珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

責任についての覚書|スナック菓子程の責任ばかり

自分の責任は必ず自分で負いたい。言葉にすると至極当たり前のことだ。負い「たい」もクソもあるか、負わ「なければならない」だろ。うんうん。しかし世の中に満ちている責任というものは総じてふんわりぼんやりしていて、寝息程度の風でもあっちに行ったりこっちに来たりするものなので、却って自分の責任を自分で負い辛かったりする。またそういった偶然の成り行きとは別に、善意で、責任を預かってくれる人がいる。「あなたは悪くない」という言葉は時に、「あなたが悪い」という言葉より残酷なのだ。

ロクな社会経験がないので、生まれてこの方深刻な責任問題というものに直面したことがない。なので割と軽々しく「私の責任です」「私の力不足です」と言えてしまう。その場限りでも責任を自分に集めれば無用なヘイトの拡散を予防することが出来るし、予防線を張っているから過剰な追求を避けられるし、最終的なダメージを軽減出来るから。自虐バリアの一種だ。オフ会で会う相手に前もって「不細工なんで」「コミュ障なんで」と言っておくことで心の傷を最小限に留められる。

またそれとは逆に、自分のポカの責任は絶対他者に負わせたくない。絶対に負わせたくない。連帯責任という言葉、制度が死ぬ程嫌いだ。「連帯責任?自分がやらかしてもその分の支払いは自分だけじゃなく他の皆が負担してくれるんか!やった!」と思える人は幸せである。そんな強靭なメンタルの人間はあまり見たことがない。言い方を変えれば「自分の無様な一面を全員で共有する」ことになるわけで。その惨めさに耐えられる(というかそもそも惨めという認識がない)人間は、得だなあと思う。いっそ自分の失態のツケを他人に払わせて「ヒャッホウ得をしたぞ」と思えるくらいのクズに生まれたかった。あ、かといってもちろん、私が自分の失態を100%自分でフォロー出来るようなよくできた人間なわけがない。気持ちで負うばかりだ。気持ちの面では120%責任を感じていても、現実の面は半分もフォロー出来ていないだろう。残りの半分は……?あっすみません死んでお詫びします。

「責任」とはよい通貨である。よい取引道具である。責任をちらつかせれば事は動く。我々は普段、色々な種類の責任があっちゃこっちゃ動いているのを見て「世の中が動いている」と呼んでいる。私たち全てが責任である。歩く責任である。足音が大きい人は多分責任が大きい人。大きな責任の周りには人が集まってくる。うーん。この先の人生、私が大きな責任になることはあるのだろうか。無い気がする。

複雑な仕事をこなす能力はない。遠いところへ旅立つ勇気はない。何かを生み出す才能はない。誰かを隣で支え続ける力量はない。命を守る度胸もない。

 

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