珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

自分への優しさとダイエットについての覚書|食パンをおかずに食パン食ってる人間の戯言

自分に優しく

もうそろそろ、自分の心に優しいだけでは自分を守れない歳になってきた。逆に歳を重ねるごとに心の方はカチカチになってきて、多少のことではダメージを受けなくなったような気さえする。自分の体にも優しく……優しくしなければならないのである。今回はええと、そう、ダイエット。ダイエットについて書こうと思う。これまで数え切れない程のダイエットに成功したりしなかったりした。今回も成功したりしなかったりできるだろう。

とりあえず再発した二重顎が引っ込むまで自分に優しくします。

宇宙そらにも肥満外来があるといいのだけれど

一時期ダイエットブログを読むのに凝っていた。それも美容系ダイエットブログではなく、医者から痩せろと忠告されたことをきっかけに一念発起して始められたようなブログ、言うなれば背水の陣系ダイエットブログをよく覗いていた。その中において挫折しそうになったブログ主が、突然眩い光を放ってそのまま消失していく事例を何件も見てきた。一定のラインを超えたと同時にみな一様にキラキラしたものになって、そのまま何処かへ行ってしまうのである。そう――ある日突然「太っていても私は私」「太っていても自分の価値は変わらないことに気づいた」「今の自分こそがありのままの姿」などとキラキラしたことを言い出して――そのままお星さまになった。ええとあの……自分の体は大切にしてください。太っていても人の本質的な価値は減らないけど、寿命は確実に減っていくんだから。

心の幸福と体の幸福

自分を大切にするためにダイエットに臨むのか、自分を大切にするためにダイエットを止めるのか。それは人と時と場合によりけりである。生活習慣病の人間には前者の心意気が必要だし、摂食障害の人間には後者の勇気が必要だ。ここを取り違えると体側から壊れていったり、心側から壊れていったりする。

ところで自分の心を幸せにすることと、自分の体を幸せにすることと、果たしてどちらが真の優しさなのだろう。笑いながら大福を頬張ることが優しさである場合もあるし、泣きながらほうれん草を噛むことが優しさである場合もある。 心を労わるにしろ、体を労わるにしろ、「自分に優しく!」と言いながら自分をぶん殴っていることに変わりはない。優しさという暴力で常に自分を痛めつけていなければ、人はうまく機能しないのである。状況によっては心に全力の張り手をぶちかましたり、体に本気のタックルをお見舞いしたり。優しさパンチ!自分は死ぬ。

手放してもいい言葉がある

お気づきだろうか。私はここまで自分に”厳しく”という言葉は1度も使っていない。自分に厳しくある必要はないと気づいたからである。自分に優しくしてもいいと気づいたからである。同様に、自分に”甘く”という言葉も1度も使っていない。自分に甘くない人間なんていないからである。ところでダイエットについてそんなに書いてないですよね。はい。

神様のファインプレー

ところで仮に砂糖や油が健康に良かったら、世の中はどうなっていたか。砂糖や油を食べれば食べるほど健康になるシステムであったならば、とうの昔に地球は砂糖と油を作るための惑星型プラントとなり、人類は砂糖と油を無尽蔵に貪り尽くすモンスターと化し、諸々を巡って世界各地で争ったりとなんやかんや。その一方で正史では生活習慣病等が原因で死んだ偉人が生き永らえることで歴史がごっそり変わりなんやかんや。生態系も変わりなんやかんや。あっだめだこれ。

 

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「ブログ論」についてのブログ論、についての覚書|これも私の「ブログ論」

ブログあつめ

「購読中のブログ」を分類する機能が欲しい。はてなブログを開くたびにそればかり思う。

ジャンルごとに整理したり、特にお気に入りのブログを集めてフォルダ分けするのもいいが、私は是非とも「やばいブログ」「少しやばいブログ」「そんなにやばくないブログ」「やばくないブログ」「危険物」などに分類したい。同じ「日記」というスタイルを取っているのに、どうしてこうも雰囲気が違うのだろう。冒頭の挨拶ひとつ取っても安心と信頼の「みなさんこんにちは!」スタイルもあれば、一行目から「お前は一体何を言っているんだ!」と叫びたくなるようなブログもある。どちらが良いとか良くないとかではなく、その違いそのものが面白い。そんなわけで時間を見つけてはせっせせっせと様々なブログを集めている。

増殖するブログ論とそれについての考察

巷では「ブログ論」なる分野があるらしい。読まれるブログとは、読者が増えるコツとは、収益を増やすコツとは、継続の秘訣とは……アフィリエイトブロガー向けのブログ論もあれば、一般ブロガー向けのブログ論もある。私はここで、ブログ収益拡大を目指す人向けの本格的な解説「運営論」と呼び、一般ブロガー向けアクセスアップ、ネタ作り、モチベーション維持などについての解説「ブログ論」と呼び分けておきたい。

その「ブログ論」の方に関して、少々興味深い記事を見つけたので紹介。

keicob.com

ゲーム実況ならぬブログ運営実況、というところでフフッとなった。ブログ運営実況、なるほど言い得て妙だ。自分が今まさにやっているブログ運営について実況するのだから、反省や今後の展望などスラスラと出てきて楽しかろう。そしてそれをこねくりまわして綺麗に整形すれば、あっという間に「ブログ論」の完成……おっと?

いつも通り考えることに移ろう。何故人は「ブログ論」を書いてしまうのか。どうして似たり寄ったりの「ブログ論」記事が量産されてしまうのか。どうして「ブログ論」ってあんまり面白くないのか。

 ◆考察その1。「ブログについて」書かれたものは自動的に「ブログ論」になるから。天邪鬼単純!「ファッションについて」書かれたものは「ファッション論」だし、「コーヒーについて」書かれたものは「コーヒー論」だし、「メロンパンについて」書かれたものは「メロンパン論」である。だから「ブログについて」書かれたものは「ブログ論」である。そもそも「ブログ論」の具体的な定義とは何ぞや?みんなブログ論ブログ論言うけど、「ブログ論」の定義について考察した人はいるのか?「ブログ論」について考察出来るほど「ブログ論」を読み比べた猛者は存在するのか?定義が無いのだから、「ブログについて」何を書いたって「ブログ論」になる。ブログも十人十色なんて言うけれど、ブログを上手くやっていく方法について考えたときに、そこまで個人差が出るとは思えない。おやおや私は導入と違うことを言っているぞ。揚げ足取りというか言葉遊びみたいなものだが、定義が無いとこうなってしまうわけだ。

だから逆説的に言えば、「ブログ論」なんてものはなく、「ブログについて書かれた記事」があるだけで、それを我々が「これはブログ論、これはそうでない記事」と勝手にカテゴライズしているだけなのではなかろうか。人によって「ブログ論」の線引きも変わるだろう。「みなさんこんにちは!ブログって奥深いですよね!」から始まり、目次を用意して、「いかがでしたか?」で〆る記事のみを「ブログ論」と見なす人もいれば、ブログについてつらつらつらつら段落分けもせず一息で熱く語っている記事を「ブログ論」と見なす人もいる。た、多分。

◆考察その2。「ブログについて」を無邪気に書くことが非常に難しいから。今日食べたもの、今日行った場所、今日やったこと、そういう内容は自身の感じたこと(=主観)をありのまま伸び伸び書けるのに、「ブログについて」書くとなると、途端に客観へ寄ってしまうというか、分析的な内容になってしまうというか、結果的に「ブログ論」じみた記事になるのではなかろうか、と。ブログに関することを書こうとすれば、自ずとアクセス数、読者数、検索、ランキング、そういったものが顔を出してくる。そういったもの無しでブログについて書くことはなかなか大変だと思う。私は語彙力が無いので、ブログに関する記事を書こうとすれば自ずとそういった客観的な数字に頼らざるを得ないだろう。言葉の代わりに、数字を使うのである。

ブログと私たちのただならぬ関係

なんだかぐちゃぐちゃしてきたのでこのあたりで〆に移ろう。

我々はブログというサービスを使ってブログを書き、ブログを書いたことについてまたブログを書く。そのうち、ブログそのものについて書きだす。我々が使う側で、ブログというサービスが使われる側であることは確かに間違いではないのだが、それよりもむしろこう、我々はハムスターでブログは回し車、と言い表した方がしっくり来る。どっちが使ってるんだか使われてるんだか分からない関係。我々がブログについて書いているとき、ブログもまたブログについて書かせているのだ。

本当の結論

好きに書けやーい!

 

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休む練習についての覚書|休もうとして休んでみたり休むために休んだのに休めなかったり

答えは得た

確信した。私は確信した。これは確かなことだ。確からしいことではない。

休日鬱は確実に存在する!

 

地獄の36時間

降って湧いた休日であった。あまり気乗りしない休日であった。しかし休みになってしまったものは仕方がないので、なんとか休みを満喫しようとして……またもや失敗した。帰宅後から次の労働までの約36時間、終始グロッキーと形容するに相応しい状態であった。身体が動かなくて、頭も真っ白で、何も手につかなくて、洗顔入浴も出来ないし、掃除洗濯も出来ないし、本も読めないし、ブログも書けないし、実況動画も見れやしない。いつの間にか寝て、いつの間にか起きている。やれることといえば、ひたすら宙を眺めるか、Pixivでイケメン同士のチューを眺めるかの二択であった。辞めたソシャゲに超~~~ストライクな新キャラが2名も追加されていたのだけれど私は一体どうすれば良いのだろう。スマホ画面に映るスケベなイラストや小説をぼんやりと、しかし穴が開くほど見つめながら、私は虚無の海をぷかぷかと彷徨っていた。そして気づけば、食パンに菓子パンにスイーツ、それと近頃は滅多に買わなくなったはずのスナック菓子やチョコレート菓子を大量に買い込んで、モグモグモグモグと咀嚼している。いつ買いに行ったんだろう。まあいいや。カロリー?それもまあいいや。モグモグモグモグ。(たぶん)うめえ。

これ以上私のことをつらつら述べても面白くないので、昨晩1番面白かったところだけ抜粋すると、人生で初めて眼鏡をかけ忘れて家を出た。ちなみに、私の視力は0.1も無い。0.05あるかも怪しい。もちろん途中で慌てて引き返した。そしてバイト先に着いた途端脳天真っ二つ待ったなしの激しい頭痛、揺れる視界、落ちる瞼、もつれる足、回らぬ呂律……は、労働をしていたら完璧に治った。やったぜ。

 

休日という言の葉を辞書で引き辞書で引いては溜息をつく(57577)

もう本当に駄目だと思った。休日に休日らしいことが出来ない自分が本当に嫌で、いかそうめん(生)のようにテローンとなった手足を持て余し、無様に開け放った口から空気を吸ったり吐いたりしながら、頭の中で駄目だ駄目だとそればかり唱えていた。昨晩のバイトも行かないつもりだった。行かずにこのまま籠城し続けて誰にも気づかれずに死ぬか、通勤路の途中にある川に身投げして死んでやろうと本気で考えていた。本気でだ!まあそういう気分も労働で2、3時間体を動かしたらさっぱり晴れて、お疲れ様でーすと爽やかに退勤して、こうやってブログを書いているわけだけれども。

私、これから先、休みの度にこんな気分になるの?

おばあちゃんその話題の記事はこの前も書いたでしょ

似たような記事は過去に何件か書いている。

shirokuro-044.hatenablog.jp

shirokuro-044.hatenablog.jp

うわっおんなじようなことばっかり言ってる。恥ずかしい。この記事も恐らくまたおんなじようなことばっかり書くと思う。恥ずかしいのでここで切り上げたい。

ワーカホリックという言葉をアルバイターに適用していいのか分からないし、そもそもワーカホリックなのかも分からない。ただ単に休日するのがヘタクソなだけで、相対的に平日のほうが上手にやれているというだけかもしれない。客は嫌いだ。でも客相手にイライラしたり(しなかったり)している方が、休日にベッドの上でいかの天日干しみたいになって塞ぎ込んでいるよりずっと、ずーっとラクなのだ。接客は嫌いだが雑用は好きだし、とにかく今は店内のあちこちが地獄の様相を呈しているため、片付けたくて仕方がなく、気分が乗った日は退勤してから30分くらい倉庫をゴソゴソしている。一応全国チェーンであるにも関わらず現状責任者らしい責任者が不在でこの店は一体誰が経営しているのだろうという本当にアンビリーバブルな状態なので、本部から来た通達の日付を来るたびに確認して、消化出来るところは消化し、投げられるところは誰かに投げ、周知する事項は周知して……まあ、そういうのが満更でもないのだ。誰もやる人がいないからね!

「うつ」と「休むこと」についての記事

 ここまで自分の近況だけで突っ走ってしまったので、ここから先は有益な情報を引っ張りつついつも通り思索してみようと思う。

toyokeizai.net

私はすぐケロッと立ち直るのでその手の心配は全くしてないのだけれど、やはり「休日に休日できない」というのは何かと危ないらしい。

うつ状態に入ると「休む」ことができなくなるのです。生産性がないだけの1日は「休日」とは言えません。仕事も趣味もやれていないが、かと言って休めてもいない。この無為な疲労の蓄積が、少しずつ人間を蝕んでいきます。

そんなときにいちばん最初にするべきは「何もしない」ことです。「自分は今不調である。だから何もせず休む」というのは、意志ある行動なのだと理解してください。

「自分は何もできない」ではなく「何もしないをやっている」のです。この考え方ひとつで回復量は別物に変化します。

どうやら私が思索する必要はなさそうだ。私が欲しかった結論は全てこの記事に詰まっている。なるほどライターは借金玉氏。大分前にTwitterのアカウントをフォローしていた。なんかあちこちとツイバトルしておられた記憶はうっすらある。

休む不安と休む勇気

ところがこの記事だけで安心を得るには大きな壁があって、私もそうだし大抵の人はそうだと思うのだが、「休む勇気」をエイヤと出すこと。これがまた難しい。

「休む勇気」というのは、単に会社員が有給を申請する勇気とか、フリーターが労働日数を削る勇気とか、そういうのじゃなくて、「これから取り掛かる『休む行為』によって自分は本当に休めるのか」という不安に打ち勝つということである。普通に労働していたら、「自分が満足出来るまで休暇を取ります」なんて休日の取り方はまず出来ない。仮に2週間丸々休日を取ったとして、それで自分は休めるのか?その2週間で確実に休み、回復することが出来るのか?仮に満足行かなかったとしても、カラオケのように延長しまーすとはいかない。元の生活に戻らねばならないのである。その時……その時の絶望に、耐えられるだろうか?こんなにいっぱいいっぱい休みを取って、「何もしない」を実践して、回復に専念して、それなのにまだ満足していない!自分は休みに満足していない!うわあああ!!!

……となってしまったらもうアウトだと思う。そうだ病院行こう。

それで、この記事にある南国バカンスにしろ、ビジネスホテルで「外こもり」にしろ、「休みの日に休めなくて辛い」を通り越して「休んだところで休めるか分からないしそんな絶望するくらいならいっそ休日なんて無ければいい、休日が恐ろしい」となっている人間には、大金払ってリスクを取りつつ更に恐怖体験である「休みを取る」なんてのは二重三重の艱難辛苦なわけだ。 休日そのものが無ければ当然「休みの日に休み足りない」という事象も発生しなくなる。しかし休日が無ければ人間いつか倒れてしまう。でも休日は……怖い。いったいどうすればいいんだ!(混乱)

頑張って 頑張らないで 頑張らないことを頑張って休もう

やはりまず必要なのは、「休めなくてもいいから形だけでも休んでみること」。休めなくたっていい。辛くても最初のうちは仕方がない。取り敢えず1日でも2日でも、「休むぞ!!!ウオオ!!!」と自分を奮い立たせてみる。休む練習をする。それで休めなくても、別によしとする。「休むために休んだのに休めなかった……」と落ち込むかもしれないが、それでもよしとする。そうやって休む練習を繰り返し繰り返し……待て待て休む練習ってなんだ?自分は一体何をやっているのだ?……などと思っても、それ以上は考えないようにする。言うなればこれらは「勉強に取り組む前に勉強の方法についての本を読んでいる状態」、あるいは「勉強の方法についての本を活かすためのネットコラムを読んでいる状態」で、とにかくめちゃくちゃ回りくどいのだが、休めない人間にはそれくらい必要なのだろうなあ。

それと話をデカくするようだが、「自分を大切にしようとする意識があるか無いか(多いか少ないか)」も、休む練習を易くするか難くするかを左右しているのだな。休めない人間は自己評価が低く、心のどこかで「自分に休む価値などない」と思っている。休むのに価値は必要ない。休むのに価値が必要なら、死ぬことにだって価値が必要だろう。でも死ぬときゃみんな死にますから。価値のない人間もいつか必ず死にますから。ワッハッハ。

結局、金

そうやって休むためには休んでいる間の生活費が必要になるわけだから、結局労働は必要なわけで、生活費を貯め休日に休日する練習を積んで休日に休日出来るようになるのが先か、病院の天井を眺めることになるのが先かという地獄のレースが、今まさに、開幕しようとしている。怖。

 

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捨てたり捨てなかったりすることについての覚書|思い出を処分するときの柔らかな痛み

どこに出しても恥ずかしくない立派なツイ廃

使わなくなったTwitterのアカウントをどうしようかと考えている。2010年10月から利用していたアカウントで、24万件のツイートがある。この9年弱の期間に起こった出来事ほぼ全てが記録されていると言っても過言ではなく、無料のサービスによくもまあここまで人生をぎゅうぎゅうと詰め込めたものだと自分でも思う。そのアカウントを、潔くすっぱり消してしまうか、一応残しておいて時々ブログのネタ探しにでも使ってやるか、悩ましく思う次第である。

実体のないものが実体のないものに宿る

9年。9年だ。私の人生の10分の1よりおそらくは多いであろう年数の出来事が、あのアカウントに詰め込まれている。あのアカウントを掘り返せば、大学に合格した時のツイートも、大学を退学した時のツイートも、全部出てくるのである。怖っ。それに9年の間で熱中したジャンルも移り変わり、フォロワーもフォロイーもごっそり入れ替わった。最後のフォロワーもソシャゲ辞める直前に全員切っちゃったので今はフォロワーらしいフォロワーもいない。

「モノには思い出が宿る」というけれど、SNSアカウントそれ自体という実体のないものに思い出が宿ってしまって、もう、なんということをしてくれたのでしょうという気持ちでいっぱいだ。アカウントが思い出ツイートで構成されているのではなく、アカウントそのものが思い出なのだ。仮にツイートを全削除しても、空っぽになったアカウントそのものがまだ最後の思い出として生き残ってしまうのだ。扱いにくいったらありゃしない。少しだけちぎって取っておくことも出来ないし、火を点けてお焚き上げすることも出来ない。ああでもTwitterに限らず、現代においてはこういう実体のないものの処分も要求されるのか。実体のあるものと実体のないもの両方に構ってあげるのはしんどいな。旧きアナログ人間に回帰するか、いっそ自分自身が実体を持たないデジタルな存在になってしまいたい。

部屋がどんどんよそよそしくなる―そのうち入れなくなりそう

話は変わるが、近頃は黙々と部屋を整理して、長年持ち続けてきたものを捨て、理想の部屋を作るためにあれこれと新しいものを増やしている。全体はまだ雑然としているものの、モノトーンアイテムがどんどん増えて、部屋から色が消えていくのを見るのは清々しいものだ。ところがこれらの新しいものたちに思い出が宿っていく気がどうにもしなくて、なんだかぞっとする。彼らは部屋を整えるためだけに連れてこられたインテリアのエリートだが、偶然出掛けた先で偶然見つけて偶然購入したという偶然の縁でここにいて、ぶっちゃけ別に彼らじゃなくてもいい。こう意識した途端に惚れ込んで連れてきたはずの彼らが非常によそよそしく冷たい存在に見える。鑑賞はさせてくれるし近くにも居させてくれるが、そこに手を加えることは許してくれない。読み取り専用ファイルみたいな。

”すべてを捨てた”

先日読了した田口ランディのノンフィクション作品パピヨンにこのような場面がある。

茨城の実家を処分し、湯河原のマンションに移り住んできた父の家財道具は、どれも私が子ども時代に慣れ親しんだものだ。物持ちのよかった母親のおかげで、50年の歳月に耐えてきた茶だんすや鏡台は、見ているとやはり懐かしく、すっかり忘却の彼方へ追いやっていた家族との思い出が蘇ってくる。死んだ兄が中学時代に工作で作った状差しまで、大事に使われていた。私が修学旅行で買ってきた筑波山のカエルの置物もとってあった。父の誕生日を祝った湯飲み茶わんや、母の日に贈った化粧ポーチまであった。

それらすべてを捨てた。私に必要なものはなにもなかった。私には私の生活がある。18歳の時に捨てたはずの家を、この年になってもう一度捨てるとは思ってもみなかった。

田口ランディパピヨン』(角川学芸出版、2008)

 茶だんす。鏡台。状差し。置物。茶わん。ポーチ。それらがあたかも私の目の前に並んでいるような錯覚を起こした。これらについての写真もなければ、詳しい描写もない。色も、形も、大きさも、何も分からない。しかしこのページに目を通しながら、田口ランディがこれらの物品をずらりと従えて私の前に現れ、「これはね……」と1つ1つ説明してくれているような、そんな感覚に陥ったのだ。そして――「それらすべてを捨てた」。この一文が、私の見ていた温かな幻を一瞬にして攫っていった。茶だんす。鏡台。状差し。置物。茶わん。ポーチ。全て私の前から消えた。田口ランディの幻も消えた。それらに染みついた汚れとほこりの幻だけが少しだけ長く輪郭を留めていたが、それもすぐに消えてしまった。しばらくの間、私は身動きがとれなかった。喪失感という釘に背後から勢いよく打ち抜かれて、私はそのページに縫い付けられた。標本箱の中の蝶(パピヨン)のように。赤の他人のかつての持ち物が幾つか、この世から永久に消失したという、たったそれだけのことなのに、どうしてこんなに悲しいのだろう。悲しい。悲しくて悲しくて仕方がない。私の心ごと、あれらの幻が連れ去ってしまった。いや、私の心が着いて行ったのだろうか。田口はこう続けている。「私に必要なものはなにもなかった。私には私の生活がある」と。それなら、いいじゃないか。そうだろう?

間違いなく死んだはずのたんすが突然息を吹き返した気がして怖くなる

たんすを処分しようと思っていた。子供の頃からずっと使っていたもので、シール痕だらけの傷だらけな上に完全にガタが来てあちこちの板が外れ、もはや6段中使えるのは3段しかない。部屋を圧迫するばかりの置物状態で、中には1着の服も入っていない。昨日まで、未練なんか全くなかった。なんとかして今月中に捨てるつもりだった。

参った。

ひどく捨てづらい。

 

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