珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

より多く許せない方をより多く諦めることについての覚書|万物平等パンチ!

毎日20万欲しい

金の貯まりは月に1回なのに疲労の溜まりは月に30回あることに怒りを覚えているのですが、 これ・・ って平等法に違反してませんか。この由々しき事態に関して、何かいいアイデアがあるなら挙手してください。はいそこの人。「平等法ってなんですか」。私はいいアイデアがあるなら挙手してくださいと申し上げたはずですが、まあそれはそれとしていい質問ですね。平等法ってのは六法全書には載ってません。我々の頭と心の中にある法律なのです。どう頑張っても平等になりえないような2つの物事を自分の中で強引に平等化して納得するために必要な法律なのです。平等法を使えば、りんごとトラクターを平等にすることも可能なのです。ねえ。みんなの中にもあるでしょ、平等法ってのが。

 

月に1回の給料日と月に30回の疲労を平等にするプロセス

お金の貯まりが月に1回なのは仕方がない。だって現環境では給料日は月に1回と決められているんだから。疲労の溜まりが月に30回もあるのは仕方がない。だって生きてるんだから。ハイ、これだけで2つはだいたい平等に近づきました。どちらも仕方がないという言葉で説明がつくようです。このように、強引に共通項を探して余計なものはバッサリ切り捨てつつ無理やり接合してしまえばいいのです。その量や質を考慮しないのであれば、どちらも「仕方がない」という点においては平等です。もしも両者の仕方がなさに大小の差があるのなら、それを縮めていけば両者は限りなく平等に近づきます。より多く許せない方を、より多く諦めればよいのです。給料日が月に1回であることの方がより多く許せないのなら、そちらをより多く諦めてください。月に30日生きていることの方がより多く許せないのなら、そちらをより多く諦めてください。どちらも、平等に、仕方がない。そのようにして、掌で包んだ小鳥を逃がすようにどちらも手放してください。あなたの掌の中にはもはや何者もありません。あなたは掌の中の小鳥から解放されました。小鳥があなたから解放されたのではなく。

 

相手の少ない労働と自分の多い労働を平等にするプロセス

別の例を挙げましょう。まったく同じ給料で勤務実績上はまったく同じ労働時間なのに、相手がサボりまくっているせいで自分はそのサボっている相手の分まで働かなきゃいけない、これは明らかに不平等です。この場合は不公平と言ったほうがいいのかな?しかし平等と公平の違いについて考え始めると話がややこしくなるので「平等」で統一しましょう。さて、どうやって平等にしましょうか。相手を説得して働かせることができるのならそれに越したことはありません。ここで、「相手の労働時間が少ない」ことと「自分の労働時間が多い」こと、どちらがより多く許せないでしょうか。前者ですか?それならばそちらの方をより多く諦めましょう。後者ですか?それならばそちらの方をより多く諦めましょう。世の中こんな具合に、より多く許せない方をより多く諦めながら生きている人たちがいっぱいいます。いやあまったく不平等ですね。ところで、「より多く許せない方をより多く諦めながら生きている人がいる」ことと「より多く許せない方をより多く諦めながら生きることに無縁な人がいる」ことと、どちらがより多く許せないでしょうか。このままでは無限ループに突入しそうなので、後者を物理的にひねり潰して仕舞いにしましょう。

 

考えたら負け

おっとまた手が挙がりましたね、はいそこの人。「なに言ってるかぜんぜん分かりません」。私はいいアイデアがあるなら挙手してくださいと申し上げたはずですが、まあそれはそれとしていい発言ですね。こちらからも誠心誠意お答えしましょう。私にもぜんぜん分かりません。

 

冒頭のアレは「金の貯まりは月に1回なのに疲労の溜まりは月に30回あること」が平等法に違反しているのではなく、「金の貯まりは月に1回なのに疲労の溜まりは月に30回あることに 怒りを覚えていること・・・・・・・・・・ 」が平等法違反、つまりが平等法に違反しているのは私

一般的に、不平等が憤慨を生む場合と考えられているのでしょうが、私の中では、憤慨が不平等を生むのです。昔読んだ本の中に「腹立たしい出来事が起こるのは自分がその出来事に対して腹立たしいと感じてしまっているからだ」といった旨の内容がありました。つまり、腹を立てさえしなければ、腹立たしい出来事なんかどこにも存在しないということです。読んだ当時は本気で目からウロコが出たし、実践しようと努力したりもしましたが、なかなか難しくて挫折しました。そんな小難しいことをいちいち意識して感情を抑えるよりも、素直にぷりぷり怒っていた方がよっぽど簡単だったので。今考えれば、あの本の内容は究極の諦めであり、究極の平等化ですね。負の感情が生じるにはそれ相応の原因があるはずですが、それをすべて諦めて、すべてを同じ場所へ還す。ある日の怒り、ある日のストレス、ある日の悲しみ、ある日のモヤモヤ、そんなものは初めからなくて、ただただ「出来事」がそこにあるだけ。極端な話、世のすべてを「出来事」に還元してしまえば何もかも平等です。何もかもがただの「出来事」であるという一点において平等なのです。

 

りんごとトラクターを平等にするプロセス

どちらも物体、よって平等です。

 

 

f:id:shirokuro_044:20210926095909p:plain

ワーキングがワーキングする覚書|労働は用法用量を守って正しくお使いください

まったく近頃の若者ときたら

あの……ちょっとみんな頑張りすぎじゃない……ねえ……早朝働いて日中も働くとか……日中働いて深夜も働くとか……みんな当たり前のように言ってるけど……あの……みんないつ寝てるの……睡眠時間足りてるの……身体しんどくないの……人間には朝と昼と夜しかないはずなのに……もしかしてみんな私の知らない時間を持っているの……ねえ……

 

うちで働いてるフリーターのほとんどが1日に2つの職場で働く同日掛け持ちタイプだった

一体なにが彼らをそこまでさせるのか。この問いは決して「一体なにが彼らを労働へ突き動かすのか」という意味ではない。「一体なにが彼らを労働へと突き落とすのか」という意味である。突き飛ばす、としてもよい。ウーム、これでは分かりづらいだろうか?ええと、つまりだから、私は彼らが働く理由や目的を知りたいのではなくて、彼らを働かせる元凶や黒幕について知りたいのだ。彼らの労働の末に結ばれる果実を拝みたいのではなくて、彼らの労働がそこから始まるところの種子を拝みたいのだ。果実の方は100人いれば100通り、色も、形も、香りも、味も、食感も異なる、個性豊かなものが実るのだ。しかし種子の方は……ウン、だいたい一緒なんじゃないかな。いやだいたいじゃないな。総じて一緒なんじゃないかな。

 

変な語尾ザウルス

そうそう、疑問への答えに「社会」とか「世の中」とか「世間」とか「資本主義経済」という言葉を使ってしまうとそれだけで何もかもきれいさっぱり片付いてしまうので、今回に限りそれらの言葉はNGワードに設定しておくことにする。もしも使ってしまったら今日1日変な語尾で喋ります。語尾にザウルスとか付けます。喋る相手がいないので実質ノーペナルティです。

 

WORKING!

子供の頃は、時間が長かったなあ。所持時間も体感時間も含めて。学校から帰ってあれもこれもやってまだ有り余るほどの時間があった。しかし大人になると、普通に一般的に平均的な大人・・・・・・・・・・・・・ になると、なんでもお金が余りだして時間の方が足りなくなるらしい。私は普通に一般的に平均的な大人になったことがないので聞きかじりでしかないが。じゃあお金も足りないし時間も足りない人間をなんと呼べばいいんだ。世……ちまたにはワーキングプアという単語があるが、ああいうのとはまた違っていて、なんというか、お金に困っているわけではないが圧倒的にお金が足りない、そんな人間はワーキングプアとはまた違うなにかだと思う。プアではないんだよね。それでも人一倍ワーキングしなくちゃいけない理由があるんだよね。それってワーキングじゃん。ワーキングでいいか。

 

擬人化した安心と擬人化したお金って同一人物なのでは

人の中の子供は無邪気にこう言う。「時間があってもお金がなかったらつまらないじゃん」と。まあ、半分位は頷いておきましょうか。で、人の中の普通に一般的に平均的な大人は神妙にこう言う。「お金があってもそれらを使う時間がなかったら意味がないんだよ」と。私個人としては、お金はそこにあるだけで安心をもたらしてくれる魔法のアイテムなので、使わずに飾っておくほうがより効能を発揮するのだが、今回は普通に一般的に平均的な大人の声ということで、半分位は同意しておきましょうか。私は大人なので、本来であれば普通に一般的に平均的な大人の意見に同意しておけば間違いはないはずなのだが、残念ながら普通に一般的に平均的な大人ではなかったので、全面的な同意はできない。ならばと子供の意見に助けを求めても、こちらはこちらで全面的な同意はできない。完璧な子供の味方にもなれないし完璧な大人の味方にもなれない。逆に言えば、どちらも我々の味方ではない。

shirokuro-044.hatenablog.jp

 

この場合の「背中を押す」とは「後押しする」という意味ではなく『背中を押す』という意味です

時間ならあげるからお金がほしい子供と、お金ならあげるから時間がほしい大人。我々はこの模範的な子供か模範的な大人のどちらかに、あるいは片方ずつ交互に後押しされながら働く。それで、前述のワーキングたちは……ワーキングたちは、お金が足りなくて時間も足りないから、お金も欲しいし時間も欲しい。ええと、ちょっと待ってくれ、「時間ならあげるからお金が欲しい」という点では模範的な子供だが、あげるための時間がない。一方、「お金ならあげるから時間が欲しい」という点では模範的な大人だが、あげるためのお金がない。ええと、こういうときにどうなるかというと、模範的な子供と模範的な大人が両方いっぺんに笑いながらこちらの背中を押してくるのだ。「お金が欲しいんでしょ?」と言いながら模範的な子供が背中を押し、「時間が欲しいんでしょ?」と言いながら模範的な大人が背中を押す。本来どちらか1人の力にしか耐えられないようにできているのに、2人の手に押されてしまった背中はどこへ行くかというと、勢い余ってどこかへ飛んでいくのである。

 

変な語尾ザウルス

我々を、そして彼らを突き落としているのは模範的な子供と模範的な大人でした。我々が模範的な彼らから逃げおおせることは一生ないんだと思います。せめてワーキングがもっとワーキングしやすい世の中になればいいですね。あっ、世の中になればいいザウルスね。

 

 

f:id:shirokuro_044:20210926001857p:plain

果報と目標とかぼちゃプリンは寝て待つ覚書|かぼちゃプリンを自分の足で買いに行くのも億劫なのに目標に向かって自分の足で歩くなんてもっと億劫に決まってる

今週のお題「今月の目標」について一言

とくにないです

 

1/3→██→1/4

先月の今頃「今年もあと1/3かあ」と言っていたばかりなのに、今月に入って「今年もあと1/4かあ」って言ってるの、分数がバグってる感がある。たった1ヶ月で1/3が1/4に変わるの、一瞬理解が追いつかなくて「ウン?」ってなっちゃうな。これを「先月の今頃『今年もあと4/12かあ』と言っていたばかりなのに、今月に入って『今年もあと3/12かあ』って言ってる」と書けば、そりゃそうよ1ヶ月進んだんだからってすぐに納得できるのに。私の感覚では1/3はそこそこ大きいのだが、1/4はかなりスリムなのだ。具体的なモノに例えれば、そうだなあ、1/3がニンテンドーDSで、1/4はニンテンドーDSLite。そう、そんな感じ。あのさ、ちょっと言いにくいんだけど、残りの2021年くん、この1ヶ月ですっごい痩せたよね。傍目でもすぐに分かるくらい。大丈夫?なんか嫌なことあった?

※参考画像(こちらからお借りしました→https://hikaku-dojo.com/game/367/)

f:id:shirokuro_044:20211005071441j:plain

 

感覚人間

私の数字に対する感覚のガバガバっぷりは相当なもので、今の10月だって「もう10月!よし!今年もあと2ヶ月やな!」って感覚がどうしても抜けない。分かってるんだけど、10と11と12で3ヶ月あるってすぐに分かるんだけど、なんかほら、「今が10月だから、ええと、(指折り)11月、(指折り)12月、あと2ヶ月!」みたいな数え方をついついしてしまうんだ。小さい子みたい。10月、11月、12月、この中でハブられたのは一体何月でしょう。まあこの中で1番影が薄いのは11月だよね。10月はハロウィンがあるし、12月はクリスマスと年末があるもんね。両サイドをパリピに挟まれて肩身が狭い11月ちゃんかわいそう。いや、茶髪ギャルと金髪ギャルに挟まれた黒髪文学少女って考えたらちょっとイケるかな?

 

セブンの安納芋羊羹みんな食べた?

毎年ハロウィンはバイト先にちょっと豪華な差し入れをしているのだけど、今年はどうしよう。一昨年はカルディのお菓子で、去年はミスドのハロウィン限定ドーナツだった。ウーン。いい機会だから、仕事帰りにふらっと寄れる場所にあるのになかなか足を運ぶ機会がなかった商業施設に行ってみようかな。かぼちゃプリンはめちゃくちゃ好き嫌いが分かれるのでやめよう。もし普通のプリンとかぼちゃプリンを半々で差し入れたとしても、かぼちゃプリンだけ売れ残るのは目に見えている。メイトーかぼちゃプリンめっちゃおいしいんだけどなあ。毎年差し入れてばっかなので今年は私にかぼちゃプリンを差し入れてくれる人いないかなあ。そもそも芋、栗、南瓜のお菓子はアラ成(アラウンド成人の略)の子たちへの差し入れ向きじゃないらしい。去年、ドーナツとは別にブルボンのミニバームロールマロンクリームエリーゼ安納芋を差し入れたこともあったが、休憩室の机の上に延々残っていて悲しかった。

 

人の中にある目標のなんと人くさいことか

私にとって、10月に立てられる目標は11月に立ててもいいし、12月に立ててもいいし、来年の1月に立ててもいい目標である。「10月だから」とか「秋だから」とか「過ごしやすくなったから」とか「今年も残り少ないから」とか、そんなものは一切ないし、「今この瞬間モチベーションが高まっているから」とか「今月中に是非ともやり遂げたいから」という理由で立てるべき目標も一切ない。せいぜい痩せるとか、部屋を片付けるとか、やろうと思えばいつだってできるしなんなら1年中言っている、そういう目標が精一杯で、あれこれ理由をつけて今着手すべき目標がない。それなら、特に10月の目標を立てる理由もない。でも、目標なんてだいたいそんなもんなんだと思う。10月にしかできないことを目標に据える人ってそんなにいないと思う。10月にしかできないこと、例えば「10月末に友人の結婚式があるからそれまでにウンkg落とす」みたいな。今週のお題のエントリーをいくつか眺めたが、みんな、やろうと思えばいつだってできることを自分の中にたくさん持っていて、それを敢えて10月にやろうとしている。だからすごい。「いつでもできる」を「今やる」に変換できる人はすごい。私は敢えて10月にもやらないけど。まあ本当に必要なら、目標の方からやって来るでしょう。それまでお布団の中で待つことにするよ。

 

今週のお題「今月の目標」

 

 

f:id:shirokuro_044:20211005081440p:plain

高所から勢いよく落下してなお無傷でいられるローソンの殻つきゆで卵についての覚書|世界がもしも生身の卵だったら

殻つきゆで卵の中の塩味ってどうやって付けてるんだろう

ローソンで殻つきゆで卵を手に取り買うかどうか悩んでいたら、手を滑らせてうっかり床に落としてしまい、そのままお買い上げせざるを得なくなった。おいおいそんな雑で強引な後押しの仕方があるかよ。もっとこう、味とか、価格とか、気分とか、そういうものの吟味を……いやもういい。殻つきゆで卵が頭から真っ逆さまに着地したその時点で「買わない」という選択肢は死んだ。「買わない」くんの死因は頭部を強く打ち付けたことによる脳挫傷です。帰りのバスに揺られているうちにその出来事自体頭からすっぽり抜け落ちてしまったのだが、おやつどきになって、ふと鞄に入れっぱなしだった殻つきゆで卵の存在を思い出し、むしゃむしゃと食べた。あのとき私の「買わない」という選択肢は高所から勢いよく落下し頭部を強く打ち付けてあっさりと死んだが、ローソンの殻つきゆで卵は頭部を強く打ち付けてなお無傷であった。

 

同じ夜勤の無口なお兄さんが「品出し中に落として箱潰しちゃったので買い取ったんですけど自分辛いもの苦手なのでもらってくれませんか」って言いながら激辛カレーくれたのよかった

「買わない」という選択肢を高所から突き落とし、「買う」という選択肢に刃物を突きつけて手に入れた殻つきゆで卵はなかなかに美味だった。私は買うんじゃない。買わざるを得ないんだ。あのとき床に落としさえしなければ普通に買うこともできたし、もちろん普通に買わないこともできたのだけれど、普通に買ったり買わなかったりするよりも買わざるを得ないから買う方がより塩気が強くて好みだ。「買う」に向かってこの私を買わざるを得ない状態にしろって脅しをかけよう。今後は選択に迷ったら、懐に凶器を忍ばせ片方の選択肢の生首を引っさげてもう片方の選択肢をおとな えばいいんだな。ごめんくださーい。優柔不断な人間ですけれどもお。行き倒れていたあなたのお友達を届けにやってまいりました。どうか上げてくださいな。ってな具合で。

 

流石の私も形のないものを手篭めにはしないよ

そうだ、どうしても自分だけの力では決められないようなときは、そこの選択肢たちをひどい目に遇わせてやればいいんだ。殴りかかったり、蹴り飛ばしたり、突き落としたり、背後から武器を押し当てたりして。そこで死んでしまった選択肢のことは綺麗さっぱり忘れてしまおう。最後にただひとり生き残ってガタガタと震えている選択肢のことだけ助けてあげよう。その選択肢を家に連れ帰って、いい香りのするお風呂に入れて、ふかふかのタオルで拭いて、おいしいご飯を食べさせて、たっぷりの牛乳で作った甘いココアも飲ませて、温かいベッドに寝かせてやって……そのままぐっすり寝かせてやろう。いやあ悪いね、これも選びながら生きるということなんだ。

 

豆腐に白星をつけられる稀有な存在

私が手に取るもの、全てが生身の卵だったら、私は却って身軽に生きられただろう。荒れた手が傷んで指を動かしづらいせいか、近頃はなんでもかんでもぽろぽろぽろぽろ取り落とす。それらが全て生身の卵だったら、落とした時点でほぼ確実にお釈迦なのだから、私はもっと簡単に色々なものを捨てられたし、色々なものを諦められたし、色々なものに踏ん切りがついただろう。無慈悲に落とされて頭部を強打してなおケロッとした顔で生きているあれやこれたちの生命力、私からすれば強すぎる。こちとら頭を豆腐にぶつけても死ぬくらいのやわやわ生命力だぞ。

 

矛盾卵

例えば私が喉の渇きを覚えて水が入ったペットボトルを手にとったとしよう。それで、ペットボトルを勢いよく落としたとしよう。ちょっとの高さから落としたくらいじゃペットボトルはびくともしない。缶でもせいぜいへこむくらいだ。それが瓶なら当たりどころによっちゃだめになるかもしれないが、まあ、そんなにヤワってわけでもないでしょ。割れるかは運次第、五分五分だ。でもそれが生身の卵だったら、 水の入ったペットボトルが生身の卵だったら・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 、確実にボトルも中身の水も全部だめになって、私は呆然と立ち尽くし、渇きに苦しみながら死んでいったことだろう。私が身軽に生きるために私が手に取るもの全てが生身の卵だったらありがたい、その考え自体に変わりはないのだが、渇きで死ぬのは苦しかろうし、水が入ったペットボトルくらいは生身の卵であってほしくないかもなあ。同様に、あれと、これと、それも……

 

ローソンの殻つきゆで卵の容器に入れておかないから……

ローソンの殻つきゆで卵の容器はよく出来てるな。私は自宅でセブンの殻つきゆで卵を落としたこともあるが、なんというか、見事に殻が大破したぞ。あれは容器というかただ厚紙で覆ってあるだけだから仕方ないか。仮に勢いよく落としたとしても壊れてほしくないもの、そんなものがあるのかどうかは知らないが、そういったものはすべてローソンの殻つきゆで卵の容器に入れておこう。そうしよう。

 

 

f:id:shirokuro_044:20210923114929p:plain

己の目ン玉の存在意義について小一時間考える覚書|毎号付いてくる都合の悪いものを排除して君だけの現実を作ろう

吾輩の辞書にワンルームという文字がなかった

居室からキッチン・玄関側を見えなくするためにカットできる間仕切りのれんを買った。普通こういうのは、玄関側=来訪者から居室を見えなくするために買うものだと思うのだが、私の場合これでいいのだ。設置した感想。間仕切りのれん、サイコー。居室からキッチンと玄関が見えないだけで、黒い布で仕切るだけで、これほど自室感が増すとは思っていなかった。良くも悪くも家賃相応のキッチン、コーヒーカップを洗うくらいしか使い道がないキッチン、にんじんみたいな色の花柄タイルが最高に気に食わないキッチン、私の視界から綺麗さっぱり消え去った。もっと早く買えばよかった。アイデアを思いついてから、100均でポールとカーテンフックを購入するまでは早かった。肝心ののれんを買うまでに1年近くかかった。楽天スーパーセールの勢いに押されることがなかったらあと1年はかかっていたと思う。まあ、なんだ、つまりが、私が以前の記事で「うちは1Kだよ」などと言っていたのは真っ赤な嘘で、正しくはワンルームだったのである。

 

shirokuro-044.hatenablog.jp

www.athome.co.jp

 

生き方はちっとも分からないくせにやり過ごし方ばかり身についていく

「見ない」「見えない」「見ていない」。人生を穏便にやり過ごす上で大切な三要素です。どれも大変にロクでもない要素ですがこれがまた大変に効くのです。人生を充実の上で過ごしたい人には向かないかもしれませんが。

 

「見ない」

これはまあそのまんまで、見ないようにしようってことだ。いちばん手っ取り早く、いちばんかんたんで、いちばんありふれたやり方だ。全てを観照するのはあくまで神様の仕事であって、人間の仕事は全てを観照しないことである。人が何かを見ないのも人の仕事のうち。神様を無職に追い込むのはやめよう。

 

「見えない」

これは「見ない」に近しいものだが、もっと強引で乱暴なものだ。そもそも見られないようにする。見るという選択肢を自分から奪ってしまうと言い換えてもよい。仮にPCのモニターから目を逸らすことを「見ない」とするならば、PCをシャットダウンしてしまうか、もしくはPCに覆いをかけるか、もしくはPCそのものを破壊するか、もしくは自分の目ン玉を破壊してしまうのが「見えない」だね。

 

「見ていない」

これに関しては習得までに一定の訓練を積む必要があるが、一度出来てしまえば二度目三度目は実に簡単だし、慣れてしまえばそれこそなんとも思わなくなる。たとえ「見ない」「見えない」の達人が相手であったとしても、ほんの一瞬の油断を突いて僅かな隙間から滑り込んでくるのが「見る」というものである。手のひらで水を押さえ込むにも限界がある。そこで……ハイ、「見ていない」の出番ですよ!私はなーんにも見ていない!これであらかた全てを無に帰することができます。人間に行える数少ない過去改変は、見たはずのものを「見ていない」と頑なに主張し続けることです。ヤバい現場を目撃した時にも使えるぞ!これでみんなも安心してヤバい現場を目撃できますね!

 

私の目には現実とその先を行く私とその先を行く現実とその先を行く私が映っているけれどそれだとまるで私が現実から走って逃げているように見えるのはただの錯覚です

私が現実を見ていないんじゃなくて現実が私を見ていないんだ。私の視界に映るものはどこまで行っても現実でしかないんだから。私は現実の中でしか生きられないけれど、現実は私の中じゃなくても生きられるだろう。私の中じゃなくても生きられる現実さんの方こそ、私の中で生きる努力をしたらどうなんですか。現実はもう少し私の問題と正面から向き合って対処しましょう。まず私をしっかり見て、そこに存在する問題の把握から努めましょう。私から逃げてばかりじゃ何も解決しませんよ。ほらほら私が追いかけてきますよ。私から目を逸らしているあなたを私が追いかけてきますよ。私から目を逸らしているあなたを追いかける私をあなたは追いかけてくださいよ。あなたならば、私から逃げながらでも私の背中が見えるでしょう。

 

 

f:id:shirokuro_044:20210922121558p:plain