珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

手のかからないものたちについての覚書|疲労が溜まると抽象的になりがち

時間はいつから流れているの

時間とはよく出来たものである。私がわざわざ手を加えて流してやらなくても、勝手に流れていくのだから。いつも気づいたら夜になっていて、夜が流れて朝に替わり、朝が流れて昼に替わり、昼が流れてまた夜に替わる。私が手を加えなくても。トイレの水もレバーさえ捻れば勝手に流れるし、そうめん流しも茹でた麺を高い位置に置いてさえやれば勝手に流れていくのだが、時間にはそうやってレバーを捻ったり麺を置くような手間すら必要ないのだ。すげー。どんどん流れていく。

手のかからないいい子たちです

忙しない現代において、手のかからないものは良いものだ。前述のとおり時間は手を加えずとも流れていくし、空間だってそうだ。我々がわざわざ手を加えなくともそこにある。宇宙……は空間と実質同義だが、まあ宇宙も別枠で手がかからないということにしておこう。存在や概念も本来は手がかからない、我々には手の加えようのないものだと思うのだが、紀元前、哲学者にとっつかまって以降、あれこれこねくり回されている可哀想な奴らである。神様は……一方では手のかけようがこれっぽっちもなかったり、一方ではめちゃくちゃ手がかかったりするその二面性において、結果的にめちゃくちゃ手がかかっているのである。創造主を創造したのは誰であるか?これ以上はいけない。

よく分からない物事に思いを馳せる

手のかかるものは疲れる。具体的なものも疲れる。現実なんてまさに「手のかかる、具体的なものの集まり」なのだから、くたびれ果てるのも道理である。それらと格闘することに疲れたら、手のかからない抽象的なものについて考えてみると、なんとなく落ち着く。時間。空間。それ。あれ。これ。「抽象的なもの」という抽象的なもの。哲学は、私のようなアホには手のかけようのない品なので、却って安心しながら読んでいる。何回読んでも理解出来ないということは、理解出来るまで何回でも読めることなのでおトク。時間や空間の始まりや繋ぎ目や終わりに思いを馳せる。時間や空間の始まりや繋ぎ目や終わりってなんだ?分かりません。それが手のかからない抽象的なものだということ以外分かりません。

「いい子」

ところで現代社会における「手のかからない子」に付与されるあの物悲しいイメージは一体何なのだろう。「手のかからない子」はすなわち「いい子」で、「いい子」とはよいものではなかったのか。「手のかからない子」と言われた時、キビキビシャキシャキ動けて、自分の面倒はきちんと自分で見て、親や先生の言うことに「ハイ!」と大きな声で返事を出来るハツラツとした将来有望な子供、という想像を出来る人が一体何人いるだろう。控えめで、物静かで、大人の言うことは何でも聞いて、揉め事とは無縁の、どこか抑圧されたような子供ばかり想像してしまう。「手のかからない子」のイメージは昔からそうだったのだろうか。それとも、現代になってから?むしろ前者はエリート層における「手のかからない子」、後者は一般層における「手のかからない子」という感じだろうか。子供とはてんで無縁なもので、わからん。

頭と体の輪郭が崩れていく

近頃自分のブログ記事の内容まで抽象的になって来ているのを薄々感じている。低気圧の影響をモロに食らうタイプのためか、とにかく頭が回らないので、抽象的なことしか言えなくなっている。頭も回らないし体も回らない。以前はどんなに忙しくても必死に動き回って「お゛わ゛り゛ま゛し゛た゛」と一応言えていたのだが、なんか気づいたら退勤時間でアレェ!?となることが増えてきている。頭が回らなくてブログ記事が抽象的になるくらいならまだしも、体が回らなくて仕事が終わらないのは相当マズい。私の体も、勝手に流れていってくれないかな。手のかからない抽象的な奴らみたいに。

 

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自分を手放す行為もしくはヤケクソな生き方についての覚書|自意識という病

「生きやすい」という不思議な心地

おお……人ってこんなに生きやすくていいのか。そう思えるくらいここ最近急に生きやすくなった。落ち込んでないし、怒ってないし、責めてないし、疲れてないし、悩んでない。気分がとてもサッパリしていて、口は軽やかで、脳内はとてもクリアだ。もしかするとほんの一時的な、あんまり考えたくないがいわゆる躁状態的なアレかもしれないが、幸いにも気分が良い理由が判明しているので、またオチそうになったときの救済策としてここに記しておく次第である。

自分に焦点を当てないこと

脳内がクリア、と書いたがつまりそれは思考が絡まっていないということだ。考えることが減ったということだ。とはいえ仕事中は仕事のことをめちゃくちゃ考えているし、ブログのネタについても日々めちゃくちゃ考えているし、先日から突然閉まらなくなった冷蔵庫のドアについても頭を抱えながらめちゃくちゃ考えている。誰か助けてください。

では何を考えることが減ったのか。単純に、自分自身について考えることが減ったのである。意図して減らしたわけではなく、ある日突然フッと減った。不思議な感覚だ。もしかしたら無意識のうちにヤケになったのかもしれない。それでも気分がとても軽い。ヨッコラショと意識して駒を進めなくとも自分の時間は勝手に進んでいくのだから、全自動双六になったつもりでゴールを目指せば良いのではないか。

自分自身について考えすぎないこと。ライフハックっぽく言い換えるなら、自分にフォーカスしないこと。以下、ラクに生きたいのならフォーカスするべきではない点についてぼんやり考えた結果。

 

1.過去の自分の発言や行動にフォーカスしない

過去の自分が何を言って、どういった行動をしたか。そういう記憶が頭の中を延々ループしてしまう人は一定数いるらしい。恥ずかしい、情けない、申し訳ない、みっともない……のような、負の感情の中でも特別タチの悪い「みじめ」というカテゴリーに属するものが自分の中でぎゅうぎゅうのパンパンに膨らんでいくあの感覚は、何度味わっても慣れるものではない。こういった物言いは好きではないのだが、変えられない過去について悩んで負の感情にどっぷり浸っているのはあまりにも生産性がなさすぎる。反省しなくていい部分はしなくていい。反省するエネルギーは、本当に反省する必要がある場面まで取っておこう。

2.自分の価値にフォーカスしない

複数名がいる場で自分に話が回ってきたとしよう。その場にいる全員の視線が自分に集まっている。自分の発言を周りが待っている。その期待(実際は特に何も期待していなくとも)の重さがそのまま自分という意識の重さになり、自分の意識も自分にどんどん集中するという負の連鎖で、自意識は重量を増しどんどん地面にめり込み、目の前が真っ白になって……めり込んだ地点がそのまま自分の墓場になる。

集団の中にいるとフリーズしてしまう人の場合、意識的にしろ無意識的にしろ、「これだけの人数の中で何かを行為する権利が自分にはあるのか?」「これだけの人間に干渉する/されるだけの価値が自分にはあるのか?」という問いかけが常に自分の中を巡っているのだ。「集団」そのものに対してでも「集団の中の他人」に対してでもなく、「集団の中の自分」にばかり目が向いている。大海の中に割り箸を突っ込んでチョチョイとかき回すような、たったそれだけの行為を恐れている。あなたは海面に突っ込まれた1本の割り箸である。混ぜる真似事をしてみたり、刺す真似事をしてみたり、割り箸は割り箸らしいことをすればいい。海はその程度で溢れたりしない。

3.自分の将来にフォーカスしない

明日のことを今思い悩むのはやめよう。聖書にもそう書いてある。未来の景色は誰にも分からないけれど、かといって無機質に塗り潰されたブラックではなく、よーく目を凝らせば何かが見えそうな深いグレーをしている。暗順応と呼ばれるアレに似ている。だから皆どうにかこうにか目を凝らして深いグレーの中から何かを見出そうとしている。とはいえ将来について何も考えずに生きられる人間はそうそういるまい。将来のことを考える行為を手放せる人間はある意味幸福だ。ヤケクソになれる人間はある意味幸福だ(というヤケクソ)。見えぬ将来のことを思い悩まずに生きられるのは、諦めた者の特権だと思う。未来の選択という煩わしい行為を捨ててベルトコンベアのような一本道で生きられるのは、持たざる者の特権だと思う。転がり落ちた人間は強い。

 

 以上、ぼんやりとした分析である。自分にフォーカスしない方法論については……またいつか考えるかもしれないし、考えないかもしれない。

心の声が正しいとは限らない

よく「自分の心の声を聴く」とかいうけれど、正直言ってそんなん素人が滅多にやるもんじゃないと思う。人によっては間違いなくドブ沼に落ちる。現在進行形で気が滅入っている人は、少なくとも「ライフハックブログに載っていたから」なんて軽い気持ちでやるべきではない。気が滅入っている状態における心の声などリビングデッドの呼び声に等しい。メンタル好調で、現実に大きな悩みは今のところ特に無し。そういった好条件の元で更に一歩先へ進みたい人だけがやるべきだ。自分の心の声が綺麗事を言ってきたらうるせえバカで突き放す。汚いことを言ってきてもうるせえバカで突き放す。

自分を手放す。これ最強。

 

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言葉のストックを増やす試みについての覚書6|聖アウグスティヌス『告白(上)』より~その2~

前回の記事はこちら。

shirokuro-044.hatenablog.jp

軛(くびき)

① 車の轅ながえの先端につけて、車を引く牛馬の頸の後ろにかける横木。 → 牛車ぎつしや

② (比喩的に)自由を束縛するもの。 「国家の-から脱する」

三省堂大辞林 第三版』

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Cgoodwin [CC BY-SA 4.0], ウィキメディア・コモンズ経由で

世界史で登場する重要ワードタタールのくびき」、その「くびき」である。Wikipediaによれば13世紀前半に始まったモンゴルのルーシ侵攻とモンゴル人によるルーシ(現在のロシア・ウクライナベラルーシ)の支配を指す、とある。妙に語感が良いため単語そのものは記憶に残っていたのだが、ロシアとか、モンゴルとか……なんかその辺りはさっぱりなんだ。我々は皆、社会のくびき。とはいえこのくびきが無ければ、きっと宇宙に放り出されたような気分になって、結局また、心地よい拘束具を求めてうろうろしてしまうんだろう。「自分だけが自由」なのは、「自分だけが不自由」なのと大して変わりない。

衷心(ちゅうしん)

心の奥底。まごころ。 「 -より御多幸をお祈り申し上げます」 「 -から哀悼の意を表します」

三省堂大辞林 第三版』

 「和洋折衷」の「衷」。「衷」は訓読みで「うち」「こころ」「まこと」と読む。「和洋折衷」ばかりが有名だが、折衷シリーズは和洋の他に「雅俗折衷」「斟酌折衷」がある。なんかもう作ったもの勝ちな気がするので気が向いたら適当に作ってみよう。

滔々と(とうとうと)

トタル ) [文] 形動タリ  ① 水が勢いよく、また豊かに流れるさま。 「 -と流れる大河」

② よどみなく話すさま。弁舌さわやかなさま。 「 -とまくし立てる」 「 -と雄弁を揮ふるつて/片恋 四迷」

③ 物事がある方向によどみなく流れゆくさま。 「 -たる時代の流れ」

三省堂大辞林 第三版』

「弁舌さわやか」ってめちゃくちゃいい響きですね。 

香柏(こうはく)

植物。ヒノキ科の常緑針葉高木,園芸植物。ヒノキの別称。

日外アソシエーツ『動植物名よみかた辞典 普及版』

 うーん、雅。

訥弁(とつべん)

つかえたりして、なめらかでないへたなしゃべり方。 ⇔ 能弁 「 -だが真情のこもった話」

三省堂大辞林 第三版』

 私のことかな?

台本も無しにスラスラと言いたいことが口から出てくる人の脳って一体どうなっているのだろう。担任教師による長話も学生時代は煩わしいばかりであったが、今考えるとよくもまあ、あのようにスラスラ言葉が出てくるものだと感心する他ない。本当にどうやって言葉を出してるんですか?こちとら1対1の日常会話ですら難儀しているというのに。今だから言えるが、若いうちから人前に立って自分の意見を述べる練習はしておくべきだ。マジで。そういう機会は金を出してでも買うべきだ。対面や肉声を用いないコミュニケーション手段が増えたこの時代だからこそ、人前で弁論する訓練に身を投じる者は、必ずや報われるであろう。

ちなみに私は今のバイトを始めてから、それまでの数倍は言葉がパッパと出るようになったと思う。要件を的確に短文で伝えることも含め。従業員同士の連携が超重要なので、始めた当初は四六時中人にお願いしたりお願いされたりするストレスで禿げそうになったが、慣れてしまえばこちらのものだ。自分でやれるところは相手のためにやる、相手に任せられそうなところは自分のために任せる。信頼とコミュニケーションの必要性に押しつぶされて死にそうになりながら、それでもなんとか生きられている。あとこれは予想外な副産物なのだが、めちゃくちゃ気が強くなった。ズバズバ言うようになった。人間変わるものである。

燦然(さんぜん)

トタル ) [文] 形動タリ  涙を流すさま。 「 -として一掬の涙を紫の袴の上に落した/吾輩は猫である 漱石

三省堂大辞林 第三版』

「さめざめ」を使い潰したら使います。 

 

『告白』上巻は、アウグスティヌスの人生録であると同時に、彼の母モニカの人生録でもある。アウグスティヌスの奔放な若年時代と、やがて彼がキリスト者として目覚めていく過程は、彼の母の逞しい忍耐と格別の慈愛無くして語れぬであろう。あの強き母無くしては、アウグスティヌスが聖人と称されることは無かったであろう。アウグスティヌスの告白、引いてはこの書物、その全ては、母モニカのためにある。上巻のラストは、母への祈りで締めくくられている。

このようにして、わたしの母がいまわのきわに、わたしに願い求めたものが、ただわたし一人の祈りによるよりも、多くの人びとがわたしの告白を読んで祈りをささげることによって、もっと豊かに母のために与えてください。

祈りは聞き入れられた。

 

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文章論――言葉と音についての覚書|耳でブログを書く女の世迷言

想像力が足りない

日記やエッセイもどきであれば比較的サラサラと量産出来るのだが、小説、詩、短歌、俳句、そういったものの創作はてんでお手上げだ。自分の頭のどこを絞れば架空のマチや架空のヒトが生まれてくるのかさっぱり分からない。自分の頭のどこを揺すればあの流れ星のような言葉たちが落ちてくるのかさっぱり分からない。もう無から有をひり出すとかいうレベルじゃない。むつかしい論文を読んでそれに対するお前の意見を何万字で書けとか言われた方がまだ筆が進むと思う。「物書き」という点では共通していても、それぞれの分野で大いに向き不向きがある。とにかく、私の頭は物語や詩歌を書くのに向いてない。

ぐだぐだ

とはいえ、書いてみたいという意欲はあるのだ。意欲だけは。例えば短い物語を書くとして……まず舞台。私は家の中とコンビニとスーパーくらいしか知らないので、このうちのどこかになるだろう。次に登場人物。書くとしたらやっぱり女子高生だよな!女子高生以外なら……女子高生以外に私は何の職業を知っているのだろう。女子高生とフリーターくらいしか知らない。それで肝心のシナリオだが……何かをするのだ……女子高生が……何かを。私は「すること」について何を知っているのだろう。「すること」について知らなさすぎるのではなかろうか。私は彼女に一体何をさせれば良いのか?女子高生は何をするんだ?勉強?私自身は部活に入ってなかったので、勉強。スーパーやコンビニで勉強はしないだろう。じゃあ家の中。女子高生が家の中で勉強する話。なるほど。……なるほど?

創作についての話題はもうやめにします。別の話題にします。

文章を書く上でのポリシーみたいなもの

先日「ブログ論」について少し触れた。それと同じく「文章論」というカテゴリーもまた、自身の経験を基にそこそこ書けてそこそこ形になり、そこそこ需要があってそこそこ集客を見込める安定した分野だと思う。折角なので1度はそれっぽいことを書いておくことにする。

五線譜に音を置くように

私が文章を書く上で1番気にしているのは、音。リズム。テンポ。文章は、耳で視るもの。格式高い言葉とか、美しい表現とか、そういうものは一旦抜きにして、とにかく耳に心地の良い文章を書きたい。私の頭の中には朗読者が住んでいる。文章を書きながら彼(彼女)にリアルタイムで読み上げてもらう。彼(彼女)が「読みづらい」「舌がもつれる」「違和感がある」と言った部分は即座に修正し、OKが出るまで読み上げと修正を繰り返す。彼(彼女)の朗読には絶対の信頼を置いている。

どうしようもないこだわりにどうしようもなくこだわってしまう

では彼(彼女)はどういう文章に難色を示すのか。上の文章丸々、音の悪い文章に変えてみよう。あくまで、私(と朗読者)のドドド主観なので何言ってんだコイツ程度に流し読みして頂きたい。むしろ読まずにすっ飛ばしても構わない。

私が1番文章を書く時に気にしているのは音とリズムとテンポ。文章は、耳で視るもの。格式高い言葉とか、美しい表現とか、そういうのは一旦抜いて、とにかく耳に心地良い文章を書きたい。私の頭の中には朗読者が住んでいる。文章を書きながら彼(彼女)にリアルタイムで読み上げてもらう。彼(彼女)が「読みづらい」「舌がもつれる」「違和感がある」と言った部分は即座に修正し、OKが出るまで読み上げと修正を繰り返してもらう。彼(彼女)の朗読には絶対の信頼を置いている。

●NGポイント1「時に気に」:「に」が続くのが嫌だし、「ときにきに」はスタッカートのように舌が跳ねるので嫌い。

●NGポイント2「1行目の読点前後の音数のバランス」:「私が1番文章を書く時に気にしているのは」と来て、「音とリズムとテンポ。」と続くのが、なんかこう中途半端にころころ落下している感じがする。いっそ「気にしているのは、音。」とガクッと落としてやったほうが切れが良い。

●NGポイント3「そういうのは一旦抜いて」:「そういうの」が幼い印象を受けるのもそうだが、短い文が読点を挟んで3つ続くのはくどいと思う。「そういうの」を「そういうもの」に、「抜いて」を「抜きにして」とすることで音の数を調節。

●NGポイント4「心地良い」:読者が「ここちよい」と読んでくれたら問題ないのだが、「ここちいい」と読まれると少し困ってしまう。「ここちーー」と聞こえるのがヤダ。「心地よい」と書けばいいのだが、「良い」という字が好きなので仕方がないのだ。「心地よい」ってちょっと赤ちゃんみたいで私のブログには可愛いが過ぎる。

●NGポイント5「て」:少し後に続く「OKが出るまで」の「で」と音が被るのがモヤモヤするので要らない。

●NGポイント6「繰り返してもらう」:少し前にも「もらう」があるので、アレさっきも読んだよねというデジャヴの原因になる。

6つのうち1つでも分かって頂ければ僥倖だ。私にとっては大切なこだわりでも、文章全体からすれば大した意味を持たないだろうし、修正しようが修正しまいが文章の質に変わりはないだろう。でもやっぱり……気になるものは気になるのである。音が。

結論:私は耳でブログを書いている

私はどちらかといえば詩よりも短歌や俳句、川柳の方が好きだ。予め耳に心地の良い枠が用意されているから。しかもその枠が神懸り的な美しさで、最早手の加えようが無い程に完成されており、どんなに言葉選びがヘタクソでもセンスが壊滅的でも、枠にさえ収まっていればそれらを補って余りあるほどの高貴さがそこにはある。アンパンマン カレーパンマン しょくぱんまん」。字余り。今あなたがこれをリズミカルに読み上げられたのなら、私の言った内容のほぼ全てをご理解頂けていることだろう。古典の授業で習った漢詩、五言律詩とか七言絶句みたいなアレも、書き下し文の耳当たりの良さが最高なので好き。対句。そう対句が好き。あっ私って対句が好きなのか!当ブログにおいても対句ならぬ対文を多用しているので、他の記事を読む機会があれば探して頂きたい。この記事でも既に、1つ目の段落で使用している。一方で詩の自由すぎる音は時折私を不安にさせる。声に出して読んでいなくとも、舌が回らないのである。

良い文章です

意味の分からないことばかり述べた詫びとしてお勧めの記事を載せておく。

www.ryoanna.com

あ~……好き。文章の書き方について解説したこの記事の文章自体が好き。静かに、淡々と、それでいて強く訴えかけたい文章を書きたい人にお勧め。自分には溌溂とした文章やキャッチーな文体は似合わねえや、と思ったらこちらを読もう。

rootport.hateblo.jp

こちらは技法ではないが、文章を書ける人は何をしているかという記事。書ける人になりたければ、知識を入れよう。知識はだいたいのことを救済してくれる。

 

下心があるのでタイトルに「文章論」と入れました。看板に偽りしかない。

 

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外国語に関する特に中身のない覚書|アイムノットファインセンキュー

大人には突然学びたくなる時がある

趣味7割実益3割程度で、気負わずに毎日チョコチョコやれるような勉強を探している。実益全振りの資格を取るのも悪くはないが今更なあという気もするし、なにより試験だなんだとこれ以上自分を疲れさせるようなことはしたくない。真っ先に思いついたのは、英語。1日15分程度でも単語なり文法なり便利フレーズなり多少覚えられるし、いつか役に立つ時が来るかもしれないし。「毎日10個ずつ単語を覚えていけば1年後には相当の単語力が身についている。だから毎日コツコツやりましょう」なんて、似た様なことを誰もが1度は言われたことあるのではなかろうか。今日の単語を1つ頭に入れたら昨日の単語が1つ鼻からはみ出るような人間だっているんですよ。英語以外にも法律やIT分野の用語集だけ買ってちんぷんかんぷん言いながら毎日1つずつ覚えていくのも悪くはない。あとはコーヒー関連とか。

格好良い肩書きを1つくらい持っていたい

コーヒーについて学びたいという意欲(だけ)はある。

aboutcoffee.jp

記事を埋め込んだらなんかタグ丸出しになってしまったがちゃんと閲覧出来るので安心して欲しい。コーヒーソムリエは独学前提なので講座費用がかからず受験料も安価、その上在宅受験可能でかなり取りやすい資格だと思う。自分にあったテキストを本屋で1冊見繕えばそれで十分合格出来るようだ。分かりやすく解説したブログがあったので紹介させて頂く。

7newfaces.com

100均のドリッパーに100均のフィルター乗せてマックスバリュの1番安いコーヒーを入れて年季の入ったタイガーの電気ケトル「わく子」で沸かしたお湯を勢いよくジョババー!!するのもいい加減に卒業したいものだなあ。

気付けば横文字だらけの世界で

実は学生時代にTOEICを受験したことがある。最高は800点。結局1度も活用することなく期限が切れてしまい勿体ない限りであった。

これまでに齧ったことのある外国語は、英語、中国語、イタリア語、フランス語、ラテン語。英語以外は本当に触りも触りなのでノーカン同然だ。中国語は大学の第二外国語、イタリア語はジョジョ5部にハマっていた時に、フランス語は某ソシャゲ最推しのキャラがフランス馴染みだから、ラテン語は興味本位で講義を取って2ヶ月程で挫折。

色々な外国語をやっていると、店の名前とか、商品の名前とか、「これって××語だったのか」と思うことが多々あって非常におもしろい。毎日ベッドに寝っ転がって単語帳を10分眺めておくだけで、次の日いつもの街が少し変わって見えたりする。我々は日本語のみによって生きるのではない。時には英語によって生きたり、中国語によって生きたり、イタリア語によって生きたり、フランス語によって生きたり、ラテン語によって生きたりするのである。ごく簡単な例を挙げれば「レストラン」はフランス語だし、その「レストラン」というフランス語は更にラテン語に由来する。身の回りにあるよくわかんないカタカナの言葉にも、だいたいわかるカタカナの言葉にも、よくわかんない漢字の言葉にも、だいたいわかる漢字の言葉にも、歴史というものが確かにあって、それに気づかせてくれるのも外国語学習の面白いところ。 

ハブアグッドデイ症候群

話題は変わって、これは単に好みの問題なのだが、私は英単語が散りばめられていたり全体或いは一部に英文がつらつら書いてあるようなアイテムがどうにも苦手で、店頭で気になる商品を見つけて手に取りぐるっと回して反対側に「Have a good day!」とか書いてあるのを見るとそっと棚に戻してしまう。庶民的な雑貨屋に売ってるモノには隙あらばハブアグッドデイと書いてある。皿を見てもハブアグッドデイ。コップを見てもハブアグッドデイ。手帳を見てもハブアグッドデイ。ポーチを見てもハブアグッドデイ。限界フリーターに向かって何だそのハブアグッドデイは。そのハブアグッドデイハブアグッドデイいうのをやめなさい。たまにはグッドじゃないデイも悪くないんだぞ。泣いたり、怒ったり、悩んだり、もがいたり、人間らしい、いや人間臭いことが出来るのは、グッドじゃないデイのお陰なのだ。いつもいつもグッドじゃないデイなのは困りものだが、グッドじゃないデイのお陰で我々は人らしくいられるのだ。ハブアグッドじゃないデイ!

 

読者の皆様におかれましては、ハブアグッドデイ。

 

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