珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

友情と恋愛の食わず嫌いについての覚書~その1~|自己分析と自己満足のミルフィーユ仕立て

アリストテレス、お前もか

アリストテレス先生の『ニコマコス倫理学』を読んでいる。現実の人間と現実の人間の生活に基づくところの、現実の人間らしい哲学がここにあると思う。とはいえそう手厳しいものでもないので、現実に魘されている限界人間の皆様にもこの現実であれば安心して摂取して頂けると思う。ところで、第八巻並びに第九巻において先生が友情のうるわしさについて説き始めた辺りで鼻からきのこが生えそうになった。私とて伊達にクソ一般人やってるわけではないので、愛がうるわしきものであるのは一般感覚的に分かる。友情がうるわしきものであることも、分かる。ただ現状私の心の中に、素晴らしきよあれかしとか美しき友情こそあらまほしとか思う気持ちが十分に無いだけであって、その不足した部分の穴を埋めるべく、素晴らしき愛や美しき友情を別途脳内で必死に描いてみせるのだが、その結果頭の中で生まれるのは「パーソナルスペースやひとり時間を著しく侵害されることに不快感を覚えている自分像」だけであり、そりゃ鼻からきのこも生える。もう少し噛み砕いて言うと、愛を得た自分や友情を得た自分に特段魅力を感じないのである。私にとってパーソナルスペースとは家であり、ひとり時間とは唯一の休息なのであって、住み家や休息を犠牲にしてでも愛や友情が欲しいかと聞かれると、ウーン。以下、パーソナルスペースクソデカ女の戯言が続くことになるのだが、その前に一つ質疑の時間としたい。

 

第7485862846546925737629回 全白黒れむ自問自答大会

質問失礼致します。『珈琲三杯』管理人をしております白黒れむと申します。当方、愛と友情に関しては素人で恐縮なのですが、先程の発表を聴くに、つまるところあなたは”イキって”いらっしゃるのではないでしょうか?パーソナルスペースがどうとかひとり時間がどうとかそれらしいことを並べておきながらその実、あなたは愛や友情の類を積極的に手に入れる意思が無いのではなく、手に入れたくても手に入れられないだけなのではないでしょうか?心の底では手に入れることを欲していながらどう頑張っても手に入れられそうにない、ならば最初から「私はそれらを欲しない」と言っておけば己のちっぽけなプライドに傷がつかないと、そう思っていらっしゃるのではないでしょうか?以上の点について、回答をお願い致します。私からの質問は以上になります。素人質問失礼しました。

 

否定形で反論すると大抵痛い目見る

はい、白黒れむさんご質問ありがとうございました。さて、この売られた喧嘩 鋭い質問に対し、私はどう回答すべきだろう。恐らく私はこの場において「愛や友情が自分にとって”ひとり”以上の魅力を持たないこと」についてつらつら述べるよりも、むしろ「”ひとり”が愛や友情以上の魅力を持ちうること」についてくどくど述べる方が良いのだろう。前者は”イキり”と評された主張に更なる”イキり”を加えるだけのように思われる。いや、この際くどくど述べる必要もあるまい。ある種の人々の間ではそうマイナーな意見でもあるまいから。ただまあどういうスタイルで書くかをここで決めても上手く行く気がしないので、この際好き勝手に書き散らかすことにしよう。

 

①-a:愛や友情の類を積極的に手に入れる意思が無いのではなく、手に入れたくても手に入れられないのではないか、という点について

これは半分正しく、半分間違っている。私にとっての真の困難はそれらを手に入れることにあるのではなく、手に入れたそれらを維持することにある。こまめな連絡、こまめな対顔、そうしたことのために動かす部分がどうしても途中でガス欠を起こしてしまうので、まあ結果として、初めから無かったもののようになる。では何故こまめなコミュニケーションが不完全燃焼で終わるのかというと、ウーン、単に面倒くさいだけなのだろうか?愛と友情はうるわしさにおいて最上級に位置するものであるという前提に従えば、私はそれを上回るほどのうるわしき行為を日頃から行っているわけだが、それは例えばひとりでニコ動の面白い動画を見たり、ひとりでコンビニにおやつを買いに行ったり、ひとりでエッチな漫画を読んだり、ひとりで机の上やベッドの上にコロコロをかけたり、ええと……

 

①-b:何故愛や友情を守るよりもニコニコ動画で面白い動画を見る方がより上位の行為に位置づけられてしまうのか

簡潔に言えば、私の「快」持ちが悪いからである。「快」持ちのニュアンスは、腹持ちとか物持ちとかと同じところに拠る。言葉を換えれば、何故だか知らんが己の中で「快」に関するところの燃費が異様に悪く、常に「快」を貪っていないと「快」に飢えてくたばりそうになる。その時貪るものがどんなに瞬間風速的でくだらないものであろうとも、「快」でありさえするならそれでよい。世にある過食症なんかの病気も、この「快」に関するところの燃費が異常をきたしているところから来るんだと思う。それで、愛や友情のように時間をかけて育むことで初めて得られる「快」など待っていられるものか、俺は部屋に戻ってニコニコを見るぞ、というわけだ。この手の「快」を心ゆくまで貪れるのはひとりの時と相場が決まっている。ここで、ひとりを愛する心が生まれる。また一方で、この手の「快」は日常的に摂取し続けると癖になるきらいがあるのが厄介極まりない。日頃から楽しいことが無いと言いつつそれでも生きていられるのは、この瞬間風速的でくだらない「快」を毎日必死に貪って、依存に近い中毒症状を起こしながらもそれで食いつないでいるからである。あっ動画がくだらないって意味じゃないですよ!くだる!くだります!

 

①-c:つまりどういうことだってばよ

私が愛や友情のような広くうるわしいとされているものに対して消極的なのは、己の中で「快」に関する部分の燃費が著しく悪いことに起因する。四六時中適当な「快」で腹を満たしてやらねば愛や友情による「快」が生じるまでの間に飢え死にしかねない。それで、取るに足らない「快」を短期間で大量に摂取した結果、取るに足らない「快」による中毒症状を発症し、一方で愛や友情のような手間暇のかかる「快」に魅力を感じなくなってしまった。しかしながら取るに足らない「快」による中毒症状は妙な言い方をすれば良性の中毒症状であり、この良性の中毒症状が「ひとりを愛すること」を生んでいるのである。もし、ある人の中に愛や友情による「快」が無く、更に空腹を満たすための取るに足らない「快」すら無いのであれば、それはただただ「無を愛すること」に繋がるのあって、「無」による悪性の中毒症状を起こしていることになる。

 

記事の終着点は歩いてこない だから歩いてゆくんだね

Q.なんか今回長くないですか?

A.この記事だけでは終わりそうもないので分けて書こうと思います

Q.結局イキってますよね?

A.(イキって)ないです

 

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