珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

「労働」というすきすきワードについての覚書|つら~い労働炎に小林製薬のヤスミトール

賃労働の休憩時間におすすめの本です!

エンゲルス『空想より科学へ』を読んでいる。エンゲルスの名は、エンゲルス単体よりもむしろ「マルクス・エンゲルス」というお決まりの響きとして、世界史だか政経だかで聞いたことがあるだろう。間違ってもエンゲルスさんちのマルクスさんではない。先日にはマルクス『哲学の貧困』を読んだという記事を書いたわけだが、一応自己紹介しておくと、私は政治にも経済にもましてや社会主義にも資本主義にも共産主義にも唯物史観にも全く疎いペーペーの無学のアホである。ペーペーの無学のアホであるからして、こんな本を読んだとて、さぞかし針金を噛むような味気なさであろうよ……と思いきや、これがまたたいへんに面白い。何が面白いって、こちらまごう事なき社会主義の入門書でありながら、その一部内容は哲学の入門書としても十分に通用しそうな、むしろ哲学に興味を持って囓り始めたはいいが「形而上?弁証法?観念論?唯物論?アーハン?」みたいな状態の人間の理解を大いに助けてくれる側面があると思う。いやホント、エンゲルス先生の言葉は実に分かりやすい。哲学の解説を目的とした書物ではないにも関わらず、そのへんに落ちている哲学の解説書よりもよっぽど分かりやすい。

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三大楽しい労働の話題「労働の愚痴」「理想の労働」「やってない労働」

マルクスエンゲルスの本が私にとって面白い理由はもうひとつある。それは「労働者」「賃金」「労働時間」「貧困」「生産力」といったすきすきワードがいっぱい出てくるからである。わぁい「貧困」 れむ「貧困」だいすき。それに加えて、この『空想より科学へ』には、私がこの世で最も愛する言葉「理性」が頻繁に顔を出す!やった!「理性」だ!私は労働が大嫌いだし、賃金とか(お金自体は好きだが)貧困なんかクソ喰らえだと思っている。だがクソ喰らえも一周回ればケーキ召し上がれだ。そう、労働自体は大嫌いだが、労働について書かれた書物や労働について自ら考えることは好きなのだ。

 

今の世の中が正しいかという問いには答えられる気が全くしないけど100年前の世の中が正しかったかについてあれこれ口出しすることは私にも出来る でもそれってちょっとずるい

しかしながらこれらについて書かれた書物が好きといっても、私の場合、それは古典に限ってのことだ。やはり最低でも50年、出来れば100年は経過していてほしい。昔の人が、昔の労働を直に観察して、昔の労働の問題点やら何やらについて書いた本を、こんな一般フリーターが読んで今更何になるのかという話だが、例えるなら民俗資料館で当時実際に使われていたたらいと洗濯板を眺めている時の気分と同じだ。軽い好奇心と知的欲求と、それから「私はもっと進んだ世の中に暮らしている」という、タチの悪い僅かばかりの優越感がそこにある。一方で、現代人が、現代の労働を直に観察して、現代の労働の問題点やら何やらについて書いた本、これらは私にとっての禁書なので丁重にお断りしている。だって現代の労働なんか、バイトとはいえ毎日嫌というほど体験しているし、小難しい分析結果なんて見たくもない。だいいち、何故貴重な余暇時間にそんな労働のトラウマを自ら掘り返すような真似をせにゃならんのだ。ウーン、こんなんだから私はいい年して政治経済に対してペーペーの無学のアホなんだろう。

 

チョコラBBは労働炎と口内炎に効く

労働憎しと声高に叫んでおきながら、これほどまでに労働について書きたがるのも、ひとえに労働が口内炎のようなものだからだ。口内炎。触らずにそっとしておきゃいいものを、どうにも口の中が落ち着かなくて、ついつい舌で舐めまわす。その都度ピリリとした痛みを感じて不快な思いをするのに、次の瞬間にはまた舌でペロリとやっている。こんな具合で、憎き労働をペロリとやっては、その鈍痛に思いを馳せる。あゝ労働。労働炎。術無きかな。現代の労働に関するニュースを見ること、現代の貧困に関するコラムを読むこと、それすなわち、労働という痛みの元に向かってペロリとやること。治るものも治りゃしない。

 

あれ

エンゲルスの話は?

 

 

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簡単なものの無限乗についての覚書|出来ないことに殺されるんじゃない、出来ることに殺されるんだ

ヘーキヘーキ大丈夫だってこんなのかんたんかんたんかんたんかんたんかんたんたんたかたん

人は、簡単なものを無数に混ぜ合わせた混合物を、なおも「簡単なもの」の名で呼ぶ。そしてこの「簡単なもの」の名に騙されて、多くの人々が混合物の中に飛び込んでいく。やがて彼らは希釈される。「簡単なもの」の中の簡単なものどもが彼らの身体の中に満ち満ちて、彼らは簡単なものどもから揉みくちゃにされる。それをひと掬いしてみると、なるほど簡単である。取るに足らぬ物事である。屁をこきながらでもあくびをしながらでも成し遂げられそうな物事である。しかしそれらは、掬っても掬っても溢れることをやめない。彼らの身体は簡単なものにまみれる。彼らが限りを知らない簡単なものどもに絶望しかけたとき、「簡単なもの」が彼らに囁きかける。――ほらね、簡単でしょう?

 

普段はアラームをかけても起きられないくせして先日アラームをかけ忘れたのにきちんと起きられたので人間はすごい

人間に関係する様々な出来事は、簡単なものの組み合わせで出来ている。例えば「朝起きる」とは、アラームを聞くこと。目を開けること。腕を動かすこと。布団をめくること。上体を起こすこと。下半身を動かすこと。その場から離れること。もっと細かく分けることも可能だが、ひとまずこのくらいにしておこう。無論、個々人の身体や気持ちの具合にもよるので一概に全てが簡単なものとは言えないが、全方位に配慮し始めると際限がないので、この場ではこれらひとつひとつを簡単なものに分類することをお許し頂きたい。とりあえず「朝起きる」ためには、概ねこれらをひとつずつこなしていけばよいのである。しかしながらこの「朝起きる」という混合物の難しさったらない。いくらポンコツの私でも、 ただ・・ アラームを聞くことくらい簡単だし、 ただ・・ 目を開けることくらい朝飯前。一方でこれらの融合体である「朝起きる」は……ウン。私にとって、 ただ・・ アラームを聞くことは簡単なのだ。まず、アラームが鳴るでしょう?それを耳に入れるでしょう?「アラームが鳴っているなあ」という認識に至るでしょう?それだけでいいのだ。目を開けることだって、瞼を持ち上げさえすればいいのだ。にも関わらず、どうしてこう毎日毎日、5回も6回も「アラームが鳴っているなあ」を繰り返した挙句に、「ア゛ア゛ア゛ア゛ラ゛ー゛ム゛が゛鳴゛っ゛て゛い゛る゛な゛あ゛」で飛び起きねばならぬのか?「瞼゛を゛持゛ち゛上゛げ゛な゛き゛ゃ゛な゛あ゛」で飛び起きねばならぬのか?

 

労働とは、手足をぱたぱた動かしたり、「あ」という音を出したり、2たす3をしたりすること

まあこんな具合で、あらゆる動作も分解出来るところまで分解すれば、ごく簡単なものに行き着く。デスクワークだって、分解しようと思えば「ペンを握る」辺りまで分解出来るし、莫大な数字を扱うにしてもそれらを分解すれば「1桁同士の足し算」まで分解出来るし、接客業にしたって「声を出す」とか「まっすぐ立つ」なんてレベルにまで分解出来るのだ。勿論、もっともっと分解することだって可能である。これら簡単なものの組み合わせにどこまで耐えられるか。これは何も人間だけに限った事ではないだろうが、生きるという行為は、大体こんな感じである。息を吸うこと。簡単。息を吐くこと。簡単。もういちど息を吸って、吐くこと。まだ簡単。1秒生存すること。簡単。10秒生存すること。簡単。100秒生存すること。多分、まだ簡単。果たして私はあと何回の呼吸に対して「簡単」と言っていられるだろうか。私はあと何秒の生存に対して「簡単」と言っていられるだろうか。31536000秒の生存にも、「簡単」と言っていられるだろうか?その時間の中にも無数の簡単なものがあり、簡単なものが無数に混ぜ合わさっていて、それらは結晶して食事となり、睡眠となり、労働となり、休息となるわけだが、私はこれら簡単なものの混合物に、どこまで簡単の烙印を押すことが出来るだろうか?

 

増えたのは簡単なものだけ

そういえば、今でこそ当たり前の存在になったコンビニのコーヒーマシン、あれが初めて導入されたのは、私が大学生の頃であった。当時セブンでバイトをしていた。多分セブンが最初だったんじゃないかな。それで、ご立派なコーヒーマシンが入口付近にドンと構えることとなった。来る客来る客に「コーヒーのいい香りがするねえ」と言われた。最初のうちは諸々の手入れが大変だったが、慣れればなんてことはなかった。定期的にコーヒーカスを捨てたり、ペーパーを交換したり、豆を補充するだけだ。洗うのは深夜の人がやった。こうして、私たちの仕事に簡単なものが1つ増えた。それからしばらくして、今となっては懐かしいレジ横ドーナツの販売も開始された。当時は「コンビニドーナツでミスドがヤバイ」などと言われていたが、結局アレは早々に姿を消し、現在は普通のパンみたいに個包装入りで売られる形に落ち着いた。ミスドはよかったね。そんなアレも、ドーナツを冷蔵庫から取り出して、袋から出して什器に並べる、ただそれだけであった。こうして、私たちの仕事に簡単なものが1つ増えた。

 

簡単なものなんかに絶対に負けない

イヤハヤ全く、人は簡単なものを増やすのが得意なことよなあ。簡単なものを増やして、増やして、増やして、……とにかく増やすことが好きなのだ。難しいものを増やすと大変だろうからと、頭のいい人たちが知恵を絞って絞って、頭の悪い我々のために、難しいものではなく、簡単なものを作っていく。簡単なものはそうやって、人の熱意と、良心によって、無数に増えていく。あの時、少なくともうちのバイト先に「コーヒーマシンのメンテが難しいので辞めます」とか「レジ横ドーナツの面倒を見きれないので退職します」なんて人は1人もいなかった。あの場の全員、新しくやってきた簡単なものに耐え切ったのだ。そうやって、みんなみんな耐えていく。簡単なものに。とりわけコンビニはそういうのを増やしていくのが好きなので、全国のコンビニ店員の皆さんは、これから襲い来る様々な簡単なものに耐えながら働くのだろう。一方で、それらに耐え切れなくなった人々がひっそりと姿を消していくのだろう。もちろん、コンビニ以外のありとあらゆる場所においても。検品、簡単。品出し、簡単。レジ打ち、まあまあ簡単。フライヤー、簡単。おでん、簡単。コーヒーマシン、簡単。床掃除にトイレ掃除、簡単簡単。簡単なものを、お任せします。そう、とっても簡単なお仕事です。日々簡単なものと戦っている労働者の皆さん、労働者じゃない皆さんも、簡単なものなんかに負けず明日も1日頑張りましょう。

 

 

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フリーターとしての才能を自慢するはずだったのにそうはならなかった覚書|毎月振り込まれる地上の富を組み立てて君だけの墓標を作ろう

そういえば周囲の人間も「世間」の一部なんでしたっけ

店長「あいつはこの先の人生どうするんやろなあ、まだ25?だからいいけどさあ、この先30歳になっても就職せずにフリーターってなると、ウーンそれどうなの?って感じ」

ぼく(27)「エーッそれ言うなら私なんてあと3年で30歳ですよ!まあ私は30超えたら『主婦です♡ 旦那と小さい子供がいます♡』って顔して働きますけどね!それにMさんはヒモ疑惑があるので多分大丈夫だと思います!」

※Mさん……私のバイト先に5年以上勤めているフリーターのお兄さん。絶対にバイトリーダーやりたくないマン。掛け持ち無しで週に18時間くらいしか働いてないのにめちゃくちゃ遊んでいるのでヒモ疑惑が浮上している。虫が怖いらしい。

 

パートのおばお姉さん「大体さ~~~30超えてバイトに応募って時点で面接するこっちは構えるじゃんね~~~30歳以上の人にはいつも就職のご予定はないんですかぁって聞いてるけど大体みんな言葉に詰まるんよ~~~ウケるワハハ」

ぼく(27)「わあ鬼ですね!ところで私あと3年で30歳なんですよ!

 

 ちょうど1年くらい前にも同じ話を振られていた

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 悲people

 

みんなフリーターについて散々言うけど私がよその会社に就職したらしたで散々言うでしょ

ここ最近になって疑惑が確信に変わりつつあるのだが、私にはフリーターの才能がめちゃくちゃあるのかもしれない。面接と採用ラッシュが続く中で、店長やボス格のお姉さまとその手の話をすることがあるのだが、そうなるとどうしても応募者の年齢がどうのとか、学生かフリーターかとか、そういうことが話に上がるわけだ。で、その度に色々なものが私に飛び火するのだが、マジで自分でもどうかと思うくらい気にならないし、むしろそこから笑いを取りに行けるのでオイシイとさえ思っている。こういう時に取るべきリアクションはひとつしかなかろう。そう、「エーッそれ私の前で言います~?」とか言って態とらしくプリプリすればいいのだ。いや、もしかするとあれらの会話は実は私に対する嫌味や見下しであって、それをヘラヘラ流す私を見て相手は「うわっこいつ嫌味言われたことに気づいてないよ馬鹿だなあ」などと考えたのかもしれないが、私がそう思ってないんなら、そうじゃないんだろう。私の中ではな。これはアレだ、私がフリーターであることを微塵もコンプレックスと思っていないのが要因だ。万が一、過去の記事でいかにもフリーターにコンプがあるような風の文章を書いていたならば申し訳ない。それどころか却ってコンプレックスの抱え方を教えて欲しいくらいだ。だってほら、仮に模範的社会人を目指そうとするならば、それは抱いて然るべきなんだろう。私は模範的社会人としては失格だ。フリーターであることに対するコンプレックス、それを後生大事に抱えてなんなら墓まで持っていくことが、模範的社会人として正しい在り方なんだろうからね。

 

飽きたわ~この世飽きたわ~

 フリーターという立場が推奨されないのは、「世間からの評価」「自由に使えるお金」「子孫を残す上での安定性」「将来の展望」とか、そんなんが低いもしくは無いからだろう。まあ言葉を変えただけで、この4つは実質同じものなのだが。もしもこの中に1つでも欲しいものがあるなら、まあ、コンプレックスは避けられないだろう。それで、私は 今のところ・・・・・ 、これらにクソほどの興味も抱けないので、へへへの河童というわけだ。もしかすると10年後の私はこれらへの激しい欲求に駆られて死にかけているかもしれないが、それは10年後の私がどうにかするべきことであって、私は明日の自分にさえ責任を負いたくない。ひょっとしたら、10年後20年後、いや明日にでも、私はこんな記事を公開したことを後悔しているかもしれない。若(?)気の至りと恥じているかもしれない。まあ、それさえも今の私にはあまり関係のないことなのだけれどね。先日の記事でも書いたが、私は、 いまこの瞬間の私は・・・・・・・・・ 、この世で得るべきものを大方得尽くして満足している。

 

月刊「地上の富で墓標を作る」

私は決して、世間様から薄汚いとかみすぼらしいとか貧乏臭いとか思われたいわけではない。だが、「あいつは薄汚くてみすぼらしくて貧乏臭いくせに、どうしてああも満足しているのだろう」とは思われたい。そう、満足。私は満足しているから、これで良いのだ。ここから更に俗寄りに舵を切るならば、「あいつは薄汚くてみすぼらしくて貧乏臭いくせに、ああも満足しているし、何故か貯金はそこそこ持っている」と思われたい。ボケているようだが至って真面目である。「貯金はそこそこ持っているくせに、何故か薄汚くてみすぼらしくて貧乏臭いし、それでいてああも満足している」と思われたい。思わせたい。ちぐはぐな人間だと思わせたい!これが私なりの、世間様の目の引き方だ。天邪鬼で構ってちゃんな私が精一杯やれることだ。私がまっすぐ生きたところで、ただ墓穴までの道のりをまっすぐ進むだけだ。ならばちぐはぐに生きるのだ!ふらふらと左右に揺れて、揺れて、墓穴までの時間を懸命に稼ぐ。私は既に満足しているので、いつ墓穴に足を踏み入れてもいいと思っている。けれども、それは今この瞬間より少し先がいいと思っている。それさえもちぐはぐだ。天の国に『富』を積めと言われても、私は頑なに地の国に「富」を積む。天に積めるような『富』なんか持っちゃいないし、だいいち天に積まれた『富』を見るには人の目はあまりに濁りすぎている。だから地の国にしこたま「富」を積んで、旅立つ日にはそれをまるっとそのまま捨てていこう。きっとそこには野次馬が大勢集まることだろう。それこそ私の本望だ。捨てられた「富」の表面に、潰したニガヨモギで名前を書いて、粗末な墓標としてもらえたなら、これほど嬉しいことはない。

 

大人って汚いなあ

「20歳フリーター」は使い勝手がいいから喜々として雇うくせに、「5年間店に貢献してきた25歳フリーター」に「あいつフリーターのままでこの先の人生どうすんの」とか平気で言っちゃうのはわりと地獄感がある。

 

 

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有り余らない才能についての覚書|己の平凡さに感謝出来る程度には歳をとった

有っても困るし無くても困るもの

私はこれまでのところ、才能について困ったことがない。これが果たして幸せなことなのかは分からないが、少なくとも「模範的な凡人」としてはよく務めを果たしていると思う。才能の無さ故に困ったことがない――というのは、私が万能の天才だからなどでは勿論なくて、人生において特別な才能を必要とするような場面に出くわしたことがないからだ。多分。私が記憶している限りでは。そして言わずもがな、才能の有るが故に困ったこともないのである。これに関しては、記憶を掘り起こす必要もないだろう。有って困るような才能を持っていたならば、恐らく私は今ここでこんな生活をしていない。現在の私という存在が、事実の全てを証明してくれる。

 

本来比較対象でないもの同士を比較するなってアリストテレスも言ってる

持てる者の苦しみと持たざる者の苦しみ論争は定期的に見かけるが、あのように「100グラムと10センチはどちらが優れているか」の如き不毛な争いに精を出す人々のことは放っておこう。今は、持てるものの苦しみも持たざる者の苦しみも平等に分からない、無垢で無邪気で無慈悲な人種のこと、すなわち模範的な凡人たる我々自身のことを考えよう。我々は平気でこんなことを言う。「持ってるなら大いに使えばいいし、持ってないならどこかから取り寄せるか、もしくは諦めることだ」と。持てる者がその輝かしい玉座の上でもがき苦しみ、持たざる者がそのみすぼらしい寝床の上でのたうち回っている頃、我々模範的な凡人は、可もなく不可もないごく一般的なパイプ椅子に腰掛けて、悠々足を組んで彼らを眺めている。我々は才有る故に苦しむ人々の方を向き、彼らがあまりにも重すぎる荷物を背負っているのを見て憐れみを手向ける。また、我々は才無き故に苦しむ人々の方を向き、彼らがあまりにも荷物を持っていないのを見て同情を捧げる。この憐れみや同情は、彼らの苦しみに対してではない。我々は彼らの苦しみが分からない。我々は無垢で無邪気で無慈悲ゆえに――彼らは背の荷を降ろしたり足元の荷を抱えたりすることを知らない、己に腕があり手があることさえも知らない、あたかも己を蛇か何かだと思い込んでいる人々なのだと――そう思い、使おうと思えば使える両手を彼らが一切使わぬ様を見て、悲しみとしているのである。

 

ね、簡単でしょ?

無垢で無邪気で無慈悲な我々から彼らに贈る助言は、間違いなく彼らを激昂させるであろう。けれども私は、勇気を持って数々の言葉を贈ろうと思う。まず、持てる者に対して贈る言葉。あなたが本当に本当に、持てる故に苦しんでいるのなら、あなたよりずっとずっと優れている者たちの住処に行って、そこで凡人になりなさい。世界は広いから、あなたよりずっとずっと優れている人たちは大勢いる。そこに自ら飛び込んでいって、そこで落ちこぼれになりなさい。さすればあなたの苦しみは幾分か軽くなるでしょう。次に、持たざる者に対して贈る言葉。あなたが本当に本当に、持たざる故に苦しんでいるのなら、あなたよりずっとずっと劣っている人たちの住処に行って、そこで天才になりなさい。世界は広いから、あなたよりずっとずっと劣っている人たちは大勢いる。そこに自ら飛び込んでいって、そこで頂点に立ちなさい。さすればあなたの苦しみは幾分か軽くなるでしょう。我々が彼らに贈ることが出来るのは、これくらいである。一応前置きはしたので、あまり怒らないでほしい。我々は特別才に満ちているわけではないので、これ以上に気の利いた言葉は紡げそうにない。また、我々は特別才に欠けているわけでもないので、これ以上におバカで価値のない言葉は織れそうにない。許しておくれ。

 

パイプ椅子の勝者

我々模範的な凡人は、ある時は才有る者に賞賛を向けて己の凡庸さを卑下し、ある時は才無き者に励ましを向けて己の平俗っぷりを笑い飛ばしながらも、実際には遥か高みから、冷え切った眼差しでもって、彼らの葛藤を眺めている。ひとりの人間の立派な生き様という尺度で測られたならば、我々は間違いなく負け組であろう。我々は刃こぼれひとつない刀である。守り傷ひとつない兜である。遂には戦に出ることなく武器庫でその生涯を終えたあるひとつの道具である。誉れを受けることもないだろう。しかしひとりの人間の安全な生き様という尺度で測られたなら、我々は間違いなく勝ち組である。攻め傷もなく、受け傷もない。恐らく後世において、とある古い民家の蔵からひょっこり出てきて、なんでも鑑定団に出品されて、驚くべき状態の良さと評価され、莫大な金額をつけられることだろう。私は武人を支えて傷ついた立派な武器として、この世で誉れを受けようとは思わない。その代わり、平凡、安寧、無難、そういったものをどこまでも追求して、それらが評価されるようなどこかの世において、己の価値にゼロをいっぱいつけてもらおうと思う。

 

辞世の句

ゼロの花

ゼロだけあっても

ゼロはゼロ

 

 

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私の可哀想な神様についての覚書|神様がなんにもしてくれない理由

※いつも以上に頭からっぽにして読んでください

 

人間が本来考えるべきことなんてそんなに無いと思う

現代人には、考えなきゃならないことがちと多すぎる。「思索のための思索」なんて大仰な副題を掲げておいてこんなことを言うのもナンだが、考えることは毒にはなれど薬にはならないと思う。人間の頭の中にはロクでもないものがたっぷり詰まっていて、我々は毎日そのロクでもないものを引き落としたり預けたり、売り払ったり買い占めたり、時には他人のロクでもないものに投資したりしながら、ロクでもないものの運用にその儚い生涯を捧げている。ロクでもないものを少なく持っている人は、それらとにらめっこして電卓叩きながら帳簿をつける時間がより少なく済むが故に、それらを多く持っている人よりも幸いである。また同様に、ロクでもないものを少なく持っている人は、【人間】という悪趣味な投資家の標的になることがそれだけ少ないが故に、それらを多く持っている人よりも遥かに幸いである。

 

神様にてんてこまいさせるのは気分がいい

人間の頭の中にあるロクでもないものとは具体的に何かというと……ええと、ウン……まあ、だいたい全部である。「きっと神様はいちいちこんなこと考えないんだろうなあ」と思えるようなものは、粗方全てである。ところで、私の考えるところの神様は、「ねえねえ神様全知全能なとこ見ーせて」と請われて初めて全知全能を顕すような類ではなく、24時間年中無休全知全能丸出しおじさんくらいの存在なので、今この瞬間も全知全能をやっている。全知全能を強いられているのである。一体何から?常に全能であるからには、常に全てをやって、常に全てを出来なければならない。神様は今まさに「あ」と発音しているその口で、全く同時に「い」「う」「え」「お」と発音することが出来なければならないし、しかもそれは常に出来なければならないことである。神様は今まさにジャンケンに勝ったその右手で、全く同時にあいこになることと負けることが出来なければならないし、それはしかもそれは常にできなければならないことである。それで何が言いたいかというと、私の可哀想な神様、常に全てをやって常に全てを出来なければならない神様の、いち発声器官、いち末端器官が人間で、きっと人間以外にも神様はそういう器官(種族)を銀河系やそれより遠くに沢山持っていて、【人間】はその中でもロクでもないもの群を担当させられた器官(種族)なんじゃあなかろうかと。そうであるならば、今ここで私が「あ」と言ったその瞬間、同時にアメリカで誰かが「い」と言い、イギリスで誰かが「う」と言い、ロシアで誰かが「え」と言い、中国で誰かが「お」と言っていたなら、さしあたりこの義務は果たされるのだから。「きっと神様はいちいちこんなこと考えないんだろうなあ」と我々が考えるところのその内容は、神様が背負っている毎日の義務なのである。神様可哀想。

 

神様は全能なので野球も出来るしサッカーもうまい

私の考えるところの神様は単なる全能ではなく常に全能なので、「神様は今まさに「あ」と発音しているその口で、全く同時に「い」「う」「え」「お」と発音することが出来なければならないし、しかもそれは常に出来なければならないことである」という義務を打ち消すことも 出来る・・・ 。というか、「義務を打ち消すことも出来る」ことも「常に出来なければならないこと」である。これらをひとことで言えばありとあらゆる「やる」と「やらない」を全く同時に「やりつつ」「やらない」ことさえも「やりつつ」「やらない」(以下無限に「やりつつ」「やらない」が続く)が神様に課された義務なのだ。もちろんこれ自体に関しても、「やる」と「やらない」を全く同時に「やりつつ」「やらない」ことさえも以下省略。

 

神様に対して全能の義務を強いることで神様を無力化する不届き者です

私の中の神様が常に全知全能丸出しなのにどうして地球が滅んだりしていないのか?(神様は常に地球を滅ぼしているのでは?)という疑問については、神様が「地球を滅ぼす」と「地球を滅ぼさない」を全く同時に「やりつつ」「やらない」ことを「やりつつ」「やらない」ことを(以下略)からということで手打ちして頂きたい。ウン?その原理でいくと、先ほど挙げた「今まさに「あ」と発音しているその口で、全く同時に「い」「う」「え」「お」と発音すること」も、実質出来ないのではないかね?神様は「全能である」と「全能であることを打ち消す」ことを全く同時に「やりつつ」「やらない」ことを(以下略)?神様は全て出来るが故に何にも出来ないのではないかね?ならば神様の器官たる我々にも何も出来ないのではないかね?

 

人間には「やる」か「やらない」かしかないから楽だね

……といった類のロクでもないものが我々の頭の中にはたっぷり詰まっていて、我々は毎日そのロクでもないものを引き落としたり預けたり、売り払ったり買い占めたり、時には他人のロクでもないものに投資したりしながら、ロクでもないものの運用にその儚い生涯を捧げている。

 

なんだこれ

……というところまで書いて寝落ちしたらしいのだが自分でも何を言っているのかよく分からない。冒頭に「※いつも以上に頭からっぽにして読んでください」って書き足しておこう。

 

 

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