パンと人間のロマンスについての覚書|売り切れてたら売り切れてたで結局悲しくなるんだから
デッデッデデデデ\パーン/
最近のちょっとした楽しみが、夜8時以降に近所のスーパー、その中の100円パン屋に行って、いちばんお気に入りのパンが50円になっているところをかっ攫うことである。いちばんお気に入りのパン、いつも売れ残っている。これが分からない。私個人としては大変ありがたいのだが、近隣住民にあのパンのおいしさがいまひとつ知られていないらしいところ、これが分からない。あのパンをひと目見て「これ絶対美味いやつじゃん!!」とならないところ、これが分からない。ひどい時には閉店15分前に駆け込んでもあのパンだけがまだ売れ残っている。これが分からない。それ以前に、「パンが50円!!買いやな!!」とならないところ、これが分からない。どんなパンであれパン屋のパンが50円だったら誰かしら買うでしょ。本当になんでなんだろう。商品名が耳馴染みのない横文字だからだろうか。それとも、他の100円パンがとても100円とは思えないクソデカサイズなので、至って標準的なあのパンが相対的に小さく見えるからだろうか。それとも、形が少し卑猥だからだろうか。
desパンdent・パン
早めに行くと高確率で複数個残っているので、だいたい2個買う。「普通の人は半額になっている食品を見たときに『普段の値段の半分で買えるな』と考えるがデブは『普段と同じ金額で2個食えるな』と考える」というデブ界のコピペを思い出した。私はデブなので「100円で2個食えるな」と考える。おいしいものは1個食べるともうひとつ欲しくなるのが世の理じゃろうて。自分が好きなものがいつも売れ残っているのは悲しいが、売れ残っていることによって私に多大なるメリットがあるのだから、特別悪いことではないし、むしろオイシイ。でもやっぱり悲しい。それに、私がこれだけ悲しいのだから、パン自身はもっと悲しいと思う。悲しいは、オイシイ。
相互依存
さしあたって悲しみに暮れる私に必要なことは、「あのパンの美味しさは私だけが知っていれば十分なんだ」と考えることである。また、さしあたってあのパンに必要なことは、「私の美味しさは誰かひとりが知ってくれさえすれば十分なんだ」と考えることである。やがて私はあのパンの声に気づき、あのパンも私の声に気づくだろう。彼を愛するのは私ひとりで十分なんだって。夜8時に始まるロマンス。ロマン。いやロパン。ロパンがある。1人と1個は幸せなキスをして終了。いや、2個買ったんでしたね。ここから第二ラウンドです。
人間界でよく見られる光景です
あの店のパン職人に毎日私のためだけにこのパンを焼いてくれと私が言い、あのパンも私のためだけに焼かれたいと言ったとしよう。それで、パン職人が我々の愛にいたく感動して、その通りになったとしよう。これでもうお互いはお互いのものだ。けれどもきっといつか、私はあのパンに飽きるだろう。いくら美味しくても毎日毎日あれだけを食べていたらいつか必ず飽きるだろう。あのパンもきっといつか私に飽きるだろう。いくら毎日毎日買ってくれるといえども私の顔ばかりを見ていてはいつか必ず飽きるだろう。そうやって我々はいつか終わりを迎えるだろう。パンも人間も同じようなものだね。
正確には「彼らのことがいちばん好きでいちばん応援していていちばん理解している人間は自分だけであってほしい、彼らのことをそこそこ好きでそこそこ応援していてそこそこ理解している人間はたくさんいてほしい」だよ
「自分が好きなものをみんなも好きになってほしい」という気持ちと、「自分が好きなものをみんなは好きにならないでほしい」という気持ちが両立するのが、人間のややこしいところである。長年応援してきて布教活動にも努めてきたインディーズバンドがメジャーデビューして有名になった途端、複雑な気持ちに襲われるアレだ。人間は相反する物事を無理やり両立させるのが得意なフレンズなんだね。拡散しつつあるものが同時に収縮しつつある、なんてことは起こらないのが自然の摂理じゃないのか。人間は自然じゃないのか。ウン、まあ、自然の対義語は人工っていうくらいだしね。人の手にかかるものは、いつだって自然と対立するのだ。それが人自身であっても。
それはそれとして
「ファミマのお芋掘り」と称したキャンペーンで発売されたパンがあまりにも美味そうすぎる。スイートポテト蒸しケーキとか大学芋なスティックドーナツとか絶対美味いやつじゃん。あわよくばこの秋が永久に続くことを希っちゃうやつじゃん。今度買お。