珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

凡人の凡人による凡人のための覚書|才能って重たそう

アレな人はもしかしたらアレな人かもしれない

アレな客に出くわした際には、「ウーン、もしかしたら天才の人なのかも」と思うことでその場をやり過ごしている。天才と奇人変人は紙一重と云う。目の前にいるアレな客は実は天才芸術家かもしれないし、天才音楽家かもしれないし、天才小説家かもしれない。IQに差が有りすぎると会話が成立しないとか意思疎通が難しいという話もよく聞く。もしかしたら相手は物凄く頭のいい人なのかもしれない。「アレな感じの天才がそう身近にいてたまるか」と思ったら、大学時代の教授で1番アレな人を思い出して欲しい。そういうことである。

「天才」の類義語について調べてみた

とはいうものの、限りなく害の無い天才と、危険表示テープでぐるぐる巻きにしておきたいタイプの天才を一緒くたに「天才」と呼んでしまうのは些か気が引ける。何か適当な言葉は無いだろうか。こんな時のweblio類語辞典以下引用部は全て三省堂大辞林 第三版』より。

きさい【奇才】

世に珍しいすぐれた才気、才能。また、その才能をもつ人。 「天下の-」

それらしいのだが、もう少し危険な香りが欲しい。

きさい【鬼才】

人間のものとは思われぬほどのすぐれた才能。また、その才能をもつ人。 〔同音語の「奇才」は世にも珍しいすぐれた才能のことであるが、それに対して「鬼才」は人間とは思われないほどのすぐれた才能をいう〕

鬼っていうよりもぬりかべとか一反木綿みたいな感じを求めてるんですよね

にゅうしん【入神】

技能が上達し、人間わざと思えないような、すぐれた域に達すること。 「 -の技ぎ」 「術は屈せざる練磨に由りて上達-す/欺かざるの記 独歩」

 神になった。

これは人に対してというより技能に対しての評価なので私の欲する所とは少し違うかも。

アインシュタイン【Albert Einstein】

(1879~1955) ドイツ生まれの理論物理学者。1905年、特殊相対性理論・光量子論ブラウン運動の分子運動理論を発表。いずれもその後の物理学に大きな影響を与えた。16年、一般相対性理論を完成、それに基づく重力理論・宇宙論を展開。20年以降、重力と電磁気力との統一場理論の建設に努力。量子力学形成の過程においても、光量子論のほか、固体の比熱理論、量子統計法などの業績を残した。33年、ナチスの迫害を逃れてアメリカに亡命。熱烈な平和主義者としても知られる。

……個人名ですよね?

以下、weblio類語辞典で「天才」の類語を調べると本当に「アルバート・アインシュタイン」が出てくるという証拠のスクショ。

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これはむしろ「変人」の類語で検索した方がいい気がしてきた。私がここで言っている人物とはつまり、「天才であることに間違いはないのだがそれ以上に素行や言動がアレすぎて第一印象も第二第三の印象にも『ウワッ!ヤベエ奴だ!』以外の感想が思い浮かばないようなデンジャラスパーソン」……危才(きさい)とかでいいですかね。

上には上の上の上の上の上の上がいる

話は変わるが、インターネットは「自分が普通ではないこと」を他人に知らしめるのに最適な場所であり、また同時に「自分が普通でしかないこと」を自覚させられ打ちのめされるのに最適な場所である。その他大勢とは違う異質な存在でありたいと願うことは何一つ異質なことではない。ごくごく健康的な欲求である。身ひとつ勝負の現実とは違って、自分の最も面白い部分だけ切り取ってリングに上がればよいのだから、勝算は現実よりあるかもしれない。最大の問題は、対戦相手もまた自分の最も面白い部分を切り取って登壇してくるということである。自分の最も面白い部分が最も面白い人が勝利である。自分の最も面白い部分の敗北は、自分全体の敗北以上の敗北を意味する。惨い話だ。

人はみな全体であり、一部である

自分は「天才」にこそ遠く及ばないが、も、もしかしたら、こう、「非凡」な人間といっても、か、過言ではなかったりして?誰しも1度くらいは、このような気持ちを抱いたことがあるのではなかろうか。

試しに街中に出て人の往来を眺めてみよう。なんとまあ……なんとまあ平凡な群衆であることか。平凡が服を着て靴を履いてバッグを持って歩いている。平凡が喋っている。平凡が動いたり止まったりしている。全員同じ服に見える。全員同じ顔に見える。全員同じ声に聞こえる。すごい。今なら全員に勝てそう。大勢の平凡を前にして、自分という特別が内側から殻を破って彼らに飛びかかろうとしている。ステイ。このような街中で騒ぎを起こすわけにはいかない。あなたは黙っている。黙って平凡の往来を見ている。黙って平凡な群衆に紛れている。特別なあなたは平凡な群衆の1人である。

「自分」という意識だけが日に日に尖っていく

時々、周囲の人間がありふれた日常を過ごしている中でただ自分だけが鋭敏な感覚を持って生きているような、そんな錯覚に陥る。自分だけが特殊な受容器官を持っているのではないか。イライラもムカムカもピリピリもドキドキも全て自分だけの特殊な感覚なのではないか。人付き合いが嫌いなのも恋愛が出来ないのもタピオカミルクティーに興味が持てないのも自分だけの異常な感覚なのではないか。自分は人間の内面というものを知っているこの世でただ1人の人間ではないか。自分は哲学の答えに手が届くこの世でただ1人の人間ではないか。自分は世界の裏側に到達しうるこの世でただ1人の人間ではないか。もちろん、錯覚である。

わたしは天才ではない。わたしがこの世で生きているうちにわたし1人が哲学の真理にたどり着いたり世界の裏側に到達するようなことはまず無いと思っていい。天才ではないわたしがこの世で掴めることといえばせいぜい、わたしがこの世でただ1人の人間であるということくらい。これはもちろん、錯覚ではない。

 

 

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「あと1時間」についての覚書|こうしている間にも人生はどんどん減っていく

稼ぐに追い抜く貧乏神

「時間はあれども金はない」と揶揄されるのがフリーターだと覚悟していたけれど、「時間もないし金もない」フリーターになるとは思わなんだ。忙しい、とか時間がない、と口に出して言うのは好きではないけれど、これらはなんと便利なものだろう。「忙しい」「時間がない」という蜘蛛の巣を辺り一体に撒き散らしておけば、これから述べる言い訳の聞き手をとっ捕まえて磔にしておけるのだ。哀れにも巣に引っかかった善良なる蝶に向かって、「ああ忙しい、だから~」「ああ時間がない、そのため~」というもっともらしい言い訳をまくし立てる行為が、今日も捗るのである。ところで風呂場に蜘蛛の幼虫みたいなのが10匹くらい居たんですけど誰か助けてくれませんか?

追記:トイレにクソデカ蜘蛛がいました。

 あと1時間だけ

時間が欲しい。自分でバイトを詰めておいてこんなことを言うのもなんだが、時間が欲しい。よくよく考えたら、定時の8時で上がったとして、すぐに支度して帰れば9時頃には家に帰り着くし、そこから1時間家事をしたとて10時で、そこから2時間ブログを書いたり本を読んだりしても12時で、寝る時間だって十分にあるはずなのに、気づいたら既に16時とか17時を回っていて、そりゃ寝坊もする。おかしい。退勤後の時間の流れがおかしい。やってもやっても洗濯が終わらないし、やってもやっても掃除が終わらないし、やってもやっても片付けが終わらないし、しかもそれが毎日毎日続く……なんで?あと1時間欲しい。正確には、「やるべきことを全て終わらせたあとでじっくり腰を据えてやりたいことをやる時間」があと1時間欲しい。

 仕方がないので「やるべきことを全て~」を1時間増やす方法について考えてみる次第である。

 

1日を1時間増やすための方法その1:ブログをやめる

はい、これが1番手っ取り早いですね。今までご愛読ありがとうございました。

 

 

 

……これは私の中で毎日渦巻いているものが出口を失って詰まりを起こして死んでしまうのでやめよう。ブログという排泄口を閉鎖してしまったら内側から破裂してしまう。それに比べれば1時間程度の余暇ごとき何になろうか。なのでやめることをやめよう。食後のデザートとして目の前のシュークリームを速やかに消費することと、もよおした時に我慢せず速やかに排泄することと、どちらが身体にとって大切かという話である。きたねえ例えだ。どうでもいいけどシュークリームに齧り付くとクリームがおしりから出ますよね。いや私のじゃなくて、シュークリームのおしりからです。

1日を1時間増やすための方法その2:家事をやるのにタイマーを使う

帰宅後の家事というのは特に何時までにやらなきゃならないという決まりもないためダラダラ引き延ばされがちで、帰宅後故に体が重くなかなか捗らず、一旦ベッドに腰掛けたが最後そのまま気絶するなどという醜態を晒し……とにかく(私が)クソ。帰宅後即30分後の時刻にタイマーなりアラームなりをセットしそれまでに全部終わらせるようにすれば、それだけで30分は時間が増えると思う。問題は、家事を高速で終わらせたその疲労で気絶しないようにすることである。

1日を1時間増やすための方法その3:コーヒーの量を増やす

行動能率が上がるけれどもブログのタイトルが変わってしまう。

1日を1時間増やすための方法その4:寝ない

寿命も縮んで一石二鳥!

1日を1時間増やすための方法その5:時間が増えたことにする

わーい(思考放棄)

 

時間は全てを解決するか?

そういえば目的?理由?を決めていなかった。1日にあと1時間あったら、「やるべきことを全て終わらせたあとでじっくり腰を据えてやりたいことをやる時間」があと1時間あったら、それで私はなにをしたいのだろうか。何かを始めることだろうか。何かを続けることだろうか。何かを終わらせることだろうか。何かを提起することだろうか。何かを解決することだろうか。まァなんにせよ、ひとまず時間さえあれば、何かがどうにかなるはず、なあそうだろう時間……と時間に対して一方的に期待しているうちは、何かがどうにかなることはない。時間は万能であるが、全能ではない。万と全の間には無限の差が広がっている。

時間はありとあらゆるもの、地球さえも、宇宙さえも、自身のレールに乗せて遥か彼方へ運ぶことが出来る。一度乗ったら死ぬまで(下手すれば死んでも)引き返せない最も大きなレールの上に、更に分岐となるレールがあって、我々は日頃そこに乗ったり降りたりしているわけだ。仮に手持ちが1時間増えたとしても、向かうべき駅を持たない私は、子供の電車ごっこに混ざるようなもので、しゅっぽしゅっぽ、その辺をぐるぐるぐるぐる運行して、それでおしまい。それでは困る。進みたい。1時間で。どこへ?

芸能人ばりのスケジュールをこなすゆるキャラ

誰か私のことも分単位で管理してくれないだろうか。芸能人みたいに。そういえば何年も昔、熊本城へ観光に行ったとき、ちょうどくまモンに出くわした。くまモンはそこにいた子供たちからもみくちゃにされていた。するとくまモンのマネージャー(?)と思しき女性が、「はいくまモン次の現場行きます!!ほら次行くよ!!時間ないよ!!」と大声でくまモンを呼びつけていた。くまモンは子供たちとの別れを惜しみつつもあのプリプリしたケツを揺らしながら走り去っていった。一瞬の出来事で記念撮影すらままならなかったけれど、いいものを見れたと思う。

 

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自分への優しさとダイエットについての覚書|食パンをおかずに食パン食ってる人間の戯言

自分に優しく

もうそろそろ、自分の心に優しいだけでは自分を守れない歳になってきた。逆に歳を重ねるごとに心の方はカチカチになってきて、多少のことではダメージを受けなくなったような気さえする。自分の体にも優しく……優しくしなければならないのである。今回はええと、そう、ダイエット。ダイエットについて書こうと思う。これまで数え切れない程のダイエットに成功したりしなかったりした。今回も成功したりしなかったりできるだろう。

とりあえず再発した二重顎が引っ込むまで自分に優しくします。

宇宙そらにも肥満外来があるといいのだけれど

一時期ダイエットブログを読むのに凝っていた。それも美容系ダイエットブログではなく、医者から痩せろと忠告されたことをきっかけに一念発起して始められたようなブログ、言うなれば背水の陣系ダイエットブログをよく覗いていた。その中において挫折しそうになったブログ主が、突然眩い光を放ってそのまま消失していく事例を何件も見てきた。一定のラインを超えたと同時にみな一様にキラキラしたものになって、そのまま何処かへ行ってしまうのである。そう――ある日突然「太っていても私は私」「太っていても自分の価値は変わらないことに気づいた」「今の自分こそがありのままの姿」などとキラキラしたことを言い出して――そのままお星さまになった。ええとあの……自分の体は大切にしてください。太っていても人の本質的な価値は減らないけど、寿命は確実に減っていくんだから。

心の幸福と体の幸福

自分を大切にするためにダイエットに臨むのか、自分を大切にするためにダイエットを止めるのか。それは人と時と場合によりけりである。生活習慣病の人間には前者の心意気が必要だし、摂食障害の人間には後者の勇気が必要だ。ここを取り違えると体側から壊れていったり、心側から壊れていったりする。

ところで自分の心を幸せにすることと、自分の体を幸せにすることと、果たしてどちらが真の優しさなのだろう。笑いながら大福を頬張ることが優しさである場合もあるし、泣きながらほうれん草を噛むことが優しさである場合もある。 心を労わるにしろ、体を労わるにしろ、「自分に優しく!」と言いながら自分をぶん殴っていることに変わりはない。優しさという暴力で常に自分を痛めつけていなければ、人はうまく機能しないのである。状況によっては心に全力の張り手をぶちかましたり、体に本気のタックルをお見舞いしたり。優しさパンチ!自分は死ぬ。

手放してもいい言葉がある

お気づきだろうか。私はここまで自分に”厳しく”という言葉は1度も使っていない。自分に厳しくある必要はないと気づいたからである。自分に優しくしてもいいと気づいたからである。同様に、自分に”甘く”という言葉も1度も使っていない。自分に甘くない人間なんていないからである。ところでダイエットについてそんなに書いてないですよね。はい。

神様のファインプレー

ところで仮に砂糖や油が健康に良かったら、世の中はどうなっていたか。砂糖や油を食べれば食べるほど健康になるシステムであったならば、とうの昔に地球は砂糖と油を作るための惑星型プラントとなり、人類は砂糖と油を無尽蔵に貪り尽くすモンスターと化し、諸々を巡って世界各地で争ったりとなんやかんや。その一方で正史では生活習慣病等が原因で死んだ偉人が生き永らえることで歴史がごっそり変わりなんやかんや。生態系も変わりなんやかんや。あっだめだこれ。

 

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「ブログ論」についてのブログ論、についての覚書|これも私の「ブログ論」

ブログあつめ

「購読中のブログ」を分類する機能が欲しい。はてなブログを開くたびにそればかり思う。

ジャンルごとに整理したり、特にお気に入りのブログを集めてフォルダ分けするのもいいが、私は是非とも「やばいブログ」「少しやばいブログ」「そんなにやばくないブログ」「やばくないブログ」「危険物」などに分類したい。同じ「日記」というスタイルを取っているのに、どうしてこうも雰囲気が違うのだろう。冒頭の挨拶ひとつ取っても安心と信頼の「みなさんこんにちは!」スタイルもあれば、一行目から「お前は一体何を言っているんだ!」と叫びたくなるようなブログもある。どちらが良いとか良くないとかではなく、その違いそのものが面白い。そんなわけで時間を見つけてはせっせせっせと様々なブログを集めている。

増殖するブログ論とそれについての考察

巷では「ブログ論」なる分野があるらしい。読まれるブログとは、読者が増えるコツとは、収益を増やすコツとは、継続の秘訣とは……アフィリエイトブロガー向けのブログ論もあれば、一般ブロガー向けのブログ論もある。私はここで、ブログ収益拡大を目指す人向けの本格的な解説「運営論」と呼び、一般ブロガー向けアクセスアップ、ネタ作り、モチベーション維持などについての解説「ブログ論」と呼び分けておきたい。

その「ブログ論」の方に関して、少々興味深い記事を見つけたので紹介。

keicob.com

ゲーム実況ならぬブログ運営実況、というところでフフッとなった。ブログ運営実況、なるほど言い得て妙だ。自分が今まさにやっているブログ運営について実況するのだから、反省や今後の展望などスラスラと出てきて楽しかろう。そしてそれをこねくりまわして綺麗に整形すれば、あっという間に「ブログ論」の完成……おっと?

いつも通り考えることに移ろう。何故人は「ブログ論」を書いてしまうのか。どうして似たり寄ったりの「ブログ論」記事が量産されてしまうのか。どうして「ブログ論」ってあんまり面白くないのか。

 ◆考察その1。「ブログについて」書かれたものは自動的に「ブログ論」になるから。天邪鬼単純!「ファッションについて」書かれたものは「ファッション論」だし、「コーヒーについて」書かれたものは「コーヒー論」だし、「メロンパンについて」書かれたものは「メロンパン論」である。だから「ブログについて」書かれたものは「ブログ論」である。そもそも「ブログ論」の具体的な定義とは何ぞや?みんなブログ論ブログ論言うけど、「ブログ論」の定義について考察した人はいるのか?「ブログ論」について考察出来るほど「ブログ論」を読み比べた猛者は存在するのか?定義が無いのだから、「ブログについて」何を書いたって「ブログ論」になる。ブログも十人十色なんて言うけれど、ブログを上手くやっていく方法について考えたときに、そこまで個人差が出るとは思えない。おやおや私は導入と違うことを言っているぞ。揚げ足取りというか言葉遊びみたいなものだが、定義が無いとこうなってしまうわけだ。

だから逆説的に言えば、「ブログ論」なんてものはなく、「ブログについて書かれた記事」があるだけで、それを我々が「これはブログ論、これはそうでない記事」と勝手にカテゴライズしているだけなのではなかろうか。人によって「ブログ論」の線引きも変わるだろう。「みなさんこんにちは!ブログって奥深いですよね!」から始まり、目次を用意して、「いかがでしたか?」で〆る記事のみを「ブログ論」と見なす人もいれば、ブログについてつらつらつらつら段落分けもせず一息で熱く語っている記事を「ブログ論」と見なす人もいる。た、多分。

◆考察その2。「ブログについて」を無邪気に書くことが非常に難しいから。今日食べたもの、今日行った場所、今日やったこと、そういう内容は自身の感じたこと(=主観)をありのまま伸び伸び書けるのに、「ブログについて」書くとなると、途端に客観へ寄ってしまうというか、分析的な内容になってしまうというか、結果的に「ブログ論」じみた記事になるのではなかろうか、と。ブログに関することを書こうとすれば、自ずとアクセス数、読者数、検索、ランキング、そういったものが顔を出してくる。そういったもの無しでブログについて書くことはなかなか大変だと思う。私は語彙力が無いので、ブログに関する記事を書こうとすれば自ずとそういった客観的な数字に頼らざるを得ないだろう。言葉の代わりに、数字を使うのである。

ブログと私たちのただならぬ関係

なんだかぐちゃぐちゃしてきたのでこのあたりで〆に移ろう。

我々はブログというサービスを使ってブログを書き、ブログを書いたことについてまたブログを書く。そのうち、ブログそのものについて書きだす。我々が使う側で、ブログというサービスが使われる側であることは確かに間違いではないのだが、それよりもむしろこう、我々はハムスターでブログは回し車、と言い表した方がしっくり来る。どっちが使ってるんだか使われてるんだか分からない関係。我々がブログについて書いているとき、ブログもまたブログについて書かせているのだ。

本当の結論

好きに書けやーい!

 

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休む練習についての覚書|休もうとして休んでみたり休むために休んだのに休めなかったり

答えは得た

確信した。私は確信した。これは確かなことだ。確からしいことではない。

休日鬱は確実に存在する!

 

地獄の36時間

降って湧いた休日であった。あまり気乗りしない休日であった。しかし休みになってしまったものは仕方がないので、なんとか休みを満喫しようとして……またもや失敗した。帰宅後から次の労働までの約36時間、終始グロッキーと形容するに相応しい状態であった。身体が動かなくて、頭も真っ白で、何も手につかなくて、洗顔入浴も出来ないし、掃除洗濯も出来ないし、本も読めないし、ブログも書けないし、実況動画も見れやしない。いつの間にか寝て、いつの間にか起きている。やれることといえば、ひたすら宙を眺めるか、Pixivでイケメン同士のチューを眺めるかの二択であった。辞めたソシャゲに超~~~ストライクな新キャラが2名も追加されていたのだけれど私は一体どうすれば良いのだろう。スマホ画面に映るスケベなイラストや小説をぼんやりと、しかし穴が開くほど見つめながら、私は虚無の海をぷかぷかと彷徨っていた。そして気づけば、食パンに菓子パンにスイーツ、それと近頃は滅多に買わなくなったはずのスナック菓子やチョコレート菓子を大量に買い込んで、モグモグモグモグと咀嚼している。いつ買いに行ったんだろう。まあいいや。カロリー?それもまあいいや。モグモグモグモグ。(たぶん)うめえ。

これ以上私のことをつらつら述べても面白くないので、昨晩1番面白かったところだけ抜粋すると、人生で初めて眼鏡をかけ忘れて家を出た。ちなみに、私の視力は0.1も無い。0.05あるかも怪しい。もちろん途中で慌てて引き返した。そしてバイト先に着いた途端脳天真っ二つ待ったなしの激しい頭痛、揺れる視界、落ちる瞼、もつれる足、回らぬ呂律……は、労働をしていたら完璧に治った。やったぜ。

 

休日という言の葉を辞書で引き辞書で引いては溜息をつく(57577)

もう本当に駄目だと思った。休日に休日らしいことが出来ない自分が本当に嫌で、いかそうめん(生)のようにテローンとなった手足を持て余し、無様に開け放った口から空気を吸ったり吐いたりしながら、頭の中で駄目だ駄目だとそればかり唱えていた。昨晩のバイトも行かないつもりだった。行かずにこのまま籠城し続けて誰にも気づかれずに死ぬか、通勤路の途中にある川に身投げして死んでやろうと本気で考えていた。本気でだ!まあそういう気分も労働で2、3時間体を動かしたらさっぱり晴れて、お疲れ様でーすと爽やかに退勤して、こうやってブログを書いているわけだけれども。

私、これから先、休みの度にこんな気分になるの?

おばあちゃんその話題の記事はこの前も書いたでしょ

似たような記事は過去に何件か書いている。

shirokuro-044.hatenablog.jp

shirokuro-044.hatenablog.jp

うわっおんなじようなことばっかり言ってる。恥ずかしい。この記事も恐らくまたおんなじようなことばっかり書くと思う。恥ずかしいのでここで切り上げたい。

ワーカホリックという言葉をアルバイターに適用していいのか分からないし、そもそもワーカホリックなのかも分からない。ただ単に休日するのがヘタクソなだけで、相対的に平日のほうが上手にやれているというだけかもしれない。客は嫌いだ。でも客相手にイライラしたり(しなかったり)している方が、休日にベッドの上でいかの天日干しみたいになって塞ぎ込んでいるよりずっと、ずーっとラクなのだ。接客は嫌いだが雑用は好きだし、とにかく今は店内のあちこちが地獄の様相を呈しているため、片付けたくて仕方がなく、気分が乗った日は退勤してから30分くらい倉庫をゴソゴソしている。一応全国チェーンであるにも関わらず現状責任者らしい責任者が不在でこの店は一体誰が経営しているのだろうという本当にアンビリーバブルな状態なので、本部から来た通達の日付を来るたびに確認して、消化出来るところは消化し、投げられるところは誰かに投げ、周知する事項は周知して……まあ、そういうのが満更でもないのだ。誰もやる人がいないからね!

「うつ」と「休むこと」についての記事

 ここまで自分の近況だけで突っ走ってしまったので、ここから先は有益な情報を引っ張りつついつも通り思索してみようと思う。

toyokeizai.net

私はすぐケロッと立ち直るのでその手の心配は全くしてないのだけれど、やはり「休日に休日できない」というのは何かと危ないらしい。

うつ状態に入ると「休む」ことができなくなるのです。生産性がないだけの1日は「休日」とは言えません。仕事も趣味もやれていないが、かと言って休めてもいない。この無為な疲労の蓄積が、少しずつ人間を蝕んでいきます。

そんなときにいちばん最初にするべきは「何もしない」ことです。「自分は今不調である。だから何もせず休む」というのは、意志ある行動なのだと理解してください。

「自分は何もできない」ではなく「何もしないをやっている」のです。この考え方ひとつで回復量は別物に変化します。

どうやら私が思索する必要はなさそうだ。私が欲しかった結論は全てこの記事に詰まっている。なるほどライターは借金玉氏。大分前にTwitterのアカウントをフォローしていた。なんかあちこちとツイバトルしておられた記憶はうっすらある。

休む不安と休む勇気

ところがこの記事だけで安心を得るには大きな壁があって、私もそうだし大抵の人はそうだと思うのだが、「休む勇気」をエイヤと出すこと。これがまた難しい。

「休む勇気」というのは、単に会社員が有給を申請する勇気とか、フリーターが労働日数を削る勇気とか、そういうのじゃなくて、「これから取り掛かる『休む行為』によって自分は本当に休めるのか」という不安に打ち勝つということである。普通に労働していたら、「自分が満足出来るまで休暇を取ります」なんて休日の取り方はまず出来ない。仮に2週間丸々休日を取ったとして、それで自分は休めるのか?その2週間で確実に休み、回復することが出来るのか?仮に満足行かなかったとしても、カラオケのように延長しまーすとはいかない。元の生活に戻らねばならないのである。その時……その時の絶望に、耐えられるだろうか?こんなにいっぱいいっぱい休みを取って、「何もしない」を実践して、回復に専念して、それなのにまだ満足していない!自分は休みに満足していない!うわあああ!!!

……となってしまったらもうアウトだと思う。そうだ病院行こう。

それで、この記事にある南国バカンスにしろ、ビジネスホテルで「外こもり」にしろ、「休みの日に休めなくて辛い」を通り越して「休んだところで休めるか分からないしそんな絶望するくらいならいっそ休日なんて無ければいい、休日が恐ろしい」となっている人間には、大金払ってリスクを取りつつ更に恐怖体験である「休みを取る」なんてのは二重三重の艱難辛苦なわけだ。 休日そのものが無ければ当然「休みの日に休み足りない」という事象も発生しなくなる。しかし休日が無ければ人間いつか倒れてしまう。でも休日は……怖い。いったいどうすればいいんだ!(混乱)

頑張って 頑張らないで 頑張らないことを頑張って休もう

やはりまず必要なのは、「休めなくてもいいから形だけでも休んでみること」。休めなくたっていい。辛くても最初のうちは仕方がない。取り敢えず1日でも2日でも、「休むぞ!!!ウオオ!!!」と自分を奮い立たせてみる。休む練習をする。それで休めなくても、別によしとする。「休むために休んだのに休めなかった……」と落ち込むかもしれないが、それでもよしとする。そうやって休む練習を繰り返し繰り返し……待て待て休む練習ってなんだ?自分は一体何をやっているのだ?……などと思っても、それ以上は考えないようにする。言うなればこれらは「勉強に取り組む前に勉強の方法についての本を読んでいる状態」、あるいは「勉強の方法についての本を活かすためのネットコラムを読んでいる状態」で、とにかくめちゃくちゃ回りくどいのだが、休めない人間にはそれくらい必要なのだろうなあ。

それと話をデカくするようだが、「自分を大切にしようとする意識があるか無いか(多いか少ないか)」も、休む練習を易くするか難くするかを左右しているのだな。休めない人間は自己評価が低く、心のどこかで「自分に休む価値などない」と思っている。休むのに価値は必要ない。休むのに価値が必要なら、死ぬことにだって価値が必要だろう。でも死ぬときゃみんな死にますから。価値のない人間もいつか必ず死にますから。ワッハッハ。

結局、金

そうやって休むためには休んでいる間の生活費が必要になるわけだから、結局労働は必要なわけで、生活費を貯め休日に休日する練習を積んで休日に休日出来るようになるのが先か、病院の天井を眺めることになるのが先かという地獄のレースが、今まさに、開幕しようとしている。怖。

 

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