものは全て伺いながら、回らぬ頭をフル回転させて、手持ちにない言葉を当てもなく探して、それでも結局上手にいった試しなど無いのだから、それなら下手な手を打たず最初から黙っておいた方が得策なのでは?ということを考えるのさえも嫌になったので、そのうち白黒れむは考えるのをやめた。これら果てない(自称)努力の結果生まれるものがただの苦痛羞恥後悔の域を抜け出せないのなら、会話という行為は恐らく根本的に私に向いていない所業なのであろうし、よって、そこから私が得られるものは何一つ無いのであろう。現代的な、というか、21世紀的な価値観に合わせるならば、我々は無理に苦痛から価値を抽出する必要は無いのだし、価値のためにわざわざ苦痛を選ぶ必要も無いのである。

 

過去の自分からの期待が重い

それで、ええと……私はこの記事を「その2」と称して一体何を「その2」とすれば良いのかね。愛と友情に関する己の価値観についてなのか、クソデカパーソナルスペースについてなのか、諸々の「快」についてなのか、コミュニケーション能力の欠如についてなのか。前回の記事があまりにも散らかっていて完全に行き先を見失っている。というかクソデカパーソナルスペースって言いたいだけだろ。その1とか書かなければよかった。ウウ。これは、これは……そう、一人こそが心地良いと言いながら決してひとりでは生きられない人間の戯言である。

 

今時の子供の方が遥かに「大人」してたりするね

自分の機嫌さえ満足に取れない人間が他人の機嫌など取っていられるものか、というのが私の率直な感想であり、言い訳である。親しい関係のトラブル、大きなもので言うならば親子関係の痛ましい事件などは、専らそれに起因するのではないか。自分の機嫌さえ満足に取れない状況下で、他人の機嫌と生命の面倒を見るというとんでもない義務まで与えられたら、たとえ初めのうちは自分が望んで背負った義務であろうとも、そら頭おかしなるで。自分の機嫌を自分で取れる人間を「大人」と勝手に定義しても良いならば、他人の機嫌と生命の面倒を見るのは「大人」でなければならない。法律で成人しているかは関係なく。そして、愛と友情において上手くやっている人間は、須らく自分の機嫌を自分で取れる「大人」なのだろう。白黒さん、早く「大人」になってくださいよ。ええ、まあ、そのうち、前向きに、善処します。

 

はぐろれむさんじゅっさいです

他人と会話するのが下手くそすぎて辛い、物理的であっても心理的であっても他人と距離が近いのは居心地が悪い、人付き合いより自宅で手軽なコンテンツを消費している方が楽しい、自分の機嫌の取り方が分からない、だから他人の機嫌なんか取ってる余裕がない、こりゃたまげた、社会的な「子供」以外の何者でもない。これから先歳を重ねるにつれて、社会的に「子供」であることが枷になってくる場面がどんどん増えるのだろう。いつになったら私は「子供」から脱せるのだろう。どうやったら私は「子供」から脱せるのだろう。アーア、これから毎日愛と友情はうるわしきかなと百ぺん唱えます。唱える相手がいないので、壁に向かってです。

 

あーもうまたそうやって「次」とか言うから

敢えて宣言するまでも無いだろうが、私の愛と友情に対するスタンスは決して「無関心」ではなく、掃いて捨てるほどの「関心」がそこにあるのである。その掃いて捨てるほどの「関心」を隠す術を知らないので、アホの子のようにこうやって2つも記事をこしらえているのだ。次はもっと関心が無いことについて書こう。関心がありすぎることについて書くには、自分の心を是非とも深掘りする必要があって、なんとも疲れることよなあ。

 

 

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