珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

文章論――言葉と音についての覚書|耳でブログを書く女の世迷言

想像力が足りない

日記やエッセイもどきであれば比較的サラサラと量産出来るのだが、小説、詩、短歌、俳句、そういったものの創作はてんでお手上げだ。自分の頭のどこを絞れば架空のマチや架空のヒトが生まれてくるのかさっぱり分からない。自分の頭のどこを揺すればあの流れ星のような言葉たちが落ちてくるのかさっぱり分からない。もう無から有をひり出すとかいうレベルじゃない。むつかしい論文を読んでそれに対するお前の意見を何万字で書けとか言われた方がまだ筆が進むと思う。「物書き」という点では共通していても、それぞれの分野で大いに向き不向きがある。とにかく、私の頭は物語や詩歌を書くのに向いてない。

ぐだぐだ

とはいえ、書いてみたいという意欲はあるのだ。意欲だけは。例えば短い物語を書くとして……まず舞台。私は家の中とコンビニとスーパーくらいしか知らないので、このうちのどこかになるだろう。次に登場人物。書くとしたらやっぱり女子高生だよな!女子高生以外なら……女子高生以外に私は何の職業を知っているのだろう。女子高生とフリーターくらいしか知らない。それで肝心のシナリオだが……何かをするのだ……女子高生が……何かを。私は「すること」について何を知っているのだろう。「すること」について知らなさすぎるのではなかろうか。私は彼女に一体何をさせれば良いのか?女子高生は何をするんだ?勉強?私自身は部活に入ってなかったので、勉強。スーパーやコンビニで勉強はしないだろう。じゃあ家の中。女子高生が家の中で勉強する話。なるほど。……なるほど?

創作についての話題はもうやめにします。別の話題にします。

文章を書く上でのポリシーみたいなもの

先日「ブログ論」について少し触れた。それと同じく「文章論」というカテゴリーもまた、自身の経験を基にそこそこ書けてそこそこ形になり、そこそこ需要があってそこそこ集客を見込める安定した分野だと思う。折角なので1度はそれっぽいことを書いておくことにする。

五線譜に音を置くように

私が文章を書く上で1番気にしているのは、音。リズム。テンポ。文章は、耳で視るもの。格式高い言葉とか、美しい表現とか、そういうものは一旦抜きにして、とにかく耳に心地の良い文章を書きたい。私の頭の中には朗読者が住んでいる。文章を書きながら彼(彼女)にリアルタイムで読み上げてもらう。彼(彼女)が「読みづらい」「舌がもつれる」「違和感がある」と言った部分は即座に修正し、OKが出るまで読み上げと修正を繰り返す。彼(彼女)の朗読には絶対の信頼を置いている。

どうしようもないこだわりにどうしようもなくこだわってしまう

では彼(彼女)はどういう文章に難色を示すのか。上の文章丸々、音の悪い文章に変えてみよう。あくまで、私(と朗読者)のドドド主観なので何言ってんだコイツ程度に流し読みして頂きたい。むしろ読まずにすっ飛ばしても構わない。

私が1番文章を書く時に気にしているのは音とリズムとテンポ。文章は、耳で視るもの。格式高い言葉とか、美しい表現とか、そういうのは一旦抜いて、とにかく耳に心地良い文章を書きたい。私の頭の中には朗読者が住んでいる。文章を書きながら彼(彼女)にリアルタイムで読み上げてもらう。彼(彼女)が「読みづらい」「舌がもつれる」「違和感がある」と言った部分は即座に修正し、OKが出るまで読み上げと修正を繰り返してもらう。彼(彼女)の朗読には絶対の信頼を置いている。

●NGポイント1「時に気に」:「に」が続くのが嫌だし、「ときにきに」はスタッカートのように舌が跳ねるので嫌い。

●NGポイント2「1行目の読点前後の音数のバランス」:「私が1番文章を書く時に気にしているのは」と来て、「音とリズムとテンポ。」と続くのが、なんかこう中途半端にころころ落下している感じがする。いっそ「気にしているのは、音。」とガクッと落としてやったほうが切れが良い。

●NGポイント3「そういうのは一旦抜いて」:「そういうの」が幼い印象を受けるのもそうだが、短い文が読点を挟んで3つ続くのはくどいと思う。「そういうの」を「そういうもの」に、「抜いて」を「抜きにして」とすることで音の数を調節。

●NGポイント4「心地良い」:読者が「ここちよい」と読んでくれたら問題ないのだが、「ここちいい」と読まれると少し困ってしまう。「ここちーー」と聞こえるのがヤダ。「心地よい」と書けばいいのだが、「良い」という字が好きなので仕方がないのだ。「心地よい」ってちょっと赤ちゃんみたいで私のブログには可愛いが過ぎる。

●NGポイント5「て」:少し後に続く「OKが出るまで」の「で」と音が被るのがモヤモヤするので要らない。

●NGポイント6「繰り返してもらう」:少し前にも「もらう」があるので、アレさっきも読んだよねというデジャヴの原因になる。

6つのうち1つでも分かって頂ければ僥倖だ。私にとっては大切なこだわりでも、文章全体からすれば大した意味を持たないだろうし、修正しようが修正しまいが文章の質に変わりはないだろう。でもやっぱり……気になるものは気になるのである。音が。

結論:私は耳でブログを書いている

私はどちらかといえば詩よりも短歌や俳句、川柳の方が好きだ。予め耳に心地の良い枠が用意されているから。しかもその枠が神懸り的な美しさで、最早手の加えようが無い程に完成されており、どんなに言葉選びがヘタクソでもセンスが壊滅的でも、枠にさえ収まっていればそれらを補って余りあるほどの高貴さがそこにはある。アンパンマン カレーパンマン しょくぱんまん」。字余り。今あなたがこれをリズミカルに読み上げられたのなら、私の言った内容のほぼ全てをご理解頂けていることだろう。古典の授業で習った漢詩、五言律詩とか七言絶句みたいなアレも、書き下し文の耳当たりの良さが最高なので好き。対句。そう対句が好き。あっ私って対句が好きなのか!当ブログにおいても対句ならぬ対文を多用しているので、他の記事を読む機会があれば探して頂きたい。この記事でも既に、1つ目の段落で使用している。一方で詩の自由すぎる音は時折私を不安にさせる。声に出して読んでいなくとも、舌が回らないのである。

良い文章です

意味の分からないことばかり述べた詫びとしてお勧めの記事を載せておく。

www.ryoanna.com

あ~……好き。文章の書き方について解説したこの記事の文章自体が好き。静かに、淡々と、それでいて強く訴えかけたい文章を書きたい人にお勧め。自分には溌溂とした文章やキャッチーな文体は似合わねえや、と思ったらこちらを読もう。

rootport.hateblo.jp

こちらは技法ではないが、文章を書ける人は何をしているかという記事。書ける人になりたければ、知識を入れよう。知識はだいたいのことを救済してくれる。

 

下心があるのでタイトルに「文章論」と入れました。看板に偽りしかない。

 

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