珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

シュレディンガーの迷惑についての覚書|眠すぎてここに書く事が思い浮かびません

考えるのはタダ

我が国ではついこの前元号が令和に変わったばかりだが、時代が時代であったならば3日おきに元号が改まってもおかしくない世界的物忌みムードである。気楽に外出も出来やしない。外出が出来ないということは当然自宅に篭ることになる。そして誰しもこう思うはずだ。なるべくお金をかけず、飽きることなく、有意義に時間を潰せるインドアな娯楽は無いものかと。老若男女貴賎国籍を問わず万人が成しうる最高にお手軽な娯楽といえば、そう……考えることである。このまま自宅待機を余儀なくされる人間が世界中で増えていけば、いずれ彼らの中から哲学者が現れるだろう。今回の記事では、「他人に迷惑をかけたかもしれないし、かけていないかもしれない」をテーマに考えようと思う。

「コミュ障」は自称してもいいことが無い

「他人に迷惑をかけたかもしれないし、かけていないかもしれない」。正確に言うと「他人が迷惑と思ったかもしれないし、思っていないかもしれない」になるのだが、まあどちらでも良かろう。相手の心を覗くまでは、迷惑をかけた状態とかけていない状態が50%ずつ存在するシュレディンガーの迷惑。私の如き生粋の陰キャはか弱い生き物なので三歩歩けば死因に当たるような日々を送っているのだが、このシュレディンガーの迷惑は数々の死因の中でも中心的位置を占めている。「他人に迷惑をかけたかもしれないし、かけていないかもしれない」という状態は、ぶっちゃけ「迷惑をかけた」状態より悪質である。自分をなだめすかして安心させようとする穏やかな自分と、自分に現実を直視させようとする冷酷な自分が自分の中で限界バトルしている。自分が自分を殴り、自分が自分に蹴りを入れ、それに自分が野次を飛ばす、自分に何一つ優しくない試合。頭の中で当時の映像と音声を延々リピートしながら何かにつけて自分と自分を戦わせている。「迷惑をかけていない自分」を諦めきれない意地汚さがある。さて、この問題において「かけた」か「かけていない」のどちらかに収束するためには、無論観測が必要である。相手の心を観測するのは不可能なので、相手から心を代弁する言葉を引き出さねばならない……おっとこれはどうしたことだろうか。相手から言葉を引き出すどころか相手に話しかけることすらしない。なんで?実際迷惑をかけていようがかけてなかろうが、「この間の件なんですけど、迷惑をおかけしたと思うのでお詫び申し上げたく……」と声をかければ良いだけの話ではないか。フーム、理由を聞けばコミュ障なので話しかける勇気がないと。自然消滅するまで自分の中でモヤモヤさせておくつもりですね。これは割と声を大にして言いたいのだが、仕事と謝罪の言い訳にコミュ障というワードを持ち込んではならない。コミュ障だから客と対面で話すのは嫌ですとか、コミュ障だから謝罪のために話しかけるの恥ずかしいですとか、そんなカワイイ言い訳がまかり通るものか。仕事と!謝罪に!コミュ障という言い訳を持ち込むな!ウオーッ!

自分の中に無い答えを自分の中で探そうとしない

陰の者にありがちな「他人に迷惑をかけたかもしれないし、かけていないかもしれない」症候群を緩和するのに必要なのは、他人に絶対迷惑をかけないぞと強く誓って注意深く行動することではなく、互いの迷惑を互いが許しあえる人間関係を構築することである。が、陰の者はこう考える。それが出来ないから自分は陰の者なのであって、ミスを笑って許せるような信頼関係を築くよりも、たった1つの些細な失敗さえも起こさぬようガチガチに気を張っていた方がよほど簡単だ、と。果たしてそうだろうか。これは普段から悪いことばかりしている不良少年がたった1つ良いことをしただけで持て囃される理論とは真逆で、普段から人に迷惑をかけるものかとそればかり考えそのように生きていると、たった1つ些細な迷惑をかけただけでそれが恐ろしい負債になってのしかかってくるというのに。全く同じミスなのにあの人は許されて、自分は許されなかった。それは往々にして人間関係の違いである。残酷なことだけれど。私も出来ることなら現実で誰とも関わらずクールにドライに生きていきたいものだが、その一方で回避できるシュレディンガーの迷惑は回避したいという強い願望もある。迷惑をかけたかもしれないし、かけていないかもしれないという不安で帰宅後に葛藤したくない。許されたいから許す。許すという行為を許してもらえるような関係を作る。他人の気持ちとかいうこの世で1番考えるだけ無駄なものについて長々考えたくない。他人の気持ちが甲か乙かそれとも丙かなどと延々考えていると、確実に精神をやられていく。そんなもの、自分の中に答えがあるわけないじゃないか。

謝罪にだけは毎回命を懸ける女のぼやき

ええとつまり今回言いたかったのは、自分の中にはあるはずのない答えを延々探そうとするな死ぬぞということと、そもそもそんな無駄な探索を減らすために人と人との信頼関係があるのだということと、真面目な場でコミュ障を言い訳に持ち込むなということと、最後に……遅刻したら一言謝罪をしましょうということだ。頻繁に遅刻してくる癖に出勤してからは一言も謝罪しない人がいる。あの人はこう、自分がかけた迷惑について帰宅後に悶々と考えたりすることが無いのだろうか、といつも思ってしまう。「他人迷惑をかけたかもしれないし、かけていないかもしれない」という理由で毎日悶々としている自分がおバカに見えるではないか。ここらで自分で出した結論に則って、「あの人も実は悶々としているかもしれないし、していないかもしれない」という無駄な探索はしないことにする。閉店ガラガラ。

 

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